地獄も天国に

2016年3月13日 四旬節第5主日
・第1朗読:イザヤの預言(イザヤ43:16-21)
・第2朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ3・8-14)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ8・1-11)

【晴佐久神父様 説教】

 有名なエピソードを読みました(※1)
 読んでいて、ふと気になった所があります。イエスさまが、突然身をかがめて、地面に何か書いておられますね。これ、何書いてたんでしょう? ・・・気になりますね。何を書いていたかは聖書に記されていない。だから正解もないんですけど。「身をかがめて、地面に何か書き始め」(cf.ヨハネ8:6)、しつこくみんなが問い続けると、身を起こして、 「罪を犯したことのない者が、この女に石を投げろ」と言って、「また身をかがめて、地面に書き続けられた」 (cf.ヨハネ8:7) 。・・・2回繰り返して書いてある (cf.ヨハネ8:6-8) (※2)
 「何か特別な(わけ)があるんだろうな・・・」とは思うけれども、よく分からない。それで、たとえば「ここにいた人たちの犯した罪を書いていたのだ」なんていう説もある。・・・これ、怖いですね。(笑) どうですか、皆さん。いろいろ書かれちゃいますよ、全部書き終わらないくらい。だけど、そういうことをするイエスもなんだか意地悪というか、イエスらしくないような感じもします。

 私、よく会議のときに、いたずら書きするんですよ。プリントにね、ボールペンで、ちょこちょこと、何か描く。まあ、大抵は正面の人の似顔絵を描いてるんですけど。(笑) 司牧評議会なんかで、私の正面に座らない方がいいですよ。(笑) で、退屈なときは似顔絵で済むんですが、時々ね、何かイヤ〜な気持ちになってくる会議っていうのがあるんですよ、世の中には。 何ていうんでしょう、・・・愛のない議論っていうか、自分を守ろうとするだけの言い争いというか、建設的じゃない、閉鎖的な話し合いっていうような会議。・・・時には、プライドとか、嫉妬(しっと)とか、怒りとかに支配されている会議すらある。
 そんなところに居合わせるとね、心がモヤモヤしてきますから、そんなときは、ボールペンで筆文字のように丁寧に、ありがたい言葉を書くんです。・・・それこそ、心を落ち着かせるために、筆でお経を書いたりする写経みたいに、丁寧に丁寧に、「
神は愛」とかね、そういう言葉を書く。・・・何でしょう、「優しくなる言葉」っていうか、「真実なる言葉」っていうか、何か悪い思いに満たされている、それこそ、悪霊が支配しているような現場に、人を救う美しい言葉を、ちゃんと置いておきたいとでもいうような、そんな気持ちで。
 イエスを陥れようとする悪意でやって来た人たち。しかも、姦通の現場から引きずり出してこられた女性が目の前にいる。その人の心の痛みなんか、誰も考えていない。ただもう、自分たちの保身と、怒りと、利害関係だけに支配されているようなその現場で、イエスさま、かがみこんで、何を書いてたんだろう。・・・まあ、気になるところですけど、私は何となく、「神は愛」とか、「すべての罪はゆるされる」とか、「あなたも聖なる神の子だ」とか、・・・何かシンプルで美しい、福音の言葉を書き連ねてたんじゃないのかなと、想像いたします。

 イエスさまの、この最後の宣言は、今日、ここにお集まりの皆さん一人ひとりに語り掛けられた宣言です。
 「わたしもあなたを罪に定めない」 (ヨハネ8:11)
 イエスさまが、そうおっしゃる。
 天地を支配する、すべての人を裁くことがおできになるイエスさまが、「あなたを罪に定めない」。・・・この聖書の言葉に、私は励まされます。到底ゆるしてもらえないような、あのこと、このことを思い起こしつつ、それでも、イエスさまが、「わたしはあなたを罪に定めない」と、そう言ってくださるので、勇気を取り戻して、元気を取り戻して、安らぎを取り戻して、そして、「わたしもあなたを罪に定めない」と誰かに言おうという気持ちになる。
 ・・・やっぱり、まず「神さまのゆるし」があってね、そこから、何か素晴らしい創造の(わざ)が始まるんじゃないですか?

