最も注目されている説教者

【カトリック上野教会】

2016年5月1日復活節第6主日
・使徒たちの宣教:(使徒言行録15・1-2、22-29)
・第2朗読:ヨハネの黙示(黙示録21・10-14、22-23)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ14・23-29)

【晴佐久神父様 説教】

 ・・・いや〜、主日のミサを、浅草・浅草、上野・上野、浅草・浅草って2週間ずつやってると、こうして3週間ぶりになるわけですよね、上野教会の皆さんとは(※1)。しかも、5月なんか第五週まであるでしょ。で、今回の第五日曜日のミサは浅草なんですよ。そうすると、上野(5/1)・上野(5/8)、浅草(5/15)・浅草(5/22)、浅草(5/29)、上野(6/5)ってことですから、主日のミサってことでは、ほぼひと月あいちゃうんですよ。皆さんと、ひと月も会えないなんて、なんて寂しい!(笑) っていうか、これ、どうしたもんですかねえ。・・・なんかこう、いろいろと工夫しなきゃならないんでしょうけれども、もっとも、来週はまたこちらですからね。浅草の方が、「さみしいよぉ〜」って言うという・・・。う〜ん・・・。
 まあでも、今日の聖書(※2)で言うならば、「弁護者」(ヨハネ14:26)である聖なる霊がすぐそばにいてくれるので、私たちは常に福音を聴いているし、体験している(※3)。私のこの説教もそのお手伝いです。「キリスト者として選ばれた私たちは、何があっても福音から離れることはない」っていう、その信頼感、安心感だけは持ち続けて、毎週のミサ、日ごとの福音を大切にいたしましょう。

 晴佐久神父の説教は、ある人たちに言わせれば「独特」な説教スタイルらしく、まあ、言うなれば徹底して、福音を、「今」「ここで」「あなたに」語る説教です。「今、ここで、あなたに救いがある」と、それを強調するわけですね。
 ただ、「今、ここ」って言っても、それは説教の間だけがそうなんじゃなくって、その救いはもう一年中、365日、24時間、ず〜っとあるわけですし、私たちはいつも聖なる霊の働きのうちに生きているわけですから、「今、ここ」っていう説教で、ギュッと福音を思い起こしてもらって、そうして、残りの6日と23時間を、神の愛の中にいる安らぎを感じつつ過ごす。
 そうしてまた、たとえ(おび)えたり、悩んだりすることがあっても、いつでもまたミサに帰って来て、福音に目覚めて、「ああ、そうだった! 怯えていても、ず〜っと聖なる霊は働いてたんだ。悩んでる間も、ず〜っと福音のもとにいたんだ」っていうことをハタと思い起こして、で、また残りの日々を過ごす。・・・まあ、そういうことです。
 だから私は、ミサの説教では、徹底して、「ここに救いがあるんですよ!」「これは神の国の一部なんですよ!」「神さまは今ここで働いているんですよ!」と、そこを強調するわけです。・・・でもそれって、独特でもなんでもなく、説教の一番本質だし、そうでなければならないとも思ってます。

