一緒にご飯を食べなさい

【カトリック上野教会】

2017年4月2日四旬節第5主日
・ 第1朗読:エゼキエルの預言:(エゼキエル37・12-14)
・ 第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・8-11)
・ 福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ11・3-7、17、20-27、33b-45)

【晴佐久神父様 説教】

 桜、咲きましたねえ・・・。
 「ようやく春が来た!」と、私も昨日の夕方、お花見をいたしました。せっかく上野の住人になったんだから、「上野公園でお花見をしましょう」と、若い仲間たちみんなで出かけました。
 ただ、昨日、寒かったでしょ。大勢の人が寒いなか、毛布にくるまりながらお花見してましたけど、私たちは賢いので、歩きながらお花をゆっくり見て、お花を目に焼き付けて、教会に帰って、お花を思い出しながら、暖かく(うたげ)をしました。(笑) ・・・まあ、でも、どんなお花見でも、楽しいですね、仲間たちで一緒に食事をするってのは。
 それにしても、なんでみんな、こんなにお花見好きなんだか分かりますか? 私、昨日、お花見している方たちのたくさんの笑顔を見ているうちに、ハタと気づきました。これって、つまりは「復活祭」なんだなって。人々が、寒い死の世界を越えて、今、暖かい春を迎えてね、新しい命を喜び合う、宴を共にする、復活祭なんです。
 あれ、だから、みんな、美しいお花を見上げているようでいて、実は、その先の「天」を仰いでるんじゃないですか。・・・命よみがえる、天の栄光の世界。地上の厳しい人生の中で、しかし、こんなに美しい春が来て、天国のように花が咲き誇る。それこそが復活なんです。希望なんです。だから、その下で一緒に宴を開いて、喜び合う。・・・「楽園」のしるしなんですよ、あの満開の花は。「天国」の先取りなんですね、お花見の宴。
 一人でお花見ってしないでしょ? 一人も見かけませんでしたよ、一人ぼっちで座ってお花見してる人。吉野家でもどこでも、みんな一人で食べてるじゃないですか。でも、お花見は、絶対に一人でやらない。何故か。あれは、天国の先取りだからです。一人の天国なんてありえませんから。満開のお花の下は、天国の入り口なんです。新しい命、共にある喜び、生かされている今日・・・永遠を感じさせ、「私たちが共に生きていることは、本当に素晴らしい」って思える、恵みのとき。
 上野公園の大騒ぎのお花見の中を、私とニャー助祭(※1)と学生たちで歩きましたけれども、歩いてるうちに私、なんだか感動してきてね、「これは復活祭だ! 復活祭に司祭がいるんだから、皆さんを祝福しよう」と、周囲の人に十字を切って、祝福しながら歩いた。(笑) ニャー助祭はやらなかったけど。(笑)・・・そのうち、上野の山の端の、街のネオンがバーッと見える所に出たので、街中で精いっぱい生きている人たちを、私、祝福しました。大きな十字を切ってね、「神の国は来ているよ。みんな、一人ぼっちじゃないよ!」って。

