静かで、圧倒的な雪の夜に

【カトリック浅草教会】

2018年1月28日 年間第4主日
・ 第1朗読:申命記(申命記18・15-20)
・ 第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント7・32-35)
・ 福音朗読:マルコによる福音(マルコ1・21-28)

【晴佐久神父様 説教】

 教会は、一週間たっても、まだ芝生に雪が残っておりますけど、よく降りましたねえ(※1)。けが、しませんでしたか? だいじょうぶでした?
 あの雪の月曜の夜、私の親しい友人が、お台場の「Zepp Tokyo」(※2)っていう有名なコンサートホールがあるんですけど、そこで、ライブに出演するというんで、晴れ舞台ですしね、ぜひ聴きに行こうと思ったんですよ。でも、夕方、もう各駅に人があふれて入場制限してるってニュースを見て、タクシー会社に電話してもつながらない。そのうち、お台場に行く「ゆりかもめ」が止まったっていうのをスマホで知って、こころ折れました。(笑) もう、これは、行っても帰って来られないかもって。で、あきらめた後は、霏霏(ひひ)として降る雪を眺めておりました。
 でもまあ、雪、私、大好きなんですよ。きれいですもんね。真っ白な雪が降りつもると、なんだか、こう、心洗われる思いがするわけですよ。ただ、私が好きなのは、雪がいっぱい降ってきて、都市とか、マヒするじゃないですか。その感じが好きなんです。(笑) あっ、これ、誤解してほしくない。みんなが困るのが好きなんじゃないですよ。救急車が止まったら困りますし、電車が止まると、どれだけ迷惑が広がるか。もちろん、それはそうなんだけれど、ただね、なんかこう、天からね、「もう、いいかげんにしなさいよ!」って言ってるかのように、・・・こう、なんていうんだろう、天の愛というか、本来の恵みというか、そういう純粋で原初的な何かが、圧倒的に降ってきて、浮かれてるみんなを静める。なんか、その感覚がね、好きなんですよ。この世のことで頭がいっぱいになってる人たちが、思わず、われに返る。・・・そんな静けさ。そう、音が消えるでしょ、雪の日って。夜なんか、し~んとして、ふと、われに返る。日ごろ、ぼくら、何してたんだろう・・・。あの感じが、すごく好きです。
 私の詩集、ご存じですか、『だいじょうぶだよ』っていう詩集の、中でも自分でも好きな詩の一つなんですけど、「初雪」っていうタイトルの詩があるんですね(※3)。その中に、「終わりのないゲームで発熱した街に さあもうお帰りと 純白の鎮静剤が落ちてくる」っていう一節があるんですよ。
 「終わりのないゲームで発熱した街」って、ねっ、東京って、そういうとこがあるじゃないですか。いつ、この浮かれ騒ぎは終わるんだろうっていうような。次から次へと、欲望、欲望。「もっともっと」って。もっと新しく、もっと多く、もっと便利に。・・・なんかもう、当事者能力を失って、ゲーム中毒になっているような、その「もっともっと感」ね。発熱している、ヒートアイランドの街。
 「終わりのないゲームで発熱した街に さあもうお帰りと 純白の鎮静剤が落ちてくる」
 ・・・これ、詩ですから、どう読んでいただいても構わないんですけど、「もうお帰り」って、どこに帰るんだろう。わが家に? いや、もっと本質的な、なにか、そこに帰らない限り、ぼくらの本当の幸せはあり得ないっていうような、とても静かで、とても本質的な、帰るべきところ・・・。
 いつもは忘れているけれども、雪に閉じ込められた静かな夜は、そんな所を思い出せるような気がする。圧倒的に降ってくる神の愛、そのみ言葉を受け止めて、「もう、いいかげんにしなさい」って、頭を冷やしてもらってね。・・・そんな感覚が、月曜の夜もありました。「降り積もる神の愛の中で、ぼくたち、何してるんだろう・・・」って。

