人間園でコミュニケーション

2015年5月10日復活節第6主日
・第1朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録10・25-26、34-35、44-48)
・第2朗読:使徒ヨハネの手紙(一ヨハネ4・7-10)
・福音朗読:ヨハネによる福音((ヨハネ15・9-17)

【晴佐久神父様 説教】

 先週のゴールデンウィークの最終日、友人と多摩動物公園(※1)という所に行きました。あそこに昆虫園(※2)というのがあって、私、そこの大温室が大好きなんですよ。昆虫園、行ったことありますか? 多摩動物公園の昆虫園に行かずに、死ぬわけにはいきませんよ。(笑)
 ・・・あれは、天国です。最初に入ったとき、ホントに感動して、以来、何度も訪れました。そもそもが、小宇宙好きですから、私。あの明るい温室の中にすべてがコンパクトにまとまっていて、もうそれこそ、本物の天国がちらりと目に見えるかのような、夢の世界です。あの中に入ると、もう、うっとりします。
 ご存じない方、おられますかね。大きなドームのようなガラス張りの温室の中に、多様な熱帯植物が育てられていて、真ん中に巨木が一本生えていて、その周りの坂道を周遊するんですね。川が流れ、小さな滝もあり。そこを、さまざまなチョウが無数に飛び回ってるんですよ。「先月は千何百匹放ちました」とか書いてあったから、全部で何千匹とかいるんじゃないですか。今回は、以前にも増して多く感じましたけど。
 ・・・想像してください。色とりどりの美しいチョウが、あたり一面に舞ってるんですよ。美しい花から花へと飛び交っていて、緑があふれ、水の音が響き、いい香りもして、うっとりするというか、ホッとするというか。・・・チョウ、きれいですしね。昆虫園とはいえ、やっぱりチョウは特別扱いですね。これ、何千匹もハエが飛び回ってる、(笑)温室だったら、こんなに感動しませんよ。「チョウびいきだな、人間は・・・」って思いますけど、まあ、仕方ないですよ。ホントに美しいですから。
 特に、なんていう名前か、瑠璃色(るりいろ)に青く光るチョウいますでしょう? 光の加減で、青の輝き方が変わるやつ。青の色味っていうか彩度っていうか、羽の角度で微妙に変わるんですよね。いくら見てても飽きない。・・・ホントに美しい。
 また、その天国のような昆虫園のお世話をしている、まさに天使みたいな人たちが熱心でね、大勢の職員が働いているわけですよ。・・・まあ、みんなおじさん天使なんですけど、(笑) このおじさんたちが、チョウの餌になる、蜂蜜の入ったお水を各所に継ぎ足して回ったりしてるんです。
 芝生の所にはバッタも住んでるんですけど、ちょうどおじさん天使が、手塩にかけて育てたバッタを、カゴから出して撒いてるところに出くわしました。花咲かじいさんみたいに、バッタをまいてるんです。バッタたちはうれしそうに、飛び回ってね。
 なんか、よくやるなと思います。多摩動物公園、偉いです。ああいうことをずっと続けるっていうのは大変でしょうと思いますし。でも、訪れた人が、中に入るなり、「わ~、すご~い!(´▽`*)」って感動してるのを、天使たちはちょっと誇らしげにチラッと見て、(そうだろ~♪)っていう顔をしているわけですよ。ああいうのって、実は世話してる方が楽しいんでしょうねえ。