 イエスさまがラザロを生き返らせたっていう、この出来事を読みながら(※2)、つくづくと思うことがある。
 ・・・皆さん、「死」って何だと思います? 皆さんは「いつか自分は死ぬ」って思ってます?
 イエスさまが、すごいことを言ってましたよね、
 「死んでも生きる」 (ヨハネ11:25) (※3)
 ・・・すごいです。
 日本語の文法としては、成立している言葉ですけど、内容はメチャメチャですよね。「死んでも生きる」だなんて、「生きてるんだから、死んでないじゃん」とか、「死んだんなら、生きてないじゃん」って、まあ、普通は、そう思う。
 でも、私に言わせれば、これが「真実」なんです。「死」とか「命」とか、私たちが勝手に思いこんでることの方が、ぜんぜん当たってない。
 実は、イエスさまが「死」って呼んでるものは、・・・なんていうんでしょう、私のイメージでは、「何ともつながっていない、完全に孤独な状態」ですね。・・・まさに、ラザロの状態ですよ。ぐるぐる巻きにされて、石のふたに閉ざされた奥での、完全なる孤独状態(※4)。誰ともつながっていない。何ともつながっていない。この状態が、「死」なんです。ということは、生きていても、「何ともつながっていないから死んでる」ってことがある。逆に、どんな状態であれ、神の命とつながっていれば、それは「命」なんです。
 ふだん一人ぼっちでつらい思いをしている人たちが、「せめて、このひとときだけは」と、花の下に繰り出してきて、誰かと一緒にメシを食う。これはもう、永遠なる命、皆が結ばれている天国への憧れ以外の何ものでもない。一人でいるのが死、一緒に食べるのが、命。
 「命がなくなることが死だ」って思うかもしれないけれど、じゃあ、体が生きていて、メシ食っていれば、それは「命」か。・・・人は、一人でメシ食っちゃいけないんです。誰ともつながっていなければ、その状態が「死」なんですよね。
 一人暮らしが増えているようですけれども、・・・一人で食べて、おいしいですか? もちろん、一人で食べなきゃならないことはありますし、いつも誰かと食べるわけにはいきませんけど、できる限り、一緒に食べましょうよ。「一人で食べても、おいしいものはおいしい」って言った人がいるけど、私なんかは、おいしければおいしいほど、一人で食べてるのがさみしくなる、そういう性格です。誰かと「おいしいね♪」って言いたいなって。だから、何とかして、みんなで集まって食べようと工夫し始める。
 そう言えば、みんな、SNS(※5)で、ほとんど強迫観念に駆られているかのように、食べ物の写真を送り合ってるでしょ? 「こんなおいしいもの食べました」って。結構、食べちゃってから気づくんですけどね。「あっ! 撮っときゃよかった!」って。(笑) で、慣れてくると、食べるのをぐっとこらえて撮って、まだ食べてないのに送る。それって、「一緒に食べようよ!」って言ってるんです。ただの自慢じゃない。「これを一緒に食べられなくて、さみしいよ」って言ってるんです。
 だけどねえ、写真を送られたってね、おいしかないですよねえ。(笑) 「一緒に食べたいよ」っていう気持ちは伝わってきますけどね。やっぱり、100枚の写真より、一度でいい、時間をやりくりして、一緒に食べないと。そして、ホントに一緒に食べるときに、チラッと天国が始まるんですよね。・・・実は、そういうことをしてるんですよ、「教会」っていうのは。イエスさまが始めたのも、そういうことなんです。イエスの宴は永遠なる宴だし、「一緒にいれば」、そして、「一緒に食べていれば」、もうそこに復活の栄光が現れる。
 一人じゃやらないだけじゃなく、「食べないお花見」ってのもないでしょ? 必ず、何か食べる。それは天国だし、復活祭ですから。復活祭だから、みんな本能的に頑張っちゃうんですよ。席取りで寒~い思いをしてね。前の晩からとか。あれはもはや、私に言わせれば、聖週間です。(笑) 寒い聖金曜日と、徹夜の席取りの復活徹夜祭をくぐり抜けて、復活祭っていう・・・。でも、それだけの価値があるんです、復活祭には。・・・「一緒に食べる喜び」っていう天国の価値がね。