 『あん』っていう映画をご存知でしょうか。このたび、カトリック映画賞を差し上げることになりました。私、その映画の授賞理由を、 映画賞授賞式で述べたりするんですけれども、この映画を、ぜひ皆さんにも観てもらいたいなあと思います。
 授賞式兼上映会が、5月5日に、「なかのZEROホール」であります(※3)
 「あん」っていうのは、どら焼きのあん(・ ・)のことなんですけど、どら焼きやさんの店長さんと、そこを訪れるおばあちゃんのお話。おばあちゃん、そこで働きたいって言い出す。そのおばあちゃん、実はあんを作るのがとっても上手で。・・・まあ、そんなようなお話なんですけれどね。
 私、この映画を、みんなと一緒に選んだわけですが、授賞式で授賞理由を述べるときに、ホントに、皆さんに申し上げたいことがあるんですよ。それは、「ゆるし」の素晴らしさです。この主人公は、すごく過酷な境遇にあって、差別もされて、とてもつらい人生を生きてきた。大変理不尽な目に遭ってきたし、この映画の中でも、ホントにかわいそうな、差別、偏見に、襲われるわけですね。でも、この主人公は、それをぜんぶ静かに受け止めて、そして、・・・ゆるしてるんですよ、みんなを。
 ただ恨みに思うとか、ただ自分の境遇をはかなむとかじゃなくって、ぜんぶ受け入れて、そして、ゆるしてるんです。これはキリスト教の映画ではないですけれど、ホントにキリスト教的だなと、そういう思いで選びましたし、そのことをみんなにも、一般の方たちにも分かってもらいたいな、と。「すべて、 ゆるすところから始まる」ってことを。
 ・・・キリスト教ってやっぱり、「ゆるす」宗教なんですよね。
 「十字架の上で、イエスさまが、自分に釘打った人をゆるした」 (cf.ルカ23:33-34) (※4)、そこから始まった宗教ですから、徹底して、「わたしもあなたを罪に定めない」 (ヨハネ8:11) って言います。「こんなひどいことをされた」「自分は、ここまで踏みにじられた」、そんな思いがあったとしても、それでも「ゆるす」。・・・「わたしもあなたを罪に定めない」と、そう言い続ける。
 この主人公を演じているのは、樹木希林さんなんですね。・・・名演です。
 で、この授賞式に、樹木希林さんが来てくださるんですよ。なんと、上映後は、晴佐久神父との対談もあるんですよ。これ、ちょっと見ものじゃないですか? 飄々(ひょうひょう)とした方でしょ。彼女の対談を見かけることがあるんですけれど、大抵、対談相手が振り回されているんですね。だから今回も、ステージ上で、樹木希林に純情な神父が振り回されるっていう、(笑) まあ、そういうことにしようかな、 と思ってるんですけど。
 樹木希林さんの、あの飄々とした演技がね、ぴったりなんですよ。・・・ すべてを受け止めてね、そして、すべてをゆるす主人公の生き方。

