今日はお前んちに泊まりたい

2013年11月3日 年間第31主日
・ 第1朗読:知恵の書(知恵11・22〜12・2)
・ 第2朗読:使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(二テサロニケ1・11〜2・2)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ19・1-10)

【晴佐久神父様 説教】

 昨日の土曜日の夜6時半のミサ、私は大遅刻をしてしまいました。30分も遅れて、7時からのミサになっちゃったんですよ。今日と同じように、昨日は死者の日のミサでもあったので、信者さんがいつにも増して集まってたんですけど、30分お待たせしてしまいました。
 皆さん、熱心にロザリオのお祈りをして待っていてくださって、ミサ後も、誰も何も言いませんでしたけど、ホントに冷や汗というかですね、申し訳なかったなあと。
 昨日は、札幌のカトリック真駒内教会(※1)の、「献堂50周年の記念ミサならびに講演会」というのを頼まれて、行ってきたんです。
 本来、土曜日はなかなか難しいんですよね、講演会を引き受けるのは。それでも、第一土曜日の入門講座は私の担当ではないので、「第一土曜日の、夜の6時半のミサまでに帰れるなら」ということでお引き受けしたんですけど、朝9時半からミサをして、その後講演会、食事せずに12時半に出れば間に合うかと思ったら、北海道、遠いですね、6時間じゃ帰って来られませんでした。
 ってことで、30分も遅く始まったので、「今日はお説教はナシです」ってことにして、ひと言だけ、「その代わりに、このミサで、死者の声に耳を傾けてください」とお話ししました。
 「亡くなった皆さんの家族、親族、友人、天に生まれていった大勢の方たちは、いつも皆さんに語りかけている。皆さんをちゃんと見守って、いろいろ導いたり、励ましたりしている。けれども、皆さんはいつもはそれに気づいていない。だから今日は、説教に代えて、このミサの中で、その方たちの声を聞いてください」と。

 なかなかこれはいいな、と思ったし、今日もそう言って説教終わりにしてもいいんですけど。でもね、実際、死者たちは、本当に皆さんに何かを語りかけたいんじゃないですか。こうしている今だって、死者たちは、この私を通して何か言いたいんじゃないでしょうか。
 昨日は、そう言って司祭席に座り、ひととき、沈黙の時間を持ったんですが、みんな思ったんじゃないですかね、「亡くなった私の父は、あの母は、今、私に何を語ってるんだろう・・・」と。
 もちろん、生前語ったことなら覚えてますよ。でも、そんな話じゃない。「生前語ったことを思い出せ」って言ってるんじゃない。「今」ですよ、今。天に生まれて行ったその人が、この、「今」悩んでる私、「今」いろいろ迷ってる私、「今」また自分もね、天に召されようかとしている、そういう準備期間を歩んでる私たちに、「今」何を語ってるか。
 きっと語ってるはずなんですよ。天に行ったら、もう昔のことみんな忘れちゃってね、時々思い出して、「最近うちの子、どうしてるかしら。あらまあ、ずいぶん悩んでるみたいねえ」とか、そんなまぬけな話じゃないと思う。天は、この世の時間も空間も超えてますから、そして神の愛に満たされてますから、いつだって、私たちが眠ってるときだって見守っていて、彼らだけが知ってる上手なやり方で、私たちに、何かちゃんと伝えてると思うんですよね。こういう死者の追悼のミサの日は、特にその声に耳を傾けたらいいんじゃないですか。その声は何を語っているか。おそらくは、まずは励ましてくれていると思います。真の希望を語ってくれていると思います。
 「だいじょうぶだよ。あなたも救われているよ」と、「心配しなくても、ちゃんとうまくいくよ」と。