 第1朗読(※4)で、預言のこと、言われてましたでしょ。神さまが、「わたしは預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける」(cf.申18:18)と。
 神さまは、圧倒的に天から語りかけます。たとえば、「お前たち、いったい、何してんだ? わたしの愛があれば、それで十分だろう? 他に何を求めてるんだ。お~い、わが子たちよ、わたしはここにいるぞ。ちゃんと愛しているよ。このわたしに気がついてくれよ!」と、しかしそれを直接天から語るのではなく、預言者を通して語るわけですね。「お前たちを愛してるんだから、心配するな。だいじょうぶだよ」と、そういう親心を語り掛ける。これ、預言者の使命です。
 預言者って、「預かる」に「(ことば)」ですよね。だから、神の言葉を預かって語ってるわけです。究極の預言者はキリストですけれど、私たちも預言職に(あずか)っているんですよ。もちろん、私たちはふさわしいものではありません。神の言葉には汚れがなくとも、それを預かった預言者自身は罪深かったりもする。でも、それでいいんです。皆さんもキリスト者ですから、みんな預言職に召されてますし、神の言葉を預かって語るわけですね。当然、罪深いまま語ることになりますが、そこで語られる、その言葉自体は真実ですし、力がある。圧倒的に天から降ってくる言葉です。
 私も預言職に与ってますから、神の言葉を語ります。私本人は、(けが)れてますけれど、ぜんぜん構わない。神が、その汚れた私の口に、永遠なる言葉、完全なる言葉を預けるわけですから、それを語ります。聴く者は、「お前には言われたくないや」とか言わずに、神の言葉としてそれを受け止めて、「はい」って言わなければなりません。
 確かに、説教なんかしてても、まあ、「どの口で、それ言ってんだよ」って、私、自分でしゃべりながら思うんですよ。だけど、言ってる内容は真実なので、どうしょうもない。言わなきゃならないし、皆さんは聞かなきゃならない。そうして、私自身も、皆さんも、やっぱり「はい」って言わなきゃいけない。根拠なんか、ないんです。「神の」言葉なんだから。「それが神からのものだという、確かな証拠を!」とか言ってはいけない。だって、もう、あの「イエスさま」というしるしだけあれば、十分じゃないですか。私たちは、天から降り注ぐ、神の言葉を聴きます。
 「わたしは、お前を愛してる」
 「わたし以外に、完全に、永遠に、お前を愛する者などいない」
 「この世のものに頼って、どうするつもりだ」
 「わたしの愛に、すべてを委ねなさい」
 そんなみ言葉に、私たちは、「はい」と言う。
 静かで、圧倒的な雪の夜には、神の言葉にこそ耳を傾けます。この世のものに、振り回されないように。