 キリスト教の雑誌で、『礼拝と音楽』っていう雑誌があるんですけど、その168号で、説教についての特集があって(※4)、学者先生が対談しているんです。その中で、私について語ってるんですよ。プロテスタントでは、結構、この晴佐久の説教っていうのはセンセーショナルらしく、・・・まあ、いい意味でなのか、悪い意味でなのか知りませんけれど、有名なんですよね。で、その先生が、こう言ってるんですね、「晴佐久昌英神父は、今、日本で最も注目されている説教者だと思う」と。
 ちなみに、「最も注目されている説教者」と言われるとですね、普通は、「いえいえ、私はそんな者ではありません」「注目されるほどの者ではありません」って謙遜に言うところなんでしょうけれども、私は違う。「もっと注目して!」って思う。(笑)
 なぜなら、「福音を、語っているから」です。
 つまり、「もっと私に注目して!」じゃなく、「私を通して、もっと福音に注目して!」ってことです。福音に注目して、神の愛を知ってほしい。感じてほしい。目覚めてほしい。だから、「もっともっとこの説教に注目してくれ!」っていう気になる。
 皆さんも、もっと「注目」して、この、福音のもとに、どんどん、みんなを連れて来てくださいね。今悩んでいる人、恐れている人、困っている人、身近にいますでしょ? 家族、親族、友人、・・・隣の人かもしれない。どんどん連れて来てください。私は福音を語りますし、もっと注目されたい。イエスがそうだったから。イエスこそが、最も注目されている説教者ですから。・・・私も、イエスの弟子として、注目されたい。神の愛を知ってもらいたいから。神の愛に目覚めてもらいたいから。
 でね、その先生が、「晴佐久神父は、カトリックの説教形式を壊した」って、そう言ってるんですよ。これは、ちょっと違う。その先生は、たぶん、「カトリックの説教形式」っていうスタンダードな形式があってね、私の説教はそれにとらわれない、非常に自由な、徹底して福音を語りまくる、救いを宣言しまくる説教だと感じて、「それまでのカトリック教会のスタンダードな説教のかたち(・ ・ ・)を壊した」っていうふうに思ったんでしょう。
 でも、皆さんは、分かってますよね。カトリック司祭の説教に、壊されるような「スタンダードな形式」なんてありません。100人の神父がいたら、100人が勝手にしゃべってるだけで、最低限のルールはあるものの、「こうでなきゃならない」なんていうしばり、ないですもんね。実際、みんな相当自由に語ってます。まあ、それは、ある意味、いいとは思います。
 ただ、そんな中、この先生は私の説教の特徴として、こう指摘してるんですね。
 「晴佐久神父は、ただただ福音の告知の言葉を繰り返している。『今、ここに、神の国がある』『あなたがたは、本当にゆるされている』と、ただただ、それを告知している。それは決して、新しいかたちを、彼が始めたわけじゃなく、説教の歴史の中で行われてきたことだ」と。
 これは、正しい。
 つまり、「本来の説教はそういうものだった」っていうことであり、私に言わせれば「説教の歴史」どころか、原点にさかのぼれば、イエス・キリストの宣言がそうだったわけで、イエスが語っていた「説教」は、ただただ、福音の宣言だった。「神はあなたを愛している」「あなたは限りない神の愛によって救われている」と。その宣言にこそ、説教の本来のかたち、みんなが求めている言葉があるんだと、それだけのことだと思う。イエス・キリストは、難しい神学の話も聖書学の話もしなかった。徹底して、「今」「ここで」「そこにいるあなたに」「愛である神の救いを」宣言をしていた。
 「あなたは、本当に尊い神の子なんですよ」と、
 「今の、その試練は、神の栄光の世界に向かっている、恵みの試練なんですよ」と、
 「あなたは、もう救われてるんです。心配しないで」と、
 「私を信じなさい」と。
 そう言えば、イエスさま、さっきも福音書で、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(ヨハネ14:27)って、弟子たちに言ってましたけれど、これ、ミサの中で必ず唱えられる言葉ですよね(※5)
 「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」
 この「平和」っていうのは、日本語に訳すると、ただの「平和」ですけれども、本来の意味は、もう、「完全で、絶対で、永遠で、何の問題もない」っていう、そういう究極の救いの状態のことですよ。何も欠けたところがない。足りないとか、心配とか、そういうことが、ぜんぜんない。完全に、神さまの恵みの中で満ち足りている状態のこと。
 「わたしは、あなたがたに、それを残すし、あなたがたに、それを与える」って、イエスが宣言した。イエスの宣言ですから、これが変わることはあり得ない。実現しないということは、あり得ない。
 今も、ミサのときに、司祭の口を通して、イエスは必ず宣言します。聖体拝領の直前ですね。・・・今日も宣言しますよ。いつにも増して、よ〜く聴いてくださいよ。
 「主イエス・キリスト、あなたは使徒に仰せになりました。
 『わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える』
 わたしたちの罪ではなく、教会の信仰を顧み、
 お言葉のとおり、教会に平和と一致をお与えください」
 ・・・そういう祈りですね。
 イエスのこの宣言は、一度イエスの口から出て、私たちの耳に届き、魂に響き渡ったならば、消えることがない。すごいでしょう? 何も足りないものがない状態ですよ。
 いいじゃないですか。もう、6日と23時間、悩みに満ちていて、不安や恐れにとらわれていたとしても、せめて、ミサの1時間、何もとらわれないような思いになり、せめて、福音を聴いているときに、「ああ、そうだった! 私は愛されているんだ。もう、永遠なる命を頂いてるんだ。弁護者、すなわち、聖なる霊が共にいて、私から決して離れることなく共にいて、必ず救い出してくれる。導いてくれる」と、もう、それを全面的に信じる。
 「あなたたちに平和!」
 これが、まあ、福音宣教であり、福音宣言であり、説教の原点でしょう。今日も、それを私は宣言したい。それを受け止めて、皆さんの一番真ん中に、この安心感を持ってほしい。