 第1朗読(※6)、第2朗読(※7)に、霊の働きのことが出てきました。皆さん、勘違いしているかもしれませんが、霊って個人には働かないんですね。個人に働いていると、たとえ本人がそう思ったり、周りがそう思っていても、それは霊の働きのほんの一部っていうか・・・。霊は、全体に働くんです、みんなを結ぶために。個人をみんなと結び合わせるために、そして、みんなが個人とつながるために、霊が働く。
 霊は自由に働いて、大勢の中を吹き抜けて、一つにするんです。こう、お花見の春風みたいにいい香りが漂って、みんなが一つになる。だから、誰かが個人的に、「私は祈って、霊に満たされて、救われた!」って思ったとしても、そんなの、ぜんぜん勘違いです。・・・だって、さみしいでしょ、一人で救われたって。極端な話、「天国に行ったら一人でした」とか。・・・それ、救いじゃない。意味がない。私たちは、み~んなと、一緒にいなきゃならないんですよ。一緒に救われなきゃなんないんですよ。霊はそのために、そういう働きをする。
 霊の働きの、この二人称複数形がうれしいですね。・・・第1朗読でいえば、「わたしがお前たち(・ ・ ・ ・)の中に霊を吹き込むと、お前たち(・ ・ ・ ・)は生きる」 (エゼキエル37:14/強調引用者) って言って。一人称単数の神さまが、二人称複数の「お前たち」の中に、霊を吹き込むんですね。「わたしが、あなたの中に」なんていう一人称じゃないんです。そんな、個人的なことじゃない。
 ・・・宗教って、ここを、みんな勘違いするんですよね。個人的に信仰が増すとか、個人的に救われるとか、「自分」の話だと思ってる。黙想会に出るのもいいけど、「あなた一人救われてどうするの?」っていう話ですよ。
 「お前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる」 (ibid.) 。この、なんていうんでしょう、・・・家族感? 神さまの息吹が吹き込まれて、神の国が現れる。一緒にメシ食ってるときって、そんな感じでしょう? 「わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる」 (エゼキエル37:14) 、・・・つまり、天国が始まるってことですよね。
 第2朗読、パウロの「ローマの教会への手紙」にもありました。「キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがた(・ ・ ・ ・ ・)のうちに宿っているその霊によって、あなたがた(・ ・ ・ ・ ・)の死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」 (ローマ8:11/強調引用者)
 「あなたがた」って、複数ですよね。これ、みんなに言ってるんです。「みんな」のうちに宿っている霊によって、「みんな」がつながったもの、つまり、生きる者になる。・・・分かります? 一人ぼっちで死んでいる人たちが、霊の働きでつながって、そこに命が始まって、・・・生きる者になる。「死から命へ」っていうのは、「単数形から複数形へ」ってことなんです。
 バラバラで暮らしている、今の世の中、たぶん、続かないと思います、この仕組みは。これ以上無理です。これからは、「みんなで、信じ合って、一緒に暮らしましょうよ」っていう世界になっていきます。間違いなくなっていく。・・・それ、まずは、教会が始めていかなくっちゃ。
 「一緒に暮らすのは大変だ」っていうんなら、せめて週に一度でも集まって、一緒にご飯食べましょうよ。そのほうが、材料費も安く済みますよ。ガス代も暖房費も、安く済みますよ。み~んなそれぞれの家をそれぞれに暖めてるなんて、もったいないも甚だしい。一緒に集まりましょうよ。お花見で、みんなで毛布にくるまってるだけでも、世の中の暖房費、ずいぶん減ってるはずですよ。
 み~んなで、いつも、一緒にご飯を食べる。それが、教会の原型です。イエスさまが始めたことって、とてもシンプルです。あんまり難しい話にしないでくださいね。イエスさまは、バラバラだった弟子たちと共に遊動生活をしましたけど、ともかく一緒にご飯を食べ、しまいには何千人集まってるところでも、「みんなで一緒にパンを食べようよ」と(※8)。そうして死ぬ前の日には、「これからは、一緒にご飯を食べなさい」って遺言を残して(※9)、殺されてもなお、復活の主として弟子たちを呼び集め、食事をし、ご自分の霊を与えました。それが、教会の誕生です。だから、初代教会は、み~んな一緒にご飯を食べてた。
 教会が、ホントにおいしい、霊的な宴を実現させていたら、それは神の国のしるしになります。・・・それこそが、世界を変えていきますよ。

 『わたしは、ダニエル・ブレイク』っていう映画(※10)、ご存じ? 見た人、います? 見てくださいね。マストムービーです。宿題にしましょう。来週の日曜日に、この『わたしは、ダニエル・ブレイク』の話をしますから、見てこないと何も分かりませんよ。(笑) ・・・お金がないっていう人、領収書を持ってきたら、私が出します。(笑) 必ず見てください。素晴らしい映画です。
 私は、ケン・ローチ監督(※11)を、もう何十年も前から尊敬してます。彼は、「いい映画を撮りたい」とかじゃないんです。「いい世の中にしたい」んです。このモチベーションは美しい。イタリアでいえば、エルマンノ・オルミ(※12)もそうですけど、イギリスのケン・ローチ監督。「いい世の中にしたい」って思う、その霊的な香りは、画面の隅々から香り立ちます。・・・泣かされますよ。
 まあ、世の中に、泣かされる映画は結構ある。感動して、外に出て、「よかったね~」って。・・・そうじゃない。ケン・ローチの映画は、心打たれて、外に出たら、「よし! もう少し、いい世の中にしていこう!」って。・・・励まされるんです。