 昔から、ほぼ毎週一回、関西方面から電話を掛けてくる若い友人がいるんですけど、いつも、落ち込んだ声で、おんなじような質問をするんですね。「神さまがホントにおられるなら、なぜこんな・・・」みたいなことです。で、私、「神さまがおられないなら、あなたもいないし、神は愛なんだから、ただ信じればいいんです」ってお返事するんですけど、何度お話ししても分かってくれないというか、次もまた同じ質問なんです。ここしばらく電話がなかったんで、分かってくれたかと思ってたら、つい先日、久しぶりに電話が来たんですけど、また、落ち込んだ声で聞くんですね。「神さまがおられるなら、なんでこの世はこんなに不公平なのか」と。で、「何を不公平だと思ってるの?」って聞き返したら、なんと、その理由が、「仮想通貨が値上がりしている」って話(※5)
 「まだ安かったときに、友達から、これは必ず値上がりするから、買っといたほうがいいよって勧められたけど、そのときは信じられずに、買わなかった。そうしたら、今、高騰して、みんな大儲けしている。なんで俺はあの時買わなかったんだろうと思うと悔しいし、疑った自分を責めてしまうし、心が穏やかじゃない」って言うんですね。で、しまいには、「なぜ神は、富んでいる人と貧しい人をつくるのか」と。
 私、さすがに、「あんたねえ、いいかげんにしなさい」と。(笑) そう言いたくもなりますよ。
 まあ、その気持ちは、分からないではない。人の心の中には、はしたない気持ちっていうのが必ずありますから、自分が損したと思えば悔しいし、(もう)けたやつが(ねた)ましい。そこは別に、人の抱える浅ましさとして普通のことですから、まあ、責めるほどでもない。そんなもんです、人の心って。だけど、だからこそ、それを超越した、値が上がったり下がったりなんていう相対的なものではない、「絶対的な何ものか」を、われわれは、ホントの安心として、希望として、信じる。それが信仰ってことでしょう。そもそも、仮想通貨は、これ、神が造ったものですか? 人間ですよね。富んでいる人と貧しい人を造ったのは、神ですか? 私たちですよね。いくら言っても、そこのところが分かってもらえない。すぐに目の前の、上がったの下がったのにとらわれちゃって、混乱していくんです。
 だから、昨日だったか、どこだかの取引所から、仮想通貨が流出したとか、暴落したとかって大騒ぎしてましたでしょ(※6)。私、彼から次に電話来るのが楽しみなんですよ。(笑) 「ほらねっ!」って言いたい。この世のことでね、損したとか、妬ましいとか、しまいに、「神はなぜ?」って。(笑) ・・・おかしいですよね。「神はなぜ?」じゃなくて、「人間はなぜ?」だし、そんな人間だからこそ、神を信じようって話でしょ。
 この世で、まあ、少しくらいいい思いをするのは、悪いことじゃない。工夫してね、稼いでね、なんか楽しいことしましょうよ。それも、ひとりで楽しむのはさみしいから、みんなで分かち合ったらもっと楽しいでしょう。楽しむのは別に、悪いことじゃない。だけど、この世のどんな楽しみも、それはひとときのことなんだし、それがなくなったからといって、文句言うようなことでもない。もともとゼロで生まれてきたんだから、ゼロに返るだけの話です。むしろ、たとえひとときでも、何かいい思いができたら、「ああ、神さま、ホントにありがとう!」と言えばいい。で、そのいい思いがなくなっても、「ああ、神さま、ぜんぶお返しします。『あなただけがすべて』っていう原点に戻ります」と言う。そう、「帰るべきところ」って、そこなんですよね。