 いよいよ、入門講座が始まります。5月の17日からです。ぜひ、福音を聴くために、集まっていただきたい。どなたでもどうぞ。洗礼を「受ける」の「受けない」のは、もう置いといて、ともかく、福音を聴かせたいと思う人を呼んできてくださいな。「ぜひ、どうぞ」とお勧めするもよし。一緒に来るなら、なおよし。
 入門講座、上野では火曜日の夜7時と、木曜日の午前10時半。浅草では火曜日の午前10時半と、木曜日の夜7時。
 ぜひ、悩んでいる人、困っている人、何か相談したい人に声をかけてください。入門講座が、まずは福音の最初の入り口なので、そこに皆さんを呼び集めていただきたいと思います。その方たちに、キリストご自身が、ひとりの司祭の口を通して福音を語るでしょう。
 「あなたは、愛されてるんだ」
 「あなたは、望まれて生まれてきたんだ」
 「今、ここにいることは、ホントに素晴らしいことなんだ」
 「これから、想像を超えた神さまの恵みの世界が始まる。それは、あなたが信じているからですらない。あなたが、立派に生きてるからでも、資格があるからでも、いい人だからでも、何でもない。あなたが、神に望まれて生まれて、愛されているから。神の子だから。あなたはもう、救いのうちにあるんだ」と。
 それを、私は徹底して宣言しますので、どうぞ皆さん、送り込んでください。・・・一人につき一人送り込んでくれれば、ここに100人いれば、5月17日、100人並ぶはずですよね。ぜひぜひ招いていただきたい。今の世の中が、それを求めておりますから。

 パウロが、「割礼を受けてないと救われない」っていうような、そういうユダヤ教の信仰に対して、「とんでもない!」というようなことを言ってます(cf.使徒15:1-2) (※6)
 そういうことは、人間のやっていることであって、人間の決めたことであって、神はもっと透明で、もっと広くって、もっと自由で、もっとすべての人に愛を注いでいる方であって、その神の豊かさ、神の愛の深さ広さは、すべての人が、やっぱり知るべき、目覚めるべき。
 マルコ福音書の最後には、「信じて洗礼を受ける者は救われる」ってあるけれども、それは狭い意味での「特定の宗教としてのキリスト教の洗礼」ではなく、「聖霊による洗礼」(cf.使徒1:5)のことですし、「割礼に代わって今度は洗礼だ」なんてことではないでしょう。広い意味では、すべての人が聖霊に満たされているわけですから、その真理に目覚めていくことをこそ、パウロは言い始めているんだし、イエス・キリストは、そのような普遍性を福音として宣言していたんじゃないですか?
 晴佐久説教の特徴は、抽象的なことではなくて、
 「
 「ここの
 「あなたに
 っていう、具体的な目の前の現実を語っているところに特徴があります。でもそれは、イエスがしていたことです。パウロもしていたことです。
 「律法によると、割礼を受けない者は、救われない」(cf.使徒15:1)っていうのは、抽象的な言葉ですよね。一般論です。第三者的な発言です。それに対して、「あなたは、救われる」「あなたは、愛されている」という、目の前のあなたに、一人称、二人称として語りかけるのは、やっぱり、イエスの宣言の非常に特徴的な所ですし、この説教でも、「あなたは」「あなたがたは」と、それを強調したい。
 イエスさまは弟子たちに、「わたしは、あなたがたに、平和を残す。与える」(cf.ヨハネ14:27)と、一人称、二人称で、「わたしは」「あなたがたに」と、いつもそのように語り掛けていた。
 神さまが、「今」「ここで」「誰に対してでも」、恵みを注いでくださっているということを、皆さんは主日のたびに思い起こして、あとの六日を信頼して生き延びていただきたいのです。
 誰の中にでも、もう、聖霊は来ております。・・・気づいていないだけ。