 思うに、この世界はですね、まあ、いわばこの昆虫園みたいなものですね。私、つくづく、あの小宇宙でそれを思わされました。「昆虫園」っていうか、まあ、「人間園」ですね、いうなれば。愛する人間たちを、神さまが手塩にかけて育て、巨大温室ならぬ、まあ、この地球上に放って、お世話してるわけですから。であれば、この世界はもう、天国なんですよ。
 だって、たとえば昆虫園だったら、誰かが「こんなふうに美しいドームにしましょう」「こんなふうにきれいな植物を育てましょう」「こんなふうに餌を用意してチョウを放ちましょう」って計画して、それを一つひとつ実行していくわけでしょう。それとおんなじで、この世界は、神さまのご計画で成り立っているんであって、神さまが「このような素晴らしい宇宙にしよう」「こんなふうに人間たちを育てよう」って、この世界を天国のようにしつらえて、そこに人間を住まわせ、守り育てている。
 この「人間園」は、神のご計画どおりなんですよ。もちろん、昆虫園のチョウだってですね、羽が破れてるチョウもいましたし、病気で餌が食べれないなんていう試練があるかもしれません。しかし、全体を見ないと。本質を見通さないと。大きな目で見れば、最終的には絶対にいい世界であるはずなんです。
 人間園だって、悲嘆にくれるような現実は実際にいくらでもあります。だからといって、ただ嘆いているのは、キリスト教ではありません。キリスト者というのは、嘆くにしても、「すでに始まっている天国で嘆いているのだ」という実感を持っている人たちです。大きな目で見れば、そして、しっかりと全体を見回すならば、「神さまの豊かな計画のうちに私たちは生かされてるんだ」っていう実感を持たなくてはなりません。
 神さまは、ちゃんとやってます。間違いは犯していません。人間園を用意して、必要な恵みを惜しみなく与え続けておられる。問題は、私たちがそれをちゃんと見ていない。分かっていない。受け止めていない。・・・つまり、神の愛を知らない。
 知れば知るほど、「これはすごい!」と感動するはずです。「これはどう考えても、私たち、神に愛されている」と、「これほどの恵みの世界が、ただ滅びて終わるわけはない。すべての人が招き入れられる、さらなる永遠の『天国園』が待ってるはずだ」と、そういう真実が、見れば見るほど分かってくるし、感謝と賛美もいや増すし。けれども、私たち、世界の素晴らしさをちゃんと見ていないし、仲間の意味もちゃんと見ていないし、自分の価値もちゃんと見ていない。
 ・・・分かってないんですよね、神さまの働きっていうのを。目を見開いて、耳を澄ませて、心を開け放って、ちゃ~んと受け止めましょう。神さまは、その素晴らしいご計画によって、私たちにご自分の愛を惜しみなく注いでおられる。こうしている今も、皆さんは、どれだけ神さまに愛されていることか。その愛を、私たちは、ひたすらに受け止めます。