 第1朗読(※5)に、「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな」(イザヤ43:18)っていう一節がある(※6)。神さまがそう言ってるんですよ、ありがたいですね。
 私たち、振り返ったら、惨憺(さんたん)たる記憶があるわけでしょ。「それをぜんぶ思い出したら、もう到底、夜眠れない」っていうような、「もし、それが罪に定められるんだったら、決して天国なんか行けやしません」っていうような。・・・でも、その「初めからのこと」を、「思い出すな」って言ってくださる。「昔のことを思いめぐらすな」って言っていただける。
 そして、神はこう言う。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか」 (イザヤ43:19/強調引用者) と。・・・神さまが、すべてを(・ ・ ・ ・)清めてくださる。すべてを(・ ・ ・ ・)ゆるして、癒やして、受け止めて、「新しいこと」を始めてくださる。これには、励まされますね。
 こういう神さまの徹底した愛、「わたしはあなたを罪に定めない」(cf.ヨハネ8:11)という宣言によって、私たちは生きていけるわけですね。それがなかったら、生きてこれなかったし、生きていけないし、誰一人天国になんか行けやしない。でも、神さまは、今日も、「わたしはあなたを罪に定めない」って言ってくださる。
 私たち、この言葉を聴くべきだし、聴かない人たちにも聴かせるべきだし、 まあ、「神さまが、『あなたを罪に定めない』って言ってますよ」って言うだけじゃなくて、私たちもね、神さまと一緒に、「私もあなたを罪に定めませんよ」って、そうお互いに言い合うような。・・・もう、それこそ、ほとんど神の国でしょうね。

 第2朗読(※7)では、 パウロが、「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」 (フィリピ3:8) って言ってますけど、パウロはもう、「昔のことを思いめぐらし」 (cf.イザヤ43:18) たら、到底生きていけない人なんですよね。彼は、キリスト教徒を捕まえて殺しておりました(※8)
 しかし、「そんなあなたをゆるす(・ ・ ・)」と言ってくださった「キリスト・イエスを知って、そのすばらしさに、今では他のことはすべて損失だと思ってる」。・・・これ、私たちの信仰の基本でしょ。
 私も含めみんな、ゆるしてもらってるんですよ、イエスさまに。だから、この「イエスを知ること」とは、「イエスのゆるしを知って信じること」ですし、それ以外の他のことは、大したものじゃない。
 パウロ、最後に言ってましたね。13節、
 「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、目標を目指してひたすら走ること」(cf.フィリピ3:13-14)
 もう、後ろを向く必要がない。なかなか忘れることはできませんけれども、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けよう」と。そうでなければ、パウロは生きてこられなかったし、パウロの意味もなくなっちゃう。もう、イエスと一つになり、前のもの、すなわち神の新しいみ業を、精いっぱい生きていく。「神の国」という「目標を目指して、ひたすら走る」。もうそれが、既に始まっていることを、パウロは宣言して回りました。

 この女性、「わたしもあなたを罪に定めない」 (ヨハネ8:11) と言われて、ホントにうれしかったでしょうし、「もう罪を犯すまい」って、きっと思ったことでしょう。ただのおきて(・ ・ ・)や脅しだったら、なかなか、そう思えないことも、ぜんぶゆるしてもらうと、「それじゃあ、新しい人生を生き始めよう」って思うものです。
 ・・・でも、人間は弱い。また、同じことを繰り返してしまうかもしれない。
 また同じことを、この女性がしたとして、また引きずり出されてきて、「今度はどうだ!」って、ファリサイ派に、律法学者に言われたら、イエスは何て答えるでしょう。
 ・・・決まってますよね、彼が言うことは。前のときよりも、いっそう優しいまなざしで、前のときよりも、 いっそう温かい声で、
 「それでも、わたしはあなたを罪に定めない」
 そう言うに決まってますよね。そう言わなかったら、もはや、イエスではない。救い主ではない。
 先週の放蕩(ほうとう)息子のたとえ(※9)で言えば、あの放蕩息子、たぶん半年後に、また出て行きますよ。(笑) そしてまた帰って来たら、あの父親、以前にも増して強く抱き締めて、以前よりもさらに豪華な宴会を開くんじゃないですか? そのような忍耐、そのような、まったく無条件な愛によってのみ、私たちは生きてくことができる。そうでなければ、全員、地獄行きですよ。・・・「全員(・ ・)」です。
 この世の誰が、この神の完全なるゆるしなしに、生きていくことができるか。
 ・・・あり得ない。・・・100パーセント、あり得ない。
 「神さまは、最終的には、すべてをゆるします」
 「だから、あなたは必ず救われる」
 私は、そう宣言し続けてまいりましたし、まあ、いろんな神学、いろんな疑問、いろんな解釈、・・・まあ、いろんなことを言う人がおられますけれども、私はこれからも、目の前に現れる罪びとに、・・・まあ、全員がそうですけどね、 「それでも、あなたは必ずゆるされる」「あなたは必ず救われる」と、宣言し続けていきたいと思っております。