 羽田空港の書店で、チラッと見た本に、『心配事の9割は起こらない』(※2)っていうタイトルの本があって、いいタイトルだなと思いました。今こうやってしゃべりながら、買っとけばよかったとも思う。だって、私、ホントにそう思うし、9割どころじゃなく、本当のところを言うと、実は10割起こらないと思う。だって、心配していることって、結局空想ですから、その通りになるはずはない。実はそんなことは決して起こらないんです。私たちが勝手に空想を膨らまして、勝手に怯えてる。恐れはすべて、私たちの思い込み、考え過ぎが引き起こしているんですよ。明日を思い悩んじゃいけないんです。
 それに、たとえ何が起こっても、その時「ああ、もうダメだ!」と思ったことが、その後、「でも、それがために、こんないいことが!」に結び付いて、「すべては、神さまの摂理のうちにあったんだ」と気づいたってことがいっぱいあるでしょ? もちろん、「ああ、もうダメだ!」と思ったときは、10割、「もうダメ!」と思ってる。でもそれがその後、10割、恵みに変わったりする。
 そういうことを経験しているうちに、だんだん真理に気づいていく。何か心配事や恐れることがあっても、それは、実は10割起こらない。なぜならそれはあなたの(・・・・)考えにすぎないから。・・・10割起こってるのは、「神の」考えなんですよ。
 われわれは、そうは言ってもね、いつも目先のことで心配して動揺するから、天の、その「神の10割の思い」を知っているあなたの親しい家族が教えてくれるわけですよ。
 「だいじょうぶ! それ、だいじょうぶよ」「そんなに心配しないで」「そんなことで泣かないで」「そんなにビクビクしないで」って一生懸命言うわけですよ。それを、空の上から声掛けるわけにもいかないけれど、どうしても伝えたいからこそ、いろ〜んなかたちで、特にみ言葉を通して、教会の教えを通して、こんな説教を通してでも伝えてくれる。一番はやっぱり、祈りを通してでしょう。心を澄ませて心を開けば聞こえてくる、あの人、その人の、その励ましの声。それを聞いてほしい。
 やっぱりそういうのって、一司祭があれやこれやしゃべるのも、まあ、役に立たないとは言わないけれど、やっぱりあの親しい友人が、あるいは、私をあれほどに愛してくれた母が、私を生み育てて私をあれほどにちゃんと守ってくれた父が、天で語ってくれる言葉っていうのは、究極、強いじゃないですか。それをね、今日、聞いてほしいと思うんですよ。

 真駒内でもね、・・・「真駒内」って、ご存じですか(※3)? 札幌から、地下鉄で20分くらいの所にある。「50周年」っていうんだから、まあ、戦後、ちょうど第二バチカン公会議(※4)が始まった年に造られた教会っていうことですから、どちらかというと、若い教会っていうことでしょうけれど、50周年を記念しての講演です。で、ちょうど昨日は「死者の日」だったんですけど(※5)、ミサはその日のミサをということで、「死者の日」のミサとして捧げました。
 真駒内教会でも、もうすでに、その教会創立の頃の人たちはみんな、たぶん天に召されているわけですよね。そういう人たちが、50周年の、「今日」の皆さんに、何を語っているか聞いてほしいと、そういうお話を、真駒内でもしてきたところです。耳を澄ませば聞こえてくるはずだと。
 札幌にいる私の叔父の奥さまが、先月10月に友人の葬式に出たんですけど、その葬式が、たまたまカトリック真駒内教会であったんですね。そこで、晴佐久神父が来月来るって知ったわけです。ポスターが貼ってあったんですかね、「晴佐久神父来たる!」みたいにね。(笑) 「11月2日、記念ミサと講演会」って。
 彼女にしてみたら、私は義理の甥っ子になるわけですけど、それじゃあ、いい機会だからということで、お友だちをひとり連れて、聴きに来てたんですよ、昨日。うれしかったですねえ。叔母にそういうふうに講演会でお話をするなんていう機会、まずないので、私、うれしくて、熱心にお話しました。彼女もすごく喜んでくれました。
 そんなとき私は、その「お友だち」っていう人にね、ぜひ福音を聞いて欲しいって思うわけですよ。・・・だって、これ、すごいご縁でしょ? 「たまたま友だちの葬式に行ったら、甥っ子の講演会があると知った人が、その講演会に自分の友人を連れて来た」ってことですから、相当な偶然ですよねえ。でも、それもきっと、その友人の親しかった方で、今は亡くなった方が導いてくれたんじゃないですか。
 私はそのご友人と会うのは初めてでしたけど、そのご友人の、今は天に生きている親しい方が、一生懸命、上手にね、この友人を導いて、この講演会に連れてきて、自分の言いたいこと、伝えたいこと、励ましたいことを、講師の口を通して語ってるんじゃないかって思ったし、そういうことに、自分は用いられてるんじゃないかって、そんな気持ちになったんですよ。
 偶然の不思議なつながりのようでも、実はそこに摂理が働いていて、神は福音を語っているし、天の人たちだって、「だいじょうぶなんだ。恐れるな!」って、なんとしても言いたいんですよ、私たちに。
 今日のミサだって、そういうミサじゃないですかねえ。