 今日のこの福音書(※3)で、イエスさまが、いろいろ、愛について熱心に語っておられます。
 「天の父にどれだけ愛されているか」とか、「その愛にとどまって、お互いに愛し合おう」とか、いろいろ言っておられますけれども、同時に、なぜそれをあなたたちに一生懸命話しているかという動機を語っておられます。なぜこんなことを一生懸命に話して、あなたたちに切々と訴えているかというと、・・・11節、
 「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるため」(ヨハネ15:11)だ。
 ・・・これが、イエスの動機です。
 イメージしてください。イエスさまは、人間としてこの世に生まれてきて、まあ、「人間園」の素晴らしさを、誰よりもよく知っておられるわけです。「神さまが愛されているこの世界」「神さまの愛を注ぎ込まれているこの私」、そういう事実を、イエスは完璧に知っておられるんですね。仮にわれわれが、その1パーセントを知ったり、味わったりできているとするなら、イエスは100パーセント知っている。
 だから、昆虫園程度でも、私の中に、「おお~! これはすごい」って、喜びがあふれますけれども、イエスさまが、「人間園」で味わったその喜びっていうのは、これ、全人類の中で最高の喜び、感動を味わってるはずなんですね、イエスさまは。そこはやっぱり、まことの神の子ですから、この世界を受け止める能力というか、人間の尊さを曇りなく受け止められる開かれた心というのを持っておられるので、神の愛を100パーセント受け止めるわけです。そうすると、そこにあふれてくる喜びは、とてつもないものだったんじゃないですか。
 確かにイエスさまは神さまですけれど、この世にあっては、宇宙人みたいな存在じゃないですよ。生身の人間です。ものを食べ、人と話し、美しいものを見て感動する、この世の脳みそを持ってます。そのイエスさまが、この世で神の愛を100パーセント受け止めたときに、そこに沸き起こる喜びっていうものがどれほどのものかって、ちょっとイメージしてください。
 ・・・イメージできないことじゃないと思いますよ。皆さん、「喜び」っていう感情を知ってるはずですから。それの、完全版みたいなやつです。うれしくってうれしくって、ワクワクしてドキドキして、もう、あふれんばかりのね、熱~い喜びです。聖書の中に、「イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた」(ルカ10:21)っていう個所もあって、喜びにあふれて天の父に祈ってますけど、イエスは天の父との深い交わりの中での究極の喜びを知っておられます。そして、誰もがこの喜びに(あずか)ることができるということを、イエスは知っておられます。だから、
 「なんとかみんなにも、わたしの味わっている、この父と結ばれている喜びを知ってもらいたい。あそこで泣いてる人がいる。ここでも心を閉ざしている人がいる。でも、み~んなに知ってもらいたい。確かにつらいことはあるけれど、しかし(・ ・ ・)、この人間園は、本来喜びの園だ。ここで、あなたたちは、喜びで満たされるために生きているんだ。わたしが今、味わっている喜びを知ってほしい、だから、このわたしとつながっていてほしい。・・・百歩譲って、たとえ1パーセントでもいい、わたしのこの喜びがあなたがたのうちに満ちあふれてほしい」っていう、これがイエスが愛について語る動機なんです。イエスのすべての言葉と活動の動機はこれです。
 イエスは、人を苦しませようとしてるわけじゃない。人を支配しようとしているわけじゃない。
 ・・・喜ばせたいんですよ、あなたを。
 だから私たち、イエスの内にとどまるべきです。イエスの愛と喜びをこそ、分かち合うべきです。「分かち合うべき」というか、分かち合うことができるし、ぜひ、その喜びに与ってください。私たちは、それを知ることができます。第2朗読(※4)にあったように、「愛は神から出るもので、愛するものは皆、神から生まれ、神を知っているからです」(一ヨハネ4:7b)。愛は神から出て、私たちを愛し合う者とし、愛の喜びで満たします。
 イエスは、その喜びをなんとか受け止めてくれと、私たちに、熱~い思いで訴えているのです。

 今日、カトリック教会では、広報の日なんですね。「世界広報の日」(※5)っていう日で、「メディアを用いて、福音を全世界に宣べ伝えましょう」って強調する。・・・とまあ、それはそれでいいんですけれど、その「福音」ってやつが、現代の教会ではなかなか、うまく伝わらない。しかし、そのうまく伝わらない真の理由は、決してわれわれが怠慢だからでも、新しいメディアを上手に使っていないからでもありません。
 この「喜び」を伝えてないからです。だから伝わらない。
 教会自身が喜んでなかったら、そして喜びを伝えていなかったら、誰も来ませんよ。
 教会が、いつも難しい神学議論をして、暗い顔をして「将来が不安だ」って話し合ってたら、近所の人、来ますか? 「私も一緒に、難しい議論したい」「私もぜひ、将来の不安について話し合いたい」(笑)って言って集まってくるわけないでしょ? 私たちのうちに喜びがあれば、その喜びを求めている人たちが、自然と集まって来ます。
 そういえば、今日も先週に続いて、近くの病院からお二人、このミサに来られていますね。うれしいですよ、来ていただいて、ありがとうございます。^^
 ね、お二人だって、この教会に喜びがあるからこうして来てくれるわけでしょう? 来てもちっとも喜べなかったら、わざわざ外出許可まで取って、こうやって来ませんでしょう。ここに喜びがあるから、喜びを伝えているから、こうして皆さんが集まって来るんです。
 「広報」っていうんであれば、広めるべきは、伝えるべきは、その喜びです。福音の喜びです。まずは、「喜ばせたい!」という熱い動機を持って、伝えること。それなしには、どんな情報も無意味でしょう。本当に伝わっているのは、実は内容以前に、動機なんです。