 先々週、一冊の新書が出版されまして、『キリスト教のリアル』っていうタイトルの新書です(※10)。ポプラ新書っていうところから出ました。「キリスト教のリアル」っていう意味は、日本人はあまりよくキリスト教の現実を知らないので、「リアル」なキリスト教はどんなものか、日本のキリスト教、キリスト教会は、どんなものかってことを、まあ、何ていうんでしょう、・・・いわゆる「ぶっちゃけ」で書こうっていう趣旨で、帯には、「知られざる 牧師・神父の謎」とかって、(笑)書いてある。
 その中身の後半は、3人の牧師と1人の神父が、わいわいとまあ、好き勝手なことをしゃべっていて、その「1人の神父」っていうのは私なんですけど、4人でしゃべり散らかしている。・・・で、私、いい機会だからと思って、いろいろ語ったんですよ、・・・私なりの福音をね。だけど、その箇所はなぜかカットされてるんです。(笑)
 ・・・ただ、その対談の一番最後のところで、司会役の人が、「『神さまを信じないと、天国には行けない』と、そう教えている牧師や神父もいますよね?」って言って、私の顔を見たんですね。・・・明らかに、「それに関して発言したいんじゃないですか」っていうような感じで。もちろんそれは、多くの日本人の疑問でもあります。「神を信じない人」や「他宗教の信者」はどうなるのか。「だれが天国に行けるのか、行けないのか」。「うちの死んだおじいちゃん、どこにいるのか」、・・・それはまあ、気になる所でもありますから、まあ、そういうことについて、どう考えてるのか、みたいな質問です。
 私は、もう当然、「ここぞとばかりに」、はっきり申し上げました。
 「私は、『あなたは必ず(・ ・)救われる』と、いつも語ってきた。・・・あなたは、必ず救われる。『それがホントかどうかは、死ねば分かりますよ』と、そうも言ってきた。そして、やがて天国に行って皆さんに会って、『ほ〜らね、やっぱりみんな来たでしょ♪』と、そう言いますよ」と。
 これは私の、ホントの楽しみです。全能の神が、すべての人をゆるし、すべての人を受け入れてくださるその日を待ち望みます。生きてる間にそのことを知って信じることが、私たちにとってのこの世での救いであり、新しい人生の始まりであり、神の国への道なんです。
 ・・・これはやっぱり真実でしょう。すべての人が知るべきですし、「イエスさまが(さば)く」っていうんであれば、それは「すべての人をゆるす」という、そういう「神の愛の裁き」以外にあり得ない。
 「イエスさまの厳しい裁きによって、自分は救われないかもしれない」って思うとしたら、それを、日本語では「恐れ」っていうんであって、「信仰」とは呼ばない。・・・「自分を厳しく裁く方を信じる」、これ、語義矛盾という。「『私は救われる』と信じる」というのを、「信じる」というのです。「『イエスさまは必ず救ってくださる』と信じる」というのが、「信仰」です。
 その人が、たとえどのような人であろうとも。・・・ならば、目の前にいるこの人も、救われる。これ、当たり前のことです。だから、私は、はっきり言う、「あなたは必ず救われる」と。
 ・・・そこは載っていたからね、ちょっとうれしかった。(笑)