 第2朗読(※7)では、パウロがね、「思い(わずら)うな」って言ってますでしょ(一コリ7:32)
 「独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます」(一コリ7:32-34)
 これ、どうなんでしょうね。どっちでもない人もいるんじゃないですか? 主のことにも心を遣ってないし、妻のことにも心を遣ってない人。(笑) 「主」も忘れ、「妻」も忘れ・・・。(笑)
 「独身の女は、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います」(cf.一コリ7:34)
 これもねえ、「どうすれば夫に喜ばれるか」って、心、遣ってます? (笑) まあ、とりあえず、「遣っている」ことにしましょう。(笑) 
 まあ、いずれにしても、パウロが何を言いたいかっていうと、「結婚か独身か」とかいう話以前に、「一番大事なものを、大事にしましょう」っていう話ですよね。神さまの愛があるんだから、もう、それ以上のことは求めない。結婚をしていようと、していまいと、やっぱり、その本質から離れちゃいけないってことでしょう。
 神父って独身じゃないですか。「なんで独身なんですか?」っていう質問に、いろんな説明を、いろんな人がするわけですね。よく言われるのは、結婚してると、やっぱり時間もそれに取られるし、労力も取られる、と。司祭は教会のために働くんだから、まあ、結婚の方は我慢して、教会にすべてを尽くすんだ、みたいな説明です。
 でも、そういう言い方では、私は足りないと思う。結婚してたって、いくらでもね、工夫して、情熱を持って、できるじゃないですか。私も、もうこの30年、ひとりで掃除、炊事、洗濯、やってますよ。主婦歴30年です。じゃあ、それをしなかったら、もっと働けるかっていうと、そういうもんでもないんですよね。
 独身制の本来の意味は、「神さまの愛があったら、もう、それで十分です」と、「それ以上のことは、別になくっても、本質的に構いません」っていう、そのセンスの話なんです。教会とのかかわりにおいて、そのようなセンス、信仰、喜びを持ってる人が、司祭を選ぶだけのことですね。だから、もしも仮にね、バチカンが、「神父、結婚してもいいですよ」って言ったとしよう。そこで、「やった~! バンザイ!」って結婚する人、やっぱり変だと思うんですよ。だって、それって、「本当は結婚したいのに、我慢してた」っていう話ですよね。なんか変じゃないですか。司祭であること、司祭として働けることで、十分満たされてないなんて、じゃあ、なんで司祭になったのかってことですから。「私は、神の愛に満たされて、教会で働けて、それでもう十分です!」っていう、そのセンス。
 「結婚」っていうものは、それはそれで、とても素晴らしいことですよ。素晴らしいことですけれども、あえて言えば、結婚はやっぱり「世の事」(cf.一コリ7:33、34)ですから。
 皆さん、ご存じでした? 天国に行ったら、夫婦じゃなくなるんですよ。いうなれば夫婦以上の交わりに入るんです。イエスさまの言葉ですよ。「天国では、めとりも嫁ぎもしないんだ」と(cf.ルカ20:35)。だから、「永遠の愛を誓います」っていうのは、実はちょっと微妙なんですよね。「天使のようなもの」になっちゃう(cf.ルカ20:36)わけですから、一対一の愛は、もっと大きな愛の中に溶け込んでいくんです。人間を超えて、「天使のようなもの」になる。イエスさまが、そう答えた(cf.ルカ20:27-40)(※8) 天国では、この世のパートナーシップを超越した、神さまの愛の中での、ホントに透明な、天使的な愛に満たされているんであって、もう人間の弱さに縛られない、神さまの世界での自由を生きるんです。
 私が神父になるころには、信者さんは、「神父さまは、独身を守っておられる。結婚を犠牲にして捧げておられる」みたいな言い方をしていました。一般の人でも、「司祭は独身なんです」って言うと、「ほお、そうですか。大変ですねえ」みたいな感じでした。でも、最近は、「神父、独身なんです」って言うと、「いいですよね~!」って、みんな言う。(笑) 男性の生涯未婚率が、もう四分の一だそうですから、「がんばって犠牲を捧げてます」みたいなのも、あんまり意味がなくなってくるわけですね。
 むしろ、この世を超越してる、しるしなんです。もちろん、この世のことって、いいもんですよ。いいもんですし、それを求める気持ちもあるけれど、一番大事なもの、それこそ、神さまの愛に目覚めて生きる日々があって、もうそれさえあれば、他がぜんぶがなくなっても、ぜんぜん構いませんっていう、その安心、その喜び。結婚しててもしてなくても、キリスト者はそこに立たなければなりません。
 みんな、結婚して生まれてくるわけじゃないでしょ。生まれてきたときは、独身だったんだから。で、結婚しても、別れたり、先立たれたり、いろいろじゃないですか。二人同時に召されるわけでもない。この世的に言うなら、一人で生まれてきて、一人で死んでいくわけですね。だけど、すべては神の望みによって生まれてきて、神の愛のうちに召されていくわけだから、もう、それ以上でも、それ以下でもないんです。そういう原点を生きていれば、この世のつかの間のことで、「損した」とか「これがすべてだ!」とか言わないで済むんです。この世で何を失ったからといって、嘆くこともない。・・・まあ、悲しむ気持ちは分かるけれども、キリスト者は本質的に、永遠なる世界を信じているはず。この世での別れは、天での天使的な一致の始まりだっていうような希望に支えられます。