 北海道に行くと、ちょうど先月、新司教が誕生したっていうことで(※6)、まあ、大変みんな喜んでいてね、その司教さまのカードを「これをぜひ!」って渡してくれた人もいて、いろんな方が、新しい司教の話をしておりました。
 私はこの司教さんと、神学校時代、1級上ということもあって親しかったので、とてもうれしかったですけど、でもある意味、この司教さん、どちらかというと、「司教」っていうタイプじゃなかったんですよ、私の感覚では。
 私の1級上、2級上、3級上くらいが、今、ドーッと司教なんですけれど、この人たちはもう、み〜んな、神学生時代から司教みたいだった人たちです。(笑) 当時からみんな立派な神学生で、神学生時代は私、この人たちからよく叱られました。まあ、「叱られた」っていうとなんですね、「育てていただいた」って言うべきですね。(笑) 「はれれちゃん、そこ、変えた方がいいよ」とか、「それ、ちょっとまずいよ」とか、「もっとこうしなよ」とか、いろいろと言われました。
 ただ唯一、この勝谷神学生からだけは、何も言われた記憶がないというか、そういう、人に意見するタイプじゃないんですよ。どちらかというと意見される側というか。とっても自由人でね。アウトドアが大好きでね、部屋の中にテント張って暮らしてましたよ。(笑) いや、ホントですよ。そういうのが好きなんですよね。
 私、この新司教、このたびフランシスコ教皇が選ばれたっていうのと、ちょっと、なんとなく似通ったものを感じます。何かこう、上から目線で人を指導するとか、意見を言うんじゃない。もちろん、それは大事なことですよ、そうすることが必要なこともあるでしょう。でも、まずは、そうじゃなくって、まったくおんなじ立場で、おんなじ目線でものを言う。新しい教皇フランシスコが、そういう庶民派だっていうのは、先週お話しました。で、今度の勝谷司教も、まさにそういう、何か上から目線で指導するとか、導くとかいう感じじゃなくって、みんなと一緒にやっていくっていうタイプなんです。でも、それ、イエス・キリストの秘密なんじゃないですか。

 イエス・キリストは、今日の福音書で言えば、たとえばザアカイにね、「今日、お前んちに、泊まりたい」って言いだすでしょ。これはもう、ホントに同じ目線なんですよね。何かこう、「罪人を助けてやろう」とか何とかっていう以前に、ザアカイとしっかりつながってるんですよ。罪びとと呼ばれていて、みんなから嫌われていて、背が低くって、後ろの方でピョンピョン飛びあがってもイエスさまが見えなくって、木の上に登ってでもイエスに会おうとする、この金持ちのザアカイ。どんな人だったのか、なんとなく私にはイメージがありますけど、なぜこんな大勢の群衆がいるのに、イエスはこのザアカイに声をかけたのか。・・・まさにイエスは、このザアカイが好きだったんですよ。こういう人が。この人と膝交えて、同じ目線で語りたいっていう思い。
 キリスト教って、やっぱりこう、崇高なもの、荘厳なものを思い浮かべちゃうかもしれないけど、ものすごく、実は庶民的で、イエスは、神はそのような方だってことを身を持って、私たちに教えてくれた。
 なんと、あのイエスが、この私に、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」なんて、言ってくれる。ここにキリスト教の秘密があるわけでしょ?・・・皆さんのことですよ。イエスさまは、皆さんの所に行きたい。その罪深いあなた、その今悩んでるあなた、その今疲れ果てて何も考えられないようなあなた、救いを求めて、コンプレックスを抱えて、ピョンピョン飛んでるような、そんなあなたのところに、イエスさまはどうしても、「今日行きたい」と。で、来るわけです。イエスさまは、そうしてやって来て、「今日ここに救いが訪れた」っていう宣言をする。
 ザアカイはそれまで、死んだ世界を生きてたんだと思う。お金持ちで、いっぱいいいもの食べて、いい暮らしをして生きてたんだけれど、それは死んだ世界だった。
 ある意味、これは私たちのことでしょう。それなりに稼いで、それなりに生きて、それなりに飢え死にするわけでもなく、それなりに今の日本で暮らしている。食べて、飲んで、毎日、なんかこう生きている。だけど、そこにもしイエスがおられなかったら、それは「死んだ世界」なんですよ。
 イエスはザアカイの所に行って、神の愛、永遠の命、イエス・キリストご自身という救いをもたらした。わざわざザアカイの家に入って行き、そこに救いをもたらす。そのときザアカイは、「私は神から語りかけられた」「神の目に留まっている」「神からちゃんと眼差しを掛けられている」っていうことを知ったし、当然ザアカイは、「もう財産はいりません。半分は施します」って。
 「半分」ってすごい額でしょ? まあ、「ぜんぶ」って言わないところが(笑)微妙ですけど、半分でもすごいですよね。「半分施します」って言う。
 そしてきっと、いろんな人からだまし取ってたりもしてたんでしょう。まあ、それも「死んだ世界」ですよ。人の苦しみなんか気にも留めずに、みんなからだまし取ったりしていた。そのことをザアカイは改心して、もう「4倍にして返す」って。もうそれは、ザアカイにとっては、新しい命の世界の始まり。イエスを宿した世界、イエスと共にあって永遠の命に向かう世界、「もうこの世のものはいりません」っていう世界、そういう世界に、ザアカイは導き出された。