 現代のグローバリゼーションの中で、運悪く滑り落ちて、社会保障制度からもこぼれ落ちて、生きることもままならなくなっていく人たちの話です。
 主人公は40年間、真面目に生きてきて、税金も払ってきたけど、妻に死なれて一人ぼっちになり、心臓病で働けなくなり、社会保障を求めて行政に掛け合うんだけれども、行政っていうのは実に非効率的で、非人間的で、・・・大きな声じゃ言えないけれども、なんかこう、弱者を合法的にいじめてるみたいなとこがあるじゃないですか。巧妙にフィルターを厚くして、なるべくお金を出さないようにしてますよね。主人公は、そういう窓口での対応とかで、屈辱を味わい、傷つけられるばかりで、なかなか保証を受けることができない。・・・でも、映画では、同じような境遇の人たちが出会い、そういう弱い者同士は、ちゃんと分かり合って、いたわりあって、つながっていくんですね。そこに、ちょっとこう・・・、神の国が、チラリと見える。
 やっぱりね、これ、直観ですけど、100人以上のチームって、家族的に支え合うのは、難しいね。だから、行政も大事だけど、もう、行政だけに頼るだけじゃなく、まずは、10人、50人くらいのチームを工夫して、信頼関係を育ててなんとかやってくっていう実験を、われわれで、やり始めましょうよ。血縁じゃない、しかし家族としてちゃんとつながっている、そういうチーム。そこに、ホントのいたわりとか、一致とか、希望が見えてきますよ。
 映画の中で、主人公と、子どもを抱えて家を負われて苦労しているシングルマザーの一家とが出会ってね、助け合うシーンがあるんですね。次第に仲良くなっていくんだけど、あるとき、貧し~い食事なんだけど、一緒にご飯を食べるシーンがあるんです。そのときから、「ああ、もうこれ、家族になったな」って、観てる人が分かるようなシーンです。
 弱い者同士、非常に貧しい食事だけれど、一緒に食べた瞬間から、家族になる。信頼関係が生まれる。そして、かけがえのない存在となって、支え合うようになる。何かが通い合う。それこそが、まさに、霊の働く現場でしょう。
 もうね、血縁も大事ですけど、大体にしておいたほうがいいですよ。かえって、血縁のほうが縛りも多いし、冷たかったりしますもんね。みんな、血縁幻想にとらわれて、家族、家族って言ってるけど、そういう家族のほうが、ぜんぜん家族じゃなかったりする。それが悪いって言ってるんじゃないですよ。ただそれには限界があるんだから、それはそれで、大体にしておいて、血がつながってない同士でここそ、家族をつくる。そのために、一緒に食べる。ミサなんて、それをやってるんですよ。血よりも濃いつながりの、教会家族をやってるんです。そういう家族のモデルがないから、実感がないだけであって、実はみんなそれを求めているはずなんです。
 ぜひ、具体的に、そんな恵みの世界をつくる工夫を始めましょうよ。私、あの映画を観て、「よし、血縁でなくとも、血の通った、家族づくりを工夫しよう」って思ったし、昨日のお花見で、つくづくと、実は、みんなが求めてるのは、そんな教会家族なんだって、確信しました。