 お手元の『聖書と典礼』(※6)の最後のページに、谷口さんっていう方が、コラムで、この広報の日に寄せて原稿を書いてますけど、高松教区の終身助祭(※7)なんですね。実はこの方、つい先週、「晴佐久神父さんに会いたい」って、多摩教会に訪ねて来られたんですよ。で、そのときに、高松教区の実情などを、まあ、いろいろ話してくださいました。
 確か6年前から高松教区で働いておられるということだったと思いますが、その6年間で、高松教区の信者が、5千人から4千5百人に減ったって言うんですね。年間100人近く減ってることになります。さらには、「高松教区の司教座大聖堂で、受洗者が(ゼロ)のときがあった」と、そうも言ってました。にわかには信じがたい数字です。
 それで、彼が、知り合いの統計調査をやっている人に、そんな資料を分析してもらったら、「この数字だと、30年後には0になります」って。・・・数字は冷徹ですからね。高松教区の信者が、0になるって。このままなら、数字上はそうなると。・・・30年ですって。
 まあ、われらがキリストの教会が、なぜ広まり、またなぜ、しぼんでいくか。これはもう、原因は、私に言わせれば、はっきりしてるんです。「上手にメディアを使ってないから」とか、「もっと信徒を教育しましょう」とか、まあ、何やってもいいんですけれど、一番の原因は、「喜び」にある。
 「私が(・ ・)喜んでいる、この喜びを、ぜひともあなたたちに知らせたい」、この動機がなければ、広報も何もあったもんじゃない。教会が広がるはずもない。
 「イエス・キリストはとても喜んでいるし、私たちもその喜びに与かっているし、その喜びを、ぜひあなたにも伝えたい」、これが、広報の原点だと思う。
 だから、ぼくらは、このミサに集まってることがすでにそうですけど、イエス・キリストにとどまりましょう。イエス・キリストの愛につながって、イエス・キリストの喜びに与りましょう。そういう意味でいえば、イエス・キリストは、最高の広報の担い手ですね。彼こそが、神の愛を私たちに伝える、分け与える、まあ、そういう救い主ですから。
 そのイエス・キリストの広報、まあ、広報というか、双方向のコミュニケーションですね、私たちもそれに与って、少しでもその喜びを受け止めたときにですね、「苦しんでいるあなたにも、この喜びを」っていう動機が生まれ、そのときに、メディアは役に立つでしょう。ソーシャルメディアでも、直接会いに行くでも、その動機さえあれば、意味を持ってくるでしょう。
 もっともっと人間園でコミュニケーションを深め、人間園の中で、もっともっと「神の愛に生かされている喜び」を深めたい。

 谷口さんの文章の最後の方に、去年の教皇フランシスコの「世界広報の日」のメッセージ(※8)が引用されてます。

  教皇フランシスコは、「メディアはわたしたちが互いにより親しみを感じられるよう助け、・・・神の子であると理解するためにあります。コミュニケーションがもつこの力を、わたしは『隣人らしさ』と理解したいのです」と言い、さらに「デジタル世界の市民となりましょう」と呼びかけています。(『聖書と典礼』2015.5.10 p.7コラム「目覚ましいメディア革新の中で-世界広報の日」より)

 教皇のメッセージですけど、コミュニケーションの原点を、「わたしは『隣人らしさ』と理解したい」と。面白い言い方ですね。・・・「隣人らしさ」。
 つまり、親しみ、分かち合い、相手の気持ちに寄り添う、そういう「隣人らしさ」において、コミュニケーションというものが成立する。当たり前っていえば当たり前のことだけど、今のコミュニケーション、どうですかね。ただ事実を伝えることだとか、早く正確に大量に送るだとか、上手に編集して自分の役に立つ情報に変えるだとか、しまいには、自分の主張を通し、自分がどうしても成し遂げたいことのためにメディアを使うとか、そういうことばっかりになっていて、つまり「隣人らしさ」がないんじゃないですか。
 たとえば、「A」という政治家がいたとして、自分の権力を使って、自分の思うとおりにしたい。自分に都合のいい情報だけを流して、世の中をコントロールしたい。そう思って、メディアを使ったり語ったりするとき、その言葉には決して「隣人らしさ」が香らないんですね。それはもう「自分がしたいようにしたい」っていうだけの話であって、「相手を喜ばせるために、この喜びを伝えたい」とか、「あなたの立場に立って、あなたの気持ちを知りたい」とか、そういう「隣人らしさ」っていうものが全く感じられない、死んだ言葉になる。・・・誰か特定のことを言ってるんじゃないですよ。たまたま、「(エー)」って言っただけです。(笑) 「あ」でもいいですよ。(笑) その政治家の言葉には、「隣人らしさ」なんてかけらも感じられないでしょう。でもそれって、広報なんだろうか、コミュニケーションなんだろうか。
 ・・・私、違うと思う。