 私、先週、栃木県で「五右衛門風呂」(※7)っていうのに入ったんですよ。五右衛門風呂って、ご存じ? 入ったこと、あります? 私は子どものころ、一度、千葉県で入ったことがあって、50年ぶりくらいに五右衛門風呂に入りました。・・・鉄の釜で、下で薪を燃やすやつですよね。
 栃木県で、陶器を焼いている方のところをお訪ねして、入ったんです。その方、何千坪もあるような敷地を求めて、そこでキリスト教的な精神に基づく、自然と一体化して焼き物を焼く、まあ、一つの理想郷のような里をつくっている方なんですよ。・・・熱心なクリスチャンですけれども、その方が、いよいよその里を完成させるに当たって、「お茶室でミサをしてほしい」って言うんで、まあ、そこで、ミサをしてまいりました。
 自然と一体になって、お茶室でミサをする。・・・素晴らしい体験です。そもそもお茶室なんて、ミサをするのに一番ふさわしいとこですからね。ご存じでしょ? 千利休が高山右近と一緒にミサに与って、「これだ!」ってひらめいて、自分のお茶に、ミサの様式を取り入れたともいわれてますよね(※8)
 お茶室の横に、水屋(※9)っていう場所があるでしょ。あれなんか、まるっきり香部屋(※10)ですもんね。お道具が揃えてあって。で、布で拭いたりするしぐさとか、まるっきりミサと一緒でしょ。あれは、千利休が「これだ!」って思ったところからきていると聞いてますけれども。
 自然と一体となる「お茶の道」、普遍的な命と一体となる「お茶の心」っていうのは、もうまさに、イエスの道、ミサの心と通い合っています。イエスが、大自然と大宇宙と、神さまの透明なすべての恵みと、一体化するものとして、ご自分の命を懸けてミサをお始めになったわけですから。・・・これこそは真に味わい深い恵みですし、いつでも、どこでも、誰にでも及んでいる聖なる霊を味わうために、ミサがある。そう思っていただきたい。