 まあ、ずっとこの一年間、上野教会でも、そういうチャレンジをやってきたつもりです。「一緒ご飯」する仲間づくり。先週でいえば、「福音塾」がありました。これは、牧師たちの集まりです。プロテスタントの牧師たちと一緒にメシを食うっていうことを始めてるんですよ。別に議論するわけじゃない。合同礼拝とか、そんな立派なことをするわけじゃない。個別の宗教を超えた普遍的宗教を実現するために、まず、「違う」と思ってた人たちと一緒にメシを食うことで、信頼関係をつくり、「実はおんなじなんだ」ということを体験する。
 「まんまカフェ(※13)」もそうですね。木曜日の昼間、「一緒にメシを食う」子育て支援です。「お母さんたち、バラバラでご飯食べてちゃダメだ。一人で悩み抱えてちゃダメだ。家から出てきて、一緒にご飯を食べましょう」って。出てきたおかげで、みんなに家族のことで悩んでる心の内を話せて、ポロポロと泣いたお母さんもいましたよ。
 そう、おとといは、「独身家族の会」っていうのをやったんです。「独身貴族」じゃなくて、(笑) 「独身家族」です。独身って、実はとても可能性に満ちてるんですよ。・・・ねえ、結婚なんかしないほうがいいですよ、皆さん。(笑)・・・とまでは言いませんが、結婚のせいでかえって苦しんでる人も現にいるわけですし、あまりにも結婚にとらわれすぎているってことないですか。むしろ、独り身だからこそ、血縁を超えた家族をつくるチャンスというか、必要というか、それに恵まれているって言っていいんじゃないか。その意味では、選ばれた者として、もっと積極的な意義を信じて、まずは一緒にご飯食べましょうという、まあ、そんな集まりです。
 ・・・集まった中のひとりが、面白いこと言ってたなあ。バツイチなんですけど、いろいろ必要があって、元のダンナと時々会うことがあるんですって。で、別に、そんなに仲が悪いわけでもないので、会ったときは、コーヒーくらいは一緒に飲む、と。でも、絶対に一緒に食事はしないようにしてるんですって。一緒にメシ食っちゃったら、何かがつながっちゃって、別れた意味がなくなっちゃうからだとか。
 これは考えさせられますね。逆にいうと、「一緒にメシ食っているのに、家族じゃない」っていう状態はあり得ない。あるいは、「家族なのに、一緒にメシ食わない」っていうこともあり得ない。食べたら、もう家族なんです。