 実は、この教皇フランシスコのメッセージの、引用した箇所の直前で、教皇は、よきサマリア人のたとえについて触れてるんですね。中央協議会のホームページにありますから、ちょっと読んでみてください(※7と同じ)
 「よきサマリア人」のたとえ、ご存じですよね。倒れているユダヤ人を、人々はみんな見過ごして通り過ぎちゃう、つまり関わろうとしないのに、しかし、「よきサマリア人」は、近づいて、相手と関わって、実際に介抱するわけですよね。で、教皇はこう言ってるんですよ。
 「実際にコミュニケーションを取る人が隣人である」
 考えたら当たり前のことなんですけど、忘れられてることですね。「隣人とは何か」とか言っても、それは定義できることじゃない。「何メートル以内にいる人」とか、「こういう条件にあてはまる人」とかいう話じゃない。実際にコミュニケーションを取る人が隣人になるんだ、と。
 さらには、「コミュニケーションを取る、その力とは、相手の立場に立つ力だ」
 そういうようなことを言ってるんですね。
 「相手の立場に立つ力」によって、その人と実際にコミュニケーションを取るとき、その人との間に通路ができる。で、そこに、愛が流れるんですよ。愛って、つながったら流れるものですから。愛は、充電みたいにたまってるものじゃなく、つながれば流れる、流れの力なんですね。
 「私に愛がある」とか、「あなたに愛がない」とか、そんな言い方はおかしい。「100愛持ってたけど、今日50使っちゃったから、残り50愛だ」、そんなようなもんじゃない。
 「相手の立場に立って」「実際にコミュニケーションを取る」っていう、そのときに、私たちは隣人となり、そこに愛が流れる。