 それでいうなら、五右衛門風呂に入ったのも、ちょっとした神秘体験でした。
 そこのお風呂は土を削ったような坂の途中にあって、そこに木でできた味わい深い建物があって、磨いた大家石に囲まれた中に鉄の釜があって、そこに水が張ってあって、下に木を入れて、火を燃やして、・・・でしょ。だからこう、土、石、鉄、木、水、火が、ぜ〜んぶ揃ってるんですよ。窓からは風も入ってきてね。で、その真ん中に、いい湯加減で、トポン・・・♨って入ってるとね、なんかこう、神さまの恵みの中に、そのまんまいるような。
 で、ちゃんとね、ニオイショウブ(匂い菖蒲)の束(※11)とか用意してあってね、「これで背中をポンポンとたたきなさい」って言う。まあ、風情のある風呂でした。外では、もうカエルが鳴いててね、ケロケロケロ・・・ってね。・・・なんかこう、「ああ、私たちは、本来的に、神さまの恵みの中に存在しているんだな」っていうことが、深〜く分かる。
 これ、おもしろいですね。別に習ったわけじゃない。ただ生きてきただけなんだけれども、これが一番本来的なことで、今、すべての恵みの中心にいるような感覚っていうのを味わう力を持ってるんですよ、人って。すべての人が持ってるはずですよ。
 「いや、こんなのより、やっぱり俺はプラスティックの風呂がいい」って、あれを味わったら、絶対そう言わないはずです。・・・人は持ってるんです、「本来がこうあるべき」っていうようなことを。神の子として、神の恵みを深く味わい、気づく力を持ってるんですよ、もう。・・・すべての人が。
 タラの芽とかね、「さっき採ってきました」っていうのを、天ぷらにして食べさせてくれましたけど、いや〜、ホントに、初めて食べるような味でも、「これこそがおいしいってことだ」って分かる。
 神の恵みは、もうすべての人の内に来ているし、私たちは、ちゃんと、その神の恵みを受け取り、味わい、気づくように、つくられてるんです。

 「あなたがたは聖霊の神殿だ」とパウロは言った (cf.一コリ6:19) (※12)。・・・人間は聖霊を宿す。これは、「すべての人」です。
 割礼を受けたか受けないか、○○教の洗礼を受けたか受けないか、もう、そんなことを飛び越えた、ホントに大きな、透明な、神さまの愛。・・・すべての人に及んでいるし、すべての人が、それを受け止める力を持ってます。あとは、それがちゃんとつながって、「私は本当に神に愛されている」「神の恵みの中にいる」「私は永遠なる存在だ」と、そういうことに目覚められるかどうか。
 「あなたがたは救われている!」と、私は強調したいのです。

 今ここで、皆さんが、どれほど悩んでいようとも、どんな問題を抱えていようとも、それは、取るに足りないことです。「神の愛」、それに目覚めるなら、何も恐れることはない。
 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」(ヨハネ14:27)と、イエスさまは宣言なさった。その言葉は、今日も、この聖堂に響きました。
 皆さん方がこの神の子イエスの宣言を信じるならば、たとえ、どんな病気であろうとも、どれほど家族の問題を抱えていようとも、何ひとつ欠けたところのない、幸いな存在です。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「主日のミサを、浅草・浅草、上野・上野、浅草・浅草って2週間ずつやってると、こうして3週間ぶりになるわけですよね、上野教会の皆さんとは」
 晴佐久神父は、4月10日(日)から、「カトリック上野教会」と「カトリック浅草教会」兼任の主任司祭として、主日のミサを司式するようになった。ただ、兼任なので、月の第一週、第二週の主日は「上野教会」、第三週、第四週は「浅草教会」、第五週は交代でなどと、分けなければならなくなった。
 この日、5月1日(日)の上野教会でのミサは、4月10日(日)に司式後、「17日(日)浅草教会」「24日(日)浅草教会」の後、3週間ぶりの司式となった。
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※2:「今日の聖書」
 通常、主日のミサでは、
第一朗読、第二朗読、福音朗読と、聖書から3カ所が朗読される。(詳細は>こちら
 この日、2016年5月1日(復活節第6主日)の聖書の箇所は、以下のとおり。
☆第一朗読: 使徒言行録15章1〜2節、22〜29節
  〈小見出し:「エルサレムの使徒会議」15章1〜21節、「使徒会議の決議」22〜35節から抜粋〉
☆第二朗読: ヨハネの黙示録21章10〜14節、22〜23節
  〈小見出し:「新しいエルサレム」21章9〜27節から抜粋〉
☆福音朗読: ヨハネによる福音書14章23〜29節
  〈小見出し:「聖霊を与える約束」14章15〜31節から抜粋〉
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※3:「今日の聖書で言うならば、「弁護者」(ヨハネ14:26)である、聖なる霊が、すぐそばにいてくれるので、私たちは常に、福音を聴いているし、体験している」
(聖書:参考箇所)
「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ14:26/赤字引用者)
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※4:「『礼拝と音楽』っていう雑誌があるんですけどその168号で、説教についての特集があって」
◎『礼拝と音楽 No.168』 2016 WINTER
特集 : 礼拝の中の説教
 出版社: 日本基督教団出版局
 判 型: B5 
 発売日: 2016/1/12(季刊誌/4・7・10・1月)
 定価: 1,473円(税込)