 一人の牧師が、それに加えて、面白いことを言ったんですよ。
 「ルターの言葉に大好きな言葉がある。『もし、私が地獄に送られるなら、喜んで行きます。なぜなら、そこにもキリストはおられるからです』」と。
 ルターがそう言ったんですって。・・・なんか、ルター、いいやつじゃないですか。(笑) 好きになりましたよ、このひと言で。
 で、私、「そう言えば、マザー・テレサも似たようなことを言ってましたよ」って応えてるんですね。
 マザーはこう言った。
 「私が聖人になるならば、暗闇の聖人でしょう。なぜなら、天国を留守にして、闇の中に光を灯して歩くに違いないから」
 ・・・いいですねえ。・・・「天国を留守にして」。だからもう、地獄の底にまで、キリストの光を灯しに行く。
 「ああ、いい言葉ですねえ」って、その司会役の人が言うんで、私がこう言ったんですね。
 「そうして、みんな地獄に一緒にいるなら、地獄も天国になっちゃうんじゃないですか?」
 ・・・って、こんな1行で、この本、終わってんですよ。(笑) この、最後の5行でいいです、この本読むの。(大笑)
 地獄も天国になっちゃうんじゃないですか? そこにはルターもいて、マザー・テレサもいて、・・・キリストもおられるなら。

 「あなたは必ず救われる」っていう宣言を、特に洗礼志願者の皆さんには、私、はっきり宣言してまいりました。昨日の入門講座でも、「晴佐久神父の話は断言だから好きだ」って言ってくださった方がいましたけど、もう、断言の二乗くらい断言したい。
 「あなたは必ず救われます」
 神は全能だから。
 神は愛だから。
 「わたしはあなたを罪に定めない」とイエスさまが言ってくださるから。 (cf.ヨハネ8:11)
 ・・・あなたは、必ず救われます。
 洗礼式ってね、すべての罪がゆるされる式なんですよ。それはまさに、イエスさまと一つになること。神さまの救いの業に(あずか)ること。
 そうして、洗礼式の翌日に、また、皆さん、罪を犯すのです。(笑) そして、次の日曜日の、再洗礼とも呼ぶべきミサで、また、福音を聞く。
 「あなたは必ず救われる」
 「わたしはあなたを罪に定めない」
 繰り返し繰り返し聞かされて、私たちは、毎日新しい人となって、勇気を持って、神の国に歩んでまいります。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「有名なエピソードを読みました」
2016年3月13日(四旬節第5主日)の福音朗読箇所
 ヨハネによる福音書8章1〜11節
  〈小見出し:「姦通の女」〉
************
【 あらすじ 】
 イエスは、神殿の境内で、ご自分のもとに集まった民衆に教え始められた。そこに、律法学者やファリサイ派の人々が、イエスを訴える口実をつくるため、姦通の現場で捕らえた女を連れてやって来て、次のように質問した。
 「こういう女を、モーセは石で打ち殺せと律法で命じているが、あなたはどう考えるか」
 イエスは身をかがめ、指で地面に何か書き始められたが、彼らがあまりにしつこく問うので、
 「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と応える。
 結局彼らは皆立ち去り、イエスとこの女のみが、その場に残った。
 イエスは、「わたしもあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない」と、彼女を去らせた。
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※2:「突然身をかがめて、地面に何か書いておられますね。(中略)・・・2回繰り返して書いてある」
 律法学者やファリサイ派の人々から、姦通の女の処断に対する意見を求められたときのイエス。
************
(「2回繰り返して書いてある」)
「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。 (ヨハネ8:5〜6)

② 彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 (ヨハネ8:7〜8)
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※3:「『あん』っていう映画をご存知でしょうか。(中略)授賞式兼上映会が、5月5日に、『なかのZEROホール』であります」
◎「カトリック映画賞」 既出
 カトリックの国際的な団体であるSIGNIS(世界カトリックメディア協議会)の日本組織、SIGNIS JAPAN(カトリックメディア協議会、会長・千葉茂樹氏)が、毎年、前年の12月から当年11月までに、日本国内で制作、公開された映画の中から、カトリックの世界観と価値観に、最も適った作品を選んで贈る賞。本年(2016年)で40回目を迎える。
 晴佐久神父は、同組織の顧問司祭。