 そういえば、野村監督がね、奥さまを亡くして、泣いておられました(※9)。ぐっときましたよ。ホントに愛し合ってたんですね。沙知代夫人、私は、なんか面白くって好きでした。ケロケロッとしてね、言いたいこと言って。その野村監督がね、奥さまを亡くされて、「これから、どうやって生きていっていいか分からない」って言ってね、泣いてるわけです。共感して、胸打たれましたけれど、私もキリスト者ですから、やっぱり言わなきゃならないことがある。この世のすべてを超えた、神の愛の世界のことです。ですから、「監督、ぜひ教会にいらしてください」ってね、やっぱり言いたいですよ。永遠なる神の愛に目覚めて、やがて、天使的な再会の日があるっていうことを信じてほしい。悲しむ気持ちはよくわかる。しかし、その悲しみの向こうに、それを超えていくようなね、希望を見出してほしいですよ。

 イエスさまが悪霊を追い出しますでしょ、「出ていけ」と(cf.マルコ1:25)(※10)。で、悪霊っていうのは、なんか特別な人に取りついて、叫ばせたり暴れさせたりしているかと思いきや、そうじゃないんですよ、本当のことを言えば。実はみんな、もうすでに、悪霊に取りつかれてるんです。「発熱した街」に生きてる人たちは、ほとんどもう、悪霊下にいるわけです。全員ね。
 その悪霊が取りついて、何とかコインだとか、暴落だとか、流出だとか、まあ、奪ったり、奪われたりとか、そんなことで頭がいっぱいになっている世界に、イエスさまが、「黙れ。この人から出ていけ」(マルコ1:25)と命じるわけですね。もう、圧倒的で、一方的です。「根拠」なんていらないです。「神の」救いです。その神からの力によって、救われます。この世のことで目がくらまされているぼくらは、純白の雪で目を開かれるように、はたと、われに返る。イエスさまの、この宣言は、そこにあります。「黙れ。この人から、この人たちから、出ていけ」(ibid.)と。
 今日も、ご聖体を頂きますけど、純白でしょう? ご聖体は。皆さんの内に、神さまからの永遠の愛としてやってくる、そういう、一方的で圧倒的な御力(みちから)を受けて、私たちは、「はい」ってね、応えなきゃいけない。
 監督も言っておられましたけど、沙知代さん、どんなに大変なことがあっても、どんなに困難なことがあっても、「大丈夫よ」って言う口癖があったんですって(※11)。で、その口癖にどれだけ支えられてきたかっていうようなことをおっしゃってました。いい口癖ですよね。
 「大丈夫よ」
 監督みたいに、ぼやき節(・ ・ ・ ・)な人にとっては、それこそ、データ野球で根拠を示し続けた人ですからね、「何が大丈夫なんだ。なんでそう言えるんだ」って、やっぱり不思議だったでしょう、きっとね。でも、沙知代さんにしてみたら、別に根拠も何もない。「大丈夫なものは、大丈夫よ。信じましょ」みたいな感じでしょう。やっぱり、そういう信仰って、天からの圧倒的な力を秘めてるんじゃないですか?
 沙知代夫人、天に召されて、もう今は、天使のようになってるんでしょう。当然、ぼやいて泣いている夫に、天からあの声で言ってるんじゃないですか?
 「大丈夫よ!」ってね。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「教会は、一週間たっても、まだ芝生に雪が残っておりますけど、よく降りましたねえ」
 関東地方を中心に、2018年1月22日(月)の午後から23日未明にかけて大雪になり、2014年2月以来4年ぶりに、東京で20cmを超える積雪を観測。空の便では400便以上が欠航、高速道路では通行止めが相次ぎ、鉄道では特急電車の運休など、ダイヤは乱れ、大きな影響を及ぼした。
(参考)
・ 「関東の雪『典型的な南岸低気圧』 急発達と冷気で大雪に」(ウェザーニュース/livedoor NEWS)
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※2:「Zepp Tokyo」(ゼップ 東京)
 「Zepp」(ゼップ)は、日本と東南アジアで展開されているライブハウス(コンサートホール)。運営は、日本国内では、ソニー・ミュージックエンタテインメントの子会社、Zeppホールネットワーク。
 日本では現在6カ所が営業中。うち、「Zepp Tokyo」は、東京のシーサイド、お台場の大観覧車の真下に、1999年3月オープン。2709人を収容する大規模施設。評判上昇中の若いバンドから、新旧海外アーティスト、国内ベテランアーティスト、野外ロックフェス並みのオムニバスコンサート等、数々の伝説ライブが生まれている。ゆりかもめ「青梅駅」から徒歩約3分。
(参考)
・ 「Zepp Tokyo」(Zepp オフィシャルサイト)
・ 「Zeppライブ」(オフィシャルサイト)
・ 「Zeep」(ウィキペディア)
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※3:「『だいじょうぶだよ』っていう詩集の、中でも自分でも好きな詩の一つなんですけど、『初雪』っていうタイトルの詩があるんですね」
◎『だいじょうぶだよ』
daijyoubudayo著 者: 晴佐久昌英
発 行: 2001年4月25日初版発行(詩集)
出版社: 女子パウロ会
出版社からのコメント:
 『星言葉』で多くの人を励まし、反響を及ぼした著者の、さらなる優しさと苦しみへの共感から生まれ出た詩です。
=== 
 春の章「復活」、夏の章「覚醒」、秋の章「救済」、冬の章「帰還」に分かれ、それぞれ八つの詩が掲載されている。「初雪」は、冬の章の最初(p.98-101)の詩。
 ※ 購入をご希望の方は、お近くのキリスト教書店や、Shop Pauline (女子パウロ会)、Amazonなどをご利用ください。
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※4:「第1朗読」
この日、2018年1月28日(年間第4主日)の第1朗読は以下のとおり。
 申命記18章15~20節
 〈小見出し:「預言者を立てる約束」〉
===(聖書参考個所)===
 