 
内容紹介(主な特集記事):
◇対談 「説教」か「礼拝」か(説教学と礼拝学の共働をめざして/荒瀬牧彦・平野克己)
◇礼拝と説教(神学教育の場から説教を考える/石田学)
◇礼拝における説教理解と役割の変遷(ケリュグマからパワポ説教へ/中道基夫)
◇カトリック教会の説教(2014年の「説教指針」に至る歩み/宮越俊光)
◇説教と賛美(中山信児)
◇説教者と奏楽者(それぞれの立場から礼拝を考える/増田琴、末次かおり、岡崎菜佳子) ほか
(参考)
・ 『礼拝と音楽 No.168』(日本基督教団出版局)〔ご購入は>こちら
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※5:「これ、ミサの中で必ず唱えられる言葉ですよね『わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える』」
 この言葉は、ミサ中、聖体拝領への準備が進む「感謝の典礼」後半に司祭が唱える祈りで、
「教会に平和を願う祈り」と言われている。この祈りの後、「平和のあいさつ」がかわされ、共に「平和の賛歌」を歌い、聖体拝領へと進む。
*******
「教会に平和を願う祈り」
  「主イエス・キリスト、あなたは使徒に仰せになりました。
  
『わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える』
  わたしたちの罪ではなく、教会の信仰を顧み、
  お言葉のとおり、教会に平和と一致をお与えください」  (赤字引用者)

(参考)
・ 「感謝の典礼-交わりの儀」p.34-35(2006年『ともにささげるミサ-ミサ式次第 会衆用-改訂版』オリエンス宗教研究所)
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※6:「パウロが、「割礼を受けてないと救われない」っていうような、そういうユダヤ教の信仰に対して、「とんでもない!」と」というようなことを言ってます」
 本日の第一朗読箇所〔使徒言行録15章1〜2節、22〜29節=(※2)参照〕より
(聖書:参考箇所)
「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた (使徒15:1-2a/赤字引用者)
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※7:「五右衛門風呂」
   (イラスト・イメージ)

