「神の国・ファースト」

【カトリック浅草教会】

2017年1月22日 年間第3主日
・ 第1朗読:イザヤの預言:(イザヤ8・23b-9・3)
・ 第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント1・10-13、17)
・ 福音朗読:マタイによる福音(マタイ4・12-23、または4・12-17)

【晴佐久神父様 説教】

 第三土曜日、「いやしのミサ」というのを、市ヶ谷の援助修道会の聖堂でやっておりますが(※1)、フランスのテレビ局から、日本のカトリック教会の現状を知りたいということで、このミサへの取材依頼があり、協力することにしました。で、ミサの写真が欲しいということで、昨日のミサにカメラマンが入ったんですね。・・・あれ、面白いですね。カメラマンがカメラを向けると、女性はみんな、前髪を直したり、(笑) 神父も、いつにも増して、手をしっかり開いたりね。(笑) まあ、ご愛敬です。
 で、なんでフランスのテレビ局が日本のカトリックを取材したいかっていうと、遠藤周作原作の『沈黙』っていう映画(※2)、ご存じですか? マーティン・スコセッシ監督の映画ですけど、あれがフランスでも評判になっていて、その影響です。
 たぶん、フランス人なんかだと、・・・想像ですけど、「キリシタン迫害のその後、日本のキリスト教はどうなったの?」って思ってるんじゃないですかね。まあ、中には潜伏キリシタンの史実や明治の再宣教を知ってる人もいるでしょうけど、ほとんどのフランス人は、おそらく、現代の日本のカトリック教会のこと、何も知らないと思いますよ。まあ、実際、日本のカトリック信者数は人口の0.4パーセントで、世界で最も小さな教会だと言っていいわけですけれども。
 ですから、テレビ局としては、あの禁教令と迫害の歴史のある日本に、現代もカトリック教会が確かに存在してるんだってことを、紹介したいんだと思うんですね。かつての殉教の地に、それこそ、病んでいる人、苦しんでいる人のための、この「いやしのミサ」のように、確かに人々を救っている教会が、ちゃんと存在してることを紹介したいんでしょう。

 皆さんは、この映画、ご覧になりました?
 ちょうど、昨日が公開日だったんですけど。さっそく観に行ったっていう方、手を挙げていただけますか? ・・・おお、熱心というか、結構いますね。(笑) さっそくご覧になったのね。
 いろんな意味で、「考えさせられる」映画だという評判です。私も先月、招かれて試写会で観たんですけれど、主催者の方が言ってました。「普通は、皆さん、試写会を観終えたあと、面白かったとか、感動したとか、いい映画ですねとかって言うんですけど、この映画だけは、みんな口を揃えて、『いやあ、・・・考えさせられました』って、そう言うんですよ」って。
 まあ、一応、分かる気はします。迫害のあまりの厳しさに、自らの信仰を問われるような気持になるんでしょう。「自分は、果たして踏み絵を踏まずに済むだろうか」って考えさせられる。
 遠藤周作の、あの原作を読まれた方も多いでしょう。原作は、かつては、棄教を肯定するかのように誤読されて、物議をかもしたこともありました。そのように、「棄教」か「殉教」かという二元論として、「考えさせられた」信者さんも多かったんじゃないでしょうか。
 でも、あの原作って、そういう二元論を超える、普遍主義的なキリスト教を描いていたんじゃないですか?
 私は、今回この映画を観て、みんながこれを「考えさせられた」って言ってしまう、そこに、むしろ「考えさせられた」んですね。ひとことで言うと、踏み絵を踏むか踏まないか悩むような二元論は、果たして本当のキリスト教だろうかということです。本物の信仰は、「たとえ踏もうが踏むまいが、どっちにしても救われる」でなければならないでしょう。
 私は、あの遠藤周作の原作は、要するに、「原理主義」と「普遍主義」の話だと、そう捉えています。残念ながら、そういうくくりでこの作品を捉えて、そこに感動する方は、少ないのかもしれない。現に、その試写会でも、たぶん牧師先生だと思う二人連れの方が、見終わってから、「いやあ、私もあんな拷問に遭ったら、踏み絵を踏まずにいられるかなあ」「いやもう、迫害が起こらないように祈るしかないですね」って語り合ってました。
 つまり、「教えを守るのか、捨てるのか」「殉教するのか、逃げるのか」という二元論。
 でも、私に言わせれば、それって、「これでなきゃならん」っていう原理主義でしょう。「守れば救われる、逃げれば滅びる」っていうんじゃあ、すべての人を救う福音の普遍性はどうなっちゃうのか。
 そもそも、あの迫害は、本来は起こらなくてもいい悲劇だったはずです。私は、「あの時代の日本に、本来のイエスの教えをもたらしたならば、あんな悲劇を生まずに済んだはずだ。それこそ、第二バチカン公会議で言われているような、普遍主義のキリスト教として伝えられていたら、あんなことにはならなかったはずだ」と思う。そして、「殉教者たちの犠牲を無駄にしないためにも、今の時代になお生き残っている原理主義的キリスト教の過ちをきちんと指摘し、真のキリストの教会の普遍主義を、いっそう訴え、広めていかなきゃならない」と、あの映画を観て、つくづくそう思った。
 やっぱり、「イエスへの信仰を告白しないと救われない」とか、「キリスト教の洗礼を受けないと天国に行けない」とか、「罪を犯したままで改心しないと裁かれる」とか、そういう表現はあまりにも乱暴で、普遍主義的な真のキリストの教えからいうと無理がある。そのような原理主義は、人々を分断し苦しめるだけで、そこには、弱者をこそ救う福音の香りがない。