 今、死者たちは、まさに私たちにそれを語りかけてると思いますよ。イエスのように、「今日はぜひ、お前んちに泊まりたい」って言って、やって来る日なんですよね、今日。
 お盆なんかはね、日本では死者が来て、またお帰りいただくっていう、そういう習慣ですけれど、ある意味、このカトリックの追悼ミサも、お盆のような、いや、お盆どころか、ホントにこの神の世界の恵みを、亡くなった方がちゃんと持って来て、死んだように生きている私たちに、いのちの世界をもたらすっていう、そういう日です。
 もちろん本来はイエスがそうなさってるんだけど、それを、イエスと一つになっている、今は天にある人たちがやってくれている。これ、信者であろうとなかろうとですよ、もう、みんな神さまの世界に生まれてくんだから。そしてみんなもう天ではイエスと一つになってるんだから。皆さんの、亡くなったあの方、この方が、今日、皆さんに、「もうそんなこと、とらわれなくていいよ」と、「この世のものは、消えてくよ」と。
 さっきの第1朗読にあったとおりです。
 「御前(みまえ)では、全宇宙は(はかり)をわずかに傾ける(ちり)、朝早く地に降りる一滴(ひとしずく)の露にすぎない。でも、全能のゆえに、神さまは、すべての人を憐れみ、存在するすべてのものを愛してくださる。お造りになったものを何一つ嫌われない」(cf.知11:22~24)
 いや~、うれしいね。安心してくださいね。この宇宙をお造りになった神さまが、この私を嫌っていないんです。であるなら、もう百人力、千人力ですよ。・・・神が味方。そのことを、イエスはやって来て教えてくれた。だからもう、この世のさまざまな物、情報、私がとらわれている、あれやこれやは、手放したって構わない。だいじょうぶなんです。まあ、「ぜんぶ」とは言わず、まず半分くらい、なんか、いろんなとらわれがあるなら、半分くらい手放しちゃったら、ずいぶん楽になるんじゃないですか?
 「この世で手放しても、天ではすべてが満ち満ちているよ〜!!」って、天にある方々が教えてくれます。

 今日、皆さんが申し込まれた、大勢の方のお名前を奉献文の中でお読みしますけれど、そのお名前は、私たちが呼んでいるお名前なんですけれど、でもそのときに、向こうからですね、呼んでいる声っていうのも、聞えてきてほしいです。皆さんの名前をですよ。
 来週帰天7周年を迎える私の母も、私を呼んでるでしょうね。
 「昌英、昌英、だいじょうぶよ。ぜったいに、だいじょうぶだから。心配しちゃだめよ。守ってるからね」、・・・そんな声を聴くミサとして、お捧げします。


【 参照 】

※1:「札幌のカトリック真駒内教会」
・ カトリック真駒内教会
  所在地: 札幌市南区真駒内上町4丁目8-1
  → 「カトリック真駒内教会」 公式ホームページ
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※2:『心配事の9割は起こらない』
・ 『心配事の9割は起こらない: 減らす、手放す、忘れる「禅の教え」』(単行本)
 著者: 枡野 俊明(ますの しゅんみょう)
 出版社: 三笠書房
 発売日: 2013/8/22
 単行本: 222ページ
 ISBN-10: 4837925081
 ISBN-13: 978-4837925088
 価格: 1260円
 参考: ( Amazon ) ( 楽天ブックス
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※3:「真駒内」
(Googleマップ>大きな地図で見る
 
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※4:「第二バチカン公会議」
・ 第二バチカン公会議(1962年〜1965年)
 ローマ教皇ヨハネ23世のもとで始まり、後継のパウロ6世によって施行されたカトリック教会の公会議。
  (参考)
  女子パウロ会「Laudate」 : 第二バチカン公会議から50年 「第二バチカン公会議について
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※5:「死者の日」
・ キリスト教で、亡くなったすべての人を記念し、祈りを捧げる日。
 カトリックでは、教会の典礼暦で、毎年11月を「死者の月」とし、11月2日を「死者の日」としている。
 (参考)
  ・ カトリック中央協議会 : 「死者の日
  ・ 女子パウロ会「Laudate」 : 教会カレンダー「死者の日
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※6:「新司教が誕生した」
・ 2013年10月14日(月)ベルナルド勝谷太治師 司教叙階
 ( 写真と略歴、叙階式の様子 )
  カトリック札幌司教区 → ベルナルド勝谷太治師 司教叙階式
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2013年11月3日 (日) 録音/2013年11月9日掲載
Copyright(C) 2013 晴佐久昌英