 イエスはそうなさいました。
 町や村に出かけて行って、たとえば町の門から、息子を亡くして泣き崩れているやもめがお(かん)と一緒に歩いてきたときに、「泣くな」と言って、近づいて、手を触れて子どもを生き返らせて、・・・みたいなね(cf.ルカ7:11~17)。わざわざ近づいていって相手の立場に立ち、相手の気持ちを考え、コミュニケーションを取る。そこで、お互いの間に愛が流れ、神のわざが実現する。
 その意味では、私たち、情報をものすごく流し合ってますし、メディアもあれこれと使ってますけど、ホントにコミュニケーションしてますかね。寝る前に、今日一日、相手の立場に立って何かを考え、実際にコミュニケーションを取ったら、そこに愛が流れてうれしかったなんて体験って、なにかあっただろうかって、よくよく思い出してみてくださいよ。一つでも思い出せたら、立派なもんだ。ほとんどは一日中、自分の考えを伝え、自分の主張を流し、自分の欲望で物事を捉え、自分の恐れですべてを判断する、そういう、隣人のいない、自分の脳の中だけのグルグル回りだけで過ごしてるんじゃないですか。頭の中は自分のことが、9割9分。
 残りの1分(いちぶ)でもいいから、「コミュニケーション」っていうことをしましょうよ。特に教会では。相手に近づいていって、相手が何に苦しんでいるか、何を求めているか、それを知って、相手の立場に立ち、コミュニケーションをする。そうすると、・・・愛が流れるんですよ。
 「わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)って、イエスは言いますけれども、そう言うイエスの熱い思いがお分かりですか。イエスの方から、今日も私たちに、コミュニケーションを取ってきてるんです。今も、イエスさまがですよ、この私に関わろうとしてるんです。ミサってそういうものですから。こうして聖書が読まれ、神父も何だか熱っぽく語ってますけれども、これは、イエスさまが、「あなたとコミュニケーションを取りたい」「あなたの立場に立ちたい」「あなたとの間に愛を流したい」、そう思って近づいて来られてることの表れです。私たちはそれを受け止めます。そうしてそのつながりにとどまり続けます。
 ・・・イエスさまの熱い思いに胸打たれます。
 聖書の字面をただ追うだけではそういう熱はなかなか伝わりにくいのは確かですけど、それでも、たとえば最後のところ、「わたしがあなたがたを任命した。愛し合え。これが命令だ」(cf.ヨハネ15:16~17)って、16節から17節のところにあるのなんか、ぐっと胸に迫るものがあるでしょう。
 日本語の翻訳がね、ちょっと固くって、そんな熱い思いが、ちょっと伝わりづらいですけど、この「任命」とか「命令」とかいう、固い文字の向こうに、イエスさまのあふれる思いを読み取らなくっちゃなりません。まあ、私なりに言いかえるならば、こんな感じなんですよ。
 つまり、神さまの愛をたっぷりと受けて、喜びに満たされているイエスが、弟子たちに、
 「もうあなたたちと別れなければならないけれど、これだけは言っておきたい。私はあなたたちを、『友』と呼ぶほどに愛している。友であるあなたたちのためにいのちを捨てても構わないというほどに愛している。この愛を、なんとしても、さらに、すべての人に分け与えたい。だから、お願いだ。あなたたちは出かけて行って、出会うすべての人とコミュニケーションを取り、この愛を広めてほしい。そのような働き、愛のもたらす素晴らしい実り、その喜びを、すべてあなたたちに受け渡す。わたしが父から受けたこの恵みを、すべて、完全に譲渡する(・ ・ ・ ・)」と、
 ・・・そんな感じなんです。
 「任命」っていうと、こう、命令口調でね、そうするのが義務だ、みたいな感じですけど、そうじゃない。「この愛する喜びを、ぜ~んぶ、あなたに委ねよう」っていう、愛の任命なんです。任命の「任」は「(まか)せる」っていう字ですけど、「あなたに、これをぜんぶ任せます、譲り渡します」って言ってるんです。私たちは、そこまで信頼された弟子であり、それって、大変な喜びであるはずなんですよ。
 天の父とイエスとの間に交わされている愛からあふれる、あの熱~い喜び、イエスさまの中に沸き起こっている喜びの力、それを、「これを、あなたにぜんぶ任せよう。あなたが、これを受け止めてくれれば、もう、何でもできる。互いに愛し合うことがすべてだ。それだけが、わたしの命令だ」と、そう言う。
 この「命令」も、こうなったらもう、「懇願」って訳した方がいいくらいですね。「もうホントに、心から、あなたたちに、この愛を受け止めてほしい。互いにつながって愛し合う喜びを生きてほしい、もうそれだけを、まごころから願ってる。頼む、この愛から離れるな、この愛だけを生きてくれ」って、イエスさまが、一人ひとりに、熱く語っている。・・・そのまごころからの動機をね、感じ取ってほしい。
 かく言うミサも、神と人とのコミュニケーションの場ですから、私は、神さまの思い、イエスさまの思いと、皆さんの心を、なんとかつなぐ奉仕をしてるわけですけれど、皆さんも、神と人が結ばれるコミュニケーションのために奉仕することを、何よりの喜びとしてもらいたい。もう、イエスさまに「選ばれた」人たちなんだから。