 皆さん。家族一緒に、ご飯、食べてますか?
「キリストの家族」という教会家族、みんな一緒にご飯、食べてますか?
「神の国の家族をやっていきましょうよ!」っていうことを、私は今日、特に呼びかけたいです。
今日は第一日曜ですから、ミサの後、「福音講座」があります。この話、長くなりそうなので、続きはそこでやります。どうぞ聞いてください。
 そうそう、その「福音講座」なんかでも、お昼どきなんで、「おなか空いたから・・・」って、ミサの後すぐに帰っちゃう人もいる。でも私としては、「家族なんだから、残って、一緒にご飯食べようよ」って言いたい。ということで、今、「福音講座」の日に、ミサの後でパンを売る話を進めております。・・・実は今、このミサに、私の友人のパン屋さんが、いらしてますけれども。あちらの方です。(パン屋さんに)ね、おいしいパン、いっぱい焼いてくださいね。よろしくお願いします。教会用っていうことで、少し安くしてくれるんですよね? (笑) ・・・お願いしますよ。
 そうして、みんながミサの中で一緒にパンを食べて、一致しているということを、具体的に現してほしい。すなわち、「ミサで終わるのではなく、ミサが始まりだ」というような宴を、みんなで始めてほしい。そこに、この世界を救う答えが、いっぱい秘められています。そこに、救いを求めている人が、いっぱいやってきます。
 なんかね、つくづく思うんですけど、たとえ一人ぼっちで暮らしてても、ホントに信じ合える、家族同然、いや家族以上の仲間と一致していたら、安心して、死ぬに死ねるんじゃない? そもそも、それはもう、死じゃないんじゃないか。そんな一致は、永遠なる一致だし、この世では死と思われる出来事は、実は天の宴に生まれ出ていくっていうことなんだから。
 ミサは、そのしるしなんです。ミサが、天国の入り口なんです。満開の桜なんか、あのむこうはもう、天国なんですよ。われわれは、桜ならぬ神さまの御国を仰いでですね、そこで共に宴をいたします。今日の聖体拝領も、「一緒に食べている、これが家族だ」という気持ちで、しっかりと頂いてほしい。イエスさま、お喜びになりますよ。
 天国でね、いつかイエスさまと一緒にお花見をするんだ・・・。もうすぐ満開ですね。ぜひ、仲間たちと一つの家族になって、お花見してください。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「ニャー助祭」 (既出/「助祭」についての説明もあり)
◎ヨセフ・グエン・タン・ニャー(Joseph Nguen Thanh Nha)助祭
 ベトナム出身。イエズス会
 2017年3月4日に、東京の麹町教会(イグナチオ教会)で助祭に叙階。
 半年間、浅草、上野の両教会に奉仕することになった。9月23日に、司祭に叙階される予定。
(参考)
・ 「天の鼓動の最初の一打ち」(「福音の村」2017/3/12説教 参照※1
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※2:「イエスさまがラザロを生き返らせたっていう、この出来事を読みながら」
この日、2017年4月2日(四旬節第5主日)の福音朗読箇所のこと。
 ヨハネによる福音11章3~7節、17節、20~27節、33b~45節
〈小見出し:「ラザロの死」11章1~16節、「イエスは復活と命」17~27節、「イエス、涙を流す」28~37節、「イエス、ラザロを生き返らせる」38~44節、「イエスを殺す計画」45~57節から抜粋〉
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※3:「死んでも生きる (ヨハネ11:25)
===(聖書参考箇所)===
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 (ヨハネ11:25-26/赤字引用者)
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※4:「まさに、ラザロの状態ですよ。ぐるぐる巻きにされて、石のふたに閉ざされた奥での、完全なる孤独状態」
参考画像 : 「ラザロの復活(蘇生)」ジョット、1303-5年20170402-2s
===(聖書参考箇所)===
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。〔中略〕(イエスは、)「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。 (ヨハネ11:38、43-44)
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※5:「SNS」
 ソーシャル・ネットワーキング・サービス(
Social Network Service)またはソーシャル・ネットワーキング・サイト(Social Network Site)の略。人と人とのつながりを促進、支援する、コミュニティ型のWebサイトおよびネットサービス(Webサイト)のこと。
 日ごろの考えや思いを伝えたり、写真や動画を掲載したり、コメントしたり受けたり、興味のあるジャンルで作られたコミュニティに参加したりできる。
 Facebook(フェイスブック)、Twitter(ツイッター)、LINE(ライン)、Instagram(インスタグラム)など。
(参考)
・ 「無料SNS」(フリーソフト100)
・ 「SNS」(IT用語辞典) など
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※6:「第1朗読」
参考画像 : 「枯れた骨の谷のエゼキエルのビジョン」作者不明、17世紀20170402-1s
この日、2017年4月2日(四旬節第5主日)の第1朗読は、以下のとおり。
  エゼキエル書(エゼキエルの預言) 37章12~14節
   〈小見出し:「枯れた骨の復活」37章1~14節から抜粋〉
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※7:「第2朗読」
この日、2017年4月2日(四旬節第5主日)の第2朗読は、以下のとおり。
   使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマの信徒への手紙)8章8~11節
   〈小見出し:「霊による命」8章1~17節から抜粋〉
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※8:「しまいには何千人集まってるところでも、『みんなで一緒にパンを食べようよ』と」
 イエスが、二匹の魚と五つのパン(以下①)や、七つのパンと小さな少量の魚(以下②)を増やし、イエスの元に押し寄せた何千人という群衆に分け与えたという話が、福音書に紹介されている。
(聖書参考箇所)
① 「五千人に食べ物を与える」
 マタイ14:13~21、マルコ6:30~44、ルカ9:10~17、ヨハネ6:1~15)
② 「四千人に食べ物を与える」
 マタイ15:32~39、マルコ8:1~10
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※9:「そうして死ぬ前の日には、『これからは、一緒にご飯を食べなさい』って遺言を残して」
イエスは、その死の前夜、直弟子たちと共にした夕食(最後の晩餐)の折、「このように行いなさい」と主の晩餐を制定された。
(聖書参考箇所)
① 「過越の食事をする」「主の晩餐」
 マタイ26:17~30、マルコ14:12~26、ルカ22:7~23、
② 「主の晩餐の制定」
一コリ11:23~26
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※10:「『わたしは、ダニエル・ブレイク』っていう映画」
◎ 『わたしは、ダニエル・ブレイク』
 イギリスの巨匠ケン・ローチ監督作品。イギリスの複雑な制度に振り回され、貧困、病などの現実のなかで、助け合って生きる人びとの姿が描かれる。
 イギリス、ニューカッスルで大工として働くダニエル。彼は心臓に病を患い、ドクター・ストップのため失職。国の援助は手続きも複雑で、満足に受けられない。そんな中、シングルマザーのケイティと2人の子どもに巡り会い、絆を深めていく。しかし、彼らは厳しい現実によって追い詰められていく。
 2016年、第69回カンヌ国際映画祭で、最高賞のパルムドールを受賞。
 監 督: ケン・ローチ
 キャスト: デイヴ・ジョーンズ、ヘイリー・スクワイアーズ 他
 原 題: I, Daniel Blake (上映時間:100分)
 公 開: 2016年5月13日(フランス)、2017年3月18日(日本)
 製作国: イギリス、フランス、ベルギー
 配 給: イーワン・フィルムズ(英語版)、ロングライド(日本)
(参考)・ YouYube予告編