 私に言わせれば、踏み絵は「踏んでもゆるされる」どころではなく、「踏むべきだ」と、そう言いたい。イエス・キリストの十字架は何であるかということを、本当に知り、信じているならば、そうするべきだと思う。むしろ、福音の普遍性を信じる信仰表現として、「踏むべきだ」と。
 さっき、第二朗読でパウロが、「キリストの十字架がむなしいものになってしまわないように、福音を告げ知らせる」 (cf.一コリント1:17) と、そういう言い方をしていましたけれども(※3)、「キリストの十字架」っていうのは、福音において意味を持つものです。イエスが言ってるのは、「このわたし、・・・『わたしが(・ ・ ・ ・)』十字架を背負う、すべての人の罪を背負って命を捧げる、そこにおいて、すべての人のうちにもたらされている、永遠の救いが現実のものとなるんだ」ってことだし、そこに、キリスト教の最もうれしい知らせ、福音があるはずです。
 あなたはもう救われたんだ。どこまでも罪深いあなただけれど、もう救われているんだ。あなたが、何教、何宗を信じていようと信じていまいと、最も根源的なところで、キリストにおいて永遠の救いを得ているんだ。という、この「福音」を汚してはいけません。
 ・・・・だいたい、「棄教」って、何を棄てるんでしょう。「キリスト教を信じている」っていったって、ねえ、じゃあ皆さん、「私はキリスト教を信じてます」って、堂々と、どこまで言えますか? 仮に言えたとしても、「じゃあ、キリスト教って何ですか? 何を信じてるんですか?」って聞かれたら、皆さん、どう答えますか? どのみち、いい加減な信仰でしょ、皆さん。私も、そうです。でも、一つ信じているのは、「救い主イエス・キリストによって、そんな私は救われた」と、「そんなあなたも、もう救われているんだ」と。・・・こんな信仰でも、そう宣言できるところが、キリスト教のすごいところなんですよ。
 私、生まれ変わったら、あの時代に日本に宣教に来る宣教師になりたいですよ。そうして、普遍主義なキリスト教を、日本の人たちに訴えたい。「自分たちは信じて救われている、あなたたちは救われていない」という、上から目線のキリスト教ではなく、「わたしも、あなたも、み~んな救いに(あずか)ってるんだ」と、「救ってくださった方を、神と呼ぶか仏と呼ぶかはどうでもいい、ともかく、その、まことの親である方を共に信じて、みんなが仲良く暮らせる国を作っていこう」って、日本の人たちに伝えて回りたい。そして、「日本の尊い宗教者たち、親鸞さん、法然さん、そんな偉大な普遍主義の大先輩たちの中にもまた、天の父のいつくしみの教えが流れていて、そこにこそ、私たちが信じているイエス・キリストの道が、御仏(みほとけ)にも通じる透明なキリストの道として存在しているんだ」と、仏教徒の皆さんに訴えたい。
 あの時代、もしも、「パードレ(神父さま)、踏んでいいですか・・・?」って聞かれたら、私は躊躇(ちゅうちょ)なく、即答するでしょう。「踏みなさい。イエスさまが、それを望んでおられます」と。
 イエスさま、殺される前