 今日の午後、いよいよ、30歳以上の人の青年会を発足する準備の相談をするということですけれど、いいじゃないですか。その世代も仲間を求めてますから、もうますます、教会に人をいっぱい集めてくださいね。
 ・・・これ、なんで30歳以上かっていうと、つい先日発足した青年会は、10代が呼びかけて20代と一緒につくった青年会なわけで、規約としては30歳未満になってるんですね。すると、30代から、「なんで30代は入れないんだ」「自分も入れてくれ」っていう声があったって聞いたんで、私、怒り狂ってですね、「なに甘えてるんだ。10代のつくった会に入れてくれだなんて情けない。30代は30代で自分たちの会をつくれ!」って言ったら、30代と40代が今日、3時半でしたかね、集まって、第1回のミーティングをすることになりました。ぜひ30代、40代、集まって、新しい集いをやってください。その世代も、居場所や仲間を求めてますから、しっかりコミュニケーション取って盛り上がってほしい。そういう集いがある教会に、さらに新しい30代、40代がやって来ますから。
 「会の名前をどうしようか」って言ってるんで、私は、「後期青年会はどうですか」って、(大笑)言ってるんですけど。・・・いい名前でしょ?(笑) 皆さん「青年」ですから。ただ、ちょっと「後期」。(笑)
その世代はホントに迷ってますし、喜びを求めてますし、なんか、この教会の喜びに与る30代、40代、いっぱい来てくれたらなあと、心から祈ります。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「多摩動物公園」
 東京都日野市にある都立の動物公園。「多摩動物園」と呼ばれることも多い。広さは60ヘクタール。(cf.東京ドームの建築面積は、約4.7ヘクタール、上野動物園〈通称〉は約14ヘクタール、バチカンは約44ヘクタール、東京ディズニーランド〈パーク面積〉は約51ヘクタール) 
 丘陵地で、動物同士の間隔も比較的広いため、園内はシャトルバスが運行している。
 園内は自然が豊富で、動物が自由に動けるよう、檻や柵を使用せず、堀を利用した無柵放養式で飼育、展示している。動物の種類は、現在(2015年5月)320種。
 また、展示は、地理学展示(生育地域ごとに区分)を基調とし、大きく、アジア園、アフリカ園、オーストラリア園、昆虫園に分けている。アフリカ園では、「ライオン・バス」が運行し、サファリ形式によってライオンを見ることができる。
【情報】(詳細は、公式ホームページ内「ご利用案内」をご覧ください)
◎所在地 : 東京都日野市程久保七丁目1番地の1
 (「多摩動物公園」公式HPより)
  〈↑クリックすると、拡大表示されます〉

〔公共交通機関〕 : 京王線、多摩モノレール「多摩動物公園駅」下車、徒歩1分
〔車〕 : 中央自動車道「国立府中IC」から約20分
◎ 開園時間 : 9時30分~17時(入園および入園券の発売は16時まで)
◎ 定休日 : 水曜日(水曜日が国民の祝日や振替休日、都民の日の場合は、その翌日)
◎ 入園料 : 一般600円、中学生200円、65歳以上300円 他 (無料公開日あり)
*********************
【参考】
・ 「多摩動物公園」(オフィシャルホームページ)
・ 「多摩動物公園〈公式〉」(ツイッター)
・ 「多摩動物公園」(ウィキペディア)
・ 「無柵放養式展示」(ウィキペディア)
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※2:「昆虫園」
【昆虫園・昆虫生態園】
 昆虫園(撮影者:Dddecoウィキペディアより)
  〈↑クリックすると、拡大表示されます〉