主はそのときわたし(モーセ)に言われた。「彼らの言うことはもっともである。わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。 (申18:18/赤字引用者)
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※5:「『仮想通貨が値上がりしている』って話」
 インターネット上で使用できる仮想通貨の一つ、ビットコインが、昨年大きく値上がりした。
 1ビットコインは、1BTCという単位で表記され、紙幣や硬貨が発行されないまま、円やドルのような法定通貨と交換し、ネット上での支払いや送金に使うことができる。実体としての銀行は存在しないので、経費や手数料は発生せず、かなりの経費を抑えられるといわれている。
 このビットコイン、2017年の年初に1ビットコイン=960ドル(10万円)だったものが、12月8日には一時、1ビットコイン=20,000ドル(230万円)台をつけた。1年で約20倍ほど伸びた計算になる。
(参考)
・ 「ビットコインとは」(コトバンク)
・ 「ビットコインどこまで上がる? 2018年とその後を展望する2017/12/12(はじめての仮想通貨)など
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※6:「どこだかの取引所から、仮想通貨が流出したとか、暴落したとかって大騒ぎしてましたでしょ」
 1月26日、仮想通貨取引所大手のコインチェック(東京・渋谷)が、約580億円分の仮想通貨「NEM(ネム)」が、外部からの不正アクセスで流出したと公表した。28日未明には、保有者約26万人に総額約463億円を日本円で返金すると表明したが、返金の時期や流出した原因など全容は明らかになっていない。 (2018/1/28現在)
(参考)
・ 「コインチェック、26万人に全額補償方針=不正流出被害で-出金停止続く2018/1/28 1:31(「コインチェック」:時事ドットコム)
・ 「仮想通貨流出 ネット遮断せず管理 26万人に返金方針1/28 1:37(「仮想通貨流出」:毎日新聞)など
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※7:「第2朗読」
この日、2018年1月28日(年間第4主日)の第2朗読
 使徒パウロのコリントの教会への手紙一7章32~35節
 〈小見出し:「未婚の人たちとやもめ」7章25~40節から抜粋〉
===(聖書参考個所)===
 
〔皆さん、〕思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。 (一コリ7:32~34/赤字引用者)
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※8:「皆さん、ご存じでした? 天国に行ったら、夫婦じゃなくなるんですよ。(中略)イエスさまが、そう答えた (cf.ルカ20:27-40)
 ルカによる福音書20章27~40節
  〈小見出し:「復活についての問答」〉
===(聖書参考個所)===
 
イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。 (ルカ20:34~36/赤字引用者)
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※9:「野村監督がね、奥さまを亡くして、泣いておられました」
 プロ野球ヤクルトや阪神で監督を務めた野村克也氏(82)=サンケイスポーツ専属評論家=の夫人、沙知代さん(享年85)が昨年(2017年)12月8日、虚血性心不全で亡くなった。
 密葬が行われた12日には、「まだ信じられない」と男泣きされたという。
(参考)
・ 「野村沙知代さん、急死2017/12/9(サンスポ)
・ 「沙知代さん密葬しめやかに…ノムさん男泣き『まだ信じられない』2017/12/13(サンスポ)
・ 「野村沙知代さん旅立つ『サッチー』波瀾万丈人生に幕2017/12/13(日刊スポーツ)
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※10:「イエスさまが悪霊を追い出しますでしょ、『出ていけ』と (cf.マルコ1:25)
この日、2018年1月28日(年間第4主日)の福音朗読箇所から。
 福音朗読:マルコによる福音(マルコによる福音書)1章21~28節
 〈小見出し:「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」〉
===(聖書参考個所)===
 
そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
 イエスが、
「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。 (マルコ1:23~26/赤字引用者)
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※11:「沙知代さん、どんなに大変なことがあっても、どんなに困難なことがあっても、『だいじょうぶよ』って言うっていうね、口癖があったんですって」
 沙知代さんが自宅で倒れた際に、野村氏が「大丈夫か」と呼び掛けると、「大丈夫よ」と返し、それが最後の言葉となったという。この「大丈夫よ」は、沙知代さんの口癖でもあり、野村氏は、「マイナス思考は絶対にない。強気な性格でした。窮地に立っているときも、常に前向き。『大丈夫よ』が口癖で、このひと言でずいぶんと助かりました」と語った。
(参考)
・ 「『大丈夫よ』が最後の言葉 故野村沙知代さんお別れの会 克也氏、涙で『ありがとう』2018/1/25(産経フォト)
・ 「ノムさん涙 妻・沙知代さんお別れの会『いい奥さん』でした2018/1/26(デイリースポーツ)
・ 「野村克也氏 沙知代さんに感謝 『いろんなチームの監督やれた』2018/1/25(東スポWeb)
・ 「野村沙知代さん死去」(livedoor news)
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2018年1月28日(日) 録音/2018年2月28日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英