『わたしは、ダニエル・ブレイク』(公式サイト)
・ 「劇場情報」(公式サイトより)
・ 『わたしは、ダニエル・ブレイク』(映画.com)
・ 『わたしは、ダニエル・ブレイク』(Yahoo! 映画)
(ネタバレ注!)『わたしは、ダニエル・ブレイク』のネタバレあらすじ結末(映画ウオッチ)
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※11:「ケン・ローチ監督」
◎ケン・ローチ (Kenneth Loach,1936/6/17~)
 イギリスの映画監督、脚本家。
 一貫して労働者階級や移民たち、社会的弱者の日常に焦点を当て、リアルに描いている。世界的にも高く評価され、三大映画祭や各映画賞で数々の賞賛を受けている。
 2006年には、『麦の穂をゆらす風』でカンヌ国際映画祭のパルムドールを初の受賞。2016年、『わたしは、ダニエル・ブレイク』で2回目の受賞を果たしている。
*****
代表作:『ケス』(1969)、『ブラック・アジェンダ/隠された真相』(1990)、『レイニング・ストーンズ』(1993)、『リフ・ラフ』(1991)、『大地と自由』(1995)、『麦の穂をゆらす風』(2006)など。
(参考)
・ 「ケン・ローチ監督」(「わたしは、ダニエル・ブレイク」公式サイト)
・ 「ケン・ローチ」(ウィキペディア)
・ 「ケン・ローチ(allcinema)
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※12:「エルマンノ・オルミ」
◎エルマンノ・オルミ (Ermanno Olmi,1931/7/24~)
 イタリアの映画監督、脚本家、撮影監督、映画プロデューサー。
 ウィキペディア(>「エルマンノ・オルミ」)にも紹介が掲載されていますが、以前、晴佐久神父がお説教の中で語っておられるので、以下に引用します。
*****
 
わが生涯ベスト10に絶対入る映画に、エルマンノ・オルミ監督の『木靴の樹』っていう映画がある。素晴らしい映画です。カンヌ国際映画祭で、グランプリを獲りました。地味な映画ですけど、私はもう、大好き。リバイバルの時には、劇場用パンフレットに原稿書きました。「祈りの映画だ」って。
 イタリアの、カトリックの監督でね、名もない普通の人の尊厳の美しさや、人々の中に宿っている普遍的な「神さまの愛」が、淡々とした静か~な映像のうちに、ちゃんと映っているっていう、そういう映画を撮れる監督です。(「善を行うことは、信仰にまさる」:「福音の村」2013年7月14日説教より)

*****
代表作:『定職』(1961)、『婚約者たち』(1963)、『木靴の樹』(1978)、『偽りの晩餐』(1987)、『聖なる酔っぱらいの伝説』(1988)『ポー川のひかり』(2007)、『楽園からの旅人』(2011)など
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※13:「まんまカフェ」(既出)
 「まんまカフェ」は、カトリック上野教会で2016年11月末にスタートした集い。孤立しがちなお母さんのための子育て支援が目的。毎週木曜日の12時から集まり、おしゃべりしたり、一緒にご飯を食べたりして、交流を図っている。スタッフには、ベテランママさんもいて、頼もしい。ブログやツイッター、フェイスブックで、お知らせや報告、詳しい行き方の説明も。
 子育て中のママさん、一度、いらしてみてください。また、そんなママをご存じでしたら、ぜひ、紹介して差し上げてください。
(参考)
・ 「安心の涙の予感」(「福音の村」2016/12/4説教:中ほど=上から5段落目 >この辺~)
・ 「まんまカフェ」(blog/ブログ)
・ 「まんまカフェ」(Twitter/ツイッター)
・ 「まんまカフェ」(facebook/フェイスブック)
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2017年4月2日(日) 録音/2017年4月16日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英