「五右衛門風呂」は、かまどの上に置かれた鋳鉄製の風呂釜で、下から直接火を焚いて沸かす。
名前の由来は、安土桃山時代、豊臣秀吉が大盗賊の石川五右衛門を釜ゆでの刑にしたという俗説からきている。
釜全体を鋳鉄で作ったものと、鉄の釜の上に桶(おけ)を取り付けたものがある。
入浴のときには、浮いている底板を踏み沈めて入る。
(参考)
・ 「五右衛門風呂(長州風呂)の特徴と豆知識」(五右衛門風呂のHP
・ 「五右衛門風呂辞典-本来の五右衛門風呂」(やまと屋ウェブ辞典
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※8:「千利休が高山右近と一緒にミサに与って、 「これだ!」ってひらめいて、自分のお茶に、ミサの様式を取り入れたともいわれてますよね」
 現在のところ、国内には茶の湯とキリスト教の関係を証明する資料は存在しないとされているが、さまざまに似ている点があり、いろいろと興味深い考察がされている。
 武者小路千家の14代家元、千宋守さんは、以前から、「一つの茶碗の同じ飲み口から同じ茶を飲む『濃茶(こいちゃ)』の作法をはじめ、さまざまな所作の類似点を挙げ、またその精神性の影響についても、「偶然とは考えにくい」と述べている。(同氏は、その件について、ヨハネ・パウロ二世教皇にも、書簡や謁見で説明している)
 しかし、イエズス会の宣教師、ルイス・フロイス(1532-1597)は、「千利休はキリスト教徒ではない」と記し、キリシタンであったとの証拠もないことから、文教大学教授の中村修也氏(日本茶道史)は、茶道と聖体拝領における所作の類似は、「一般的な動作における普遍的な一致と言えるのではないか」と述べている。
 ただ、利休の妻と娘は信徒で、「利休七哲」(千利休の高弟7人)の5人まではキリシタン、また、そのうちの一人、「利休極上一の弟子」といわれた、熱心なキリシタン大名、高山右近とのかかわりも特別親密だったといわれているので、さまざまな見解が出ている。
(参考)
・ 「ミサと茶の湯のどんなところが似ているのか」「キリスト教の茶の湯への影響」(クリスマスと茶の湯
・ 「千利休(キリシタン茶人)考
・ 「茶道と右近」(キリシタン大名・高山右近研究室
・ 「キリスト教徒だった? 千利休」(個人ブログ:as time goes by’ net Hiro 2014/2/7記事)
・ 「茶道とミサ」(pdfファイル)
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※9:「水屋」
 茶室に付随する場所で、茶道口に通じる部屋や、廊下などに設けられている。点前や茶事の用意や片付けをしたり、器を納めたりする場所でもあるが、単なる「道具置き場」ということではなく、あくまでも一服のお茶を点てるための準備をする場所である。
(参考)
・ 「水屋」(茶湯晴山
・ 「水屋」(茶道入門) など
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※10:「香部屋」
◎香部屋
 典礼の準備をするための小さな部屋で、司祭や侍者などの奉仕者が、聖堂に入退堂しやすい場所に設置されている。典礼で用いる祭器具や、祭服、典礼書などを保管し、祭服を着用する際にも使われている。
 「香部屋」の名前は、元来、ミサの間に、香炉の種火を取り替えるために待者が出入りしたことから付けられた。
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※11:「ニオイショウブ」
◎「ニオイショウブ」(匂い菖蒲)

① ハナショウブ(花菖蒲)、カキツバタ(杜若)、アヤメ(文目、綾目、菖蒲)はアヤメ科アヤメ族。しかし、ニオイショウブ(匂い菖蒲)はサトイモ科で、葉は似ているが、花はガマ(蒲)の穂のような形をしている。
② 特に「端午の節句」に、葉を束ねて湯船に浮かして入浴する。頭に巻くと「頭が良くなる」と言われている。
③ 根茎の節は太く横に伸び、赤みを帯びた白色。節からひげ根を出す。
*******
 ショウブの強い香りは邪気をはらうとされ、また、江戸時代の武家社会では、「ショウブ(菖蒲)」が「尚武(武道・武勇を重んじること)」「勝負」に通じるといわれ、それが男の子の節句、「端午の節句」と結びつき、この時期に、ショウブの根や葉を湯に入れた「菖蒲湯」に入るという風習も、広く浸透していった。その葉で、体の悪い所をたたくと治るとも言われている。
 本来、厄除け、無病息災を願うものだが、ショウブに含まれる精油成分には、血行促進、鎮痛、保温の効果があり、香りには、リラックスできる効果もあるといわれ、現在は、薬草湯を使った民間療法にも利用されているという。
(参考)
・ 「菖蒲湯の作り方と入り方!菖蒲風呂の健康効果と薬湯入浴剤効能」(個人ブログ「美しい私を取り戻せ!ずぼらな美容と健康法」)
・ 「【端午の節句】菖蒲湯の効能と効果的な作り方」(個人ブログ「ゆるりん☆にゅうす」)
・ 「匂い菖蒲」(花キューピットタウン)ほか
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※12:「『あなたがたは聖霊の神殿だ』とパウロは言った」
(聖書:参考箇所)
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(一コリ6:19/赤字引用者)
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2016年5月1日 (日) 録音/2016年5月21日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英