 場所は、正門右手。昆虫園には、「昆虫園本館」と「昆虫生態園」がある。
 「昆虫園本館」はトンボをイメージした建物で、珍しい昆虫、興味深い昆虫の生体、標本を展示している。ふれあいコーナーも設けている。
 「昆虫生態園」は大きな温室で、川や森も再現され、散策できるようになっている。一年を通じて、さまざまな種類のチョウをはじめ、昆虫が放し飼いにされている。
(参考)
・ 「多摩動物公園 昆虫生態園 レポート」(「東京散歩ぽ」最終更新2015年2月22日記事)
・ 「多摩動物公園 昆虫園 レポート」〈
閲覧注意!:虫がダメな方はご覧にならない方が良さそうです〉(「東京別視点ガイド」2012年7月12日記事)
・ 「多摩動物公園・昆虫園!! レポート」〈ページの一番下です〉(「東京近郊スポットブログ」2012年7月24日記事)
・ 「多摩動物公園 園内マップ」(公式ホームページ内)
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※3:「今日のこの福音書」
本日、2015年5月10日〈復活節第6主日〉の福音朗読箇所は、以下のとおり。
 ヨハネによる福音書 15章9~17節
  〈小見出し:「イエスはまことのぶどうの木」(1~17節)からの抜粋〉
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※4:「第2朗読」
本日、2015年5月10日〈復活節第6主日〉の第2朗読箇所は、以下のとおり。
 ヨハネの手紙一 4章7~10節
  〈小見出し:「神は愛」(7~21節)からの抜粋〉
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※5:「世界広報の日」
 カトリック教会は、1963年12月4日、教皇パウロ6世のもと、第2バチカン公会議の最初の公文書として、信徒の信仰生活に深く関わる『典礼憲章』と共に、『広報機関に関する教令』を公布し、全世界で毎年、「世界広報の日」を記念するよう定めた。日本では、復活節第6主日に当たっている。
 『広報機関に関する教令』には、「カトリック教会はすべての人に救いをもたらすために、主キリストによって設立され、福音を宣布する義務を帯びている。したがって、救いの知らせを解くために、広報機関を利用すること、人々にこれらの機関の正しい使用について教えることを任務の一端と考えている」(第3条)とある。
 「世界広報の日」は、特に、新聞、雑誌、テレビなどのメディアが社会や文化に大きな影響を及ぼす力を持つことを認め、「福音を宣布する」ため、「救いの知らせを解くため」に、これらの力を正しく用いる方法を、今一度教会全体で反省、考察し、祈り、献金する日となっている。
 1967年以降は、毎年、固有のテーマで教皇がメッセージを出している。
(参考)
・ 「『世界広報の日』とは」(カトリック中央協議会)
・ 「第49回『世界広報の日』(2015年5月10日)教皇メッセージ」(カトリック中央協議会)
・ 「公文書:『世界広報の日』教皇メッセージ 一覧」(ラウダーテ)
・ 「第2バチカン公会議の流れ 第2会期」(ラウダーテ)など
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※6:『聖書と典礼』既出
 『聖書と典礼』(発行:オリエンス宗教研究所)は日本のカトリック教会共通の小冊子で、主日のミサ、また、一部の祝日のミサのときに用いられる。
 B6版のものと、少し大きめのB5版のものがあり、通常は8ページ程度から成る。
ミサは典礼書に従って進められるが、聖書の朗読箇所や、答唱詩編、アレルヤ唱、共同祈願などは、ミサの都度異なるので、この小冊子が会衆(参加者)に配布され、それに沿って進んでいく。
 表紙には、その日の典礼に合わせた、美しい絵画やイコンなどが、また、巻末には、400字程度のコラムが載っている。
(参考)
・ 「オリエンス宗教研究所
・ 「聖書と典礼」(オリエンス宗教研究所)〈美しい表紙絵の解説も載っています〉
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※7:「終身助祭」
 カトリック教会の聖職者の職務のひとつ。助祭には、司祭になる前段階としての助祭と、生涯助祭として生きる終身助祭の二通りがある。終身助祭の方は、妻帯が許される。
(参考)
・ 「司教・司祭・助祭」(カトリック東京大司教区)
・ 「終身助祭」(ウィキペディア)
・ 『終身助祭-要請基本要綱・役務と生活のための指針』(教皇庁教育省、教皇庁聖職者省)
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※8:「去年の教皇フランシスコの『世界広報の日』のメッセージ」
(参考)
・ 「真正な『出会いの文化』に資するコミュニケーション
  (「第48回『世界広報の日〈2014年5月25日〉』教皇メッセージ」〈カトリック中央協議会〉)
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2015年5月10日 (日) 録音/2015年5月16日掲載
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