◎『あん』 (河瀬直美監督、製作:映画「あん」製作委員会、カラー113分)
 2015年度の「日本カトリック映画賞」に決定。
 国内外で注目される「映画作家」、河瀨直美監督が、ドリアン助川の小説『あん』を映画化。「人は誰かと出会うことによって、ふたたび生き直すことができる。そんな希望が湧いてくる作品」(SIGNIS JAPANプレスリリース)
 来る5月5日(木・祝)午後1時から、「なかのZERO大ホール」(東京都中野区中野2-9-7/JRまたは東京メトロ東西線の中野駅南口から徒歩8分)にて、授賞式および上映会を開催。(>>> 交通アクセス
【チケット販売】
聖イグナチオ教会案内所、スペース セント ポール、サンパウロ書店(四ツ谷駅前)、高円寺教会「天使の森」、ドン・ボスコ社、(カトリック多摩教会にも若干あり)。
SIGNIS JAPAN 事務局 メール申込み info@signis-japan.org(担当:大沼さん・090-8700-6860)
(参考)
・YouTube予告編 YouTube.comで見る

・ 『あん』(オフィシャルホームページ)
・ 「第40回日本カトリック映画賞 「あん」に決定」(SIGNIS JAPAN カトリックメディア協議会)
・ 「授賞理由」(SIGNIS JAPAN カトリックメディア協議会・顧問司祭 晴佐久昌英)〔pdfファイル〕
・ チラシ (クリックで拡大表示)
  
      (チラシ表)          (チラシ裏)
※上の拡大表示より、さらに大きくご覧になりたい方は、シグニスジャパンのサイト内、pdfファイルでご覧ください。 >>> こちら です。
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※4:「十字架の上で、イエスさまが、自分に釘打った人をゆるした」
(聖書:参考箇所)
 
「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです(ルカ23:33〜34/赤字引用者)
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※5:「第1朗読」
2016年3月13日(四旬節第5主日)の第1朗読箇所
 イザヤ書43章16〜21節
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※6:「『初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな』っていう一節がある」
(聖書:参考箇所)
 
初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き 砂漠に大河を流れさせる」 (イザヤ43:18-19/赤字引用者)
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※7:「第2朗読」
2016年3月13日(四旬節第5主日)の第2朗読箇所
 使徒パウロのフィリピの信徒への手紙3章8〜14節
  〈小見出し:「キリストを信じるとは」3章1〜11節、「目標を目指して」12〜21節から抜粋〉
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※8:「彼は、キリスト教徒を捕まえて殺しておりました」
(聖書:参考箇所)
 
「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、 ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」 (使徒言行録9:1-2/赤字引用者)

 「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」(使徒言行録22:4/赤字引用者)

 「至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです」(使徒言行録26:11/赤字引用者)

 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」 (一コリント15:9/赤字引用者)

 「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました (ガラテヤ1:13/赤字引用者)
                                                                 ・・・などなど。
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※9:「先週の放蕩息子のたとえ」
 先週(2016年3月6日:四旬節第4主日)の福音朗読では、ルカによる福音書15章11〜32節の「放蕩息子のたとえ」が読まれた。
(参考)
・ 「当たり前ではないか」(「福音の村」2016年3月6日説教)
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※10:「『キリスト教のリアル』っていうタイトルの新書です」
◎ 『キリスト教のリアル』
  ポプラ新書(081)
 編著 : 松谷信司
〔1976年福島県生まれ。厳格なクリスチャン(改革・長老派)のもとで育つ。キリスト新聞社取締役。「キリスト新聞」編集長。季刊「Ministry」編集長。「いのり☆フェスティバル」実行委員会代表〕
 出版社 : ポプラ社
 発売日 : 2016年3月1日
 単行本 : 221ページ
 定 価 : 842円(税込)
           (クリックで拡大表示)
(参考)
ポプラ社(ポプラ新書「081」)
Amazon
イーショップ 教文館
クリスチャントゥデイ(書評)
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2016年3月13日 (日) 録音/2016年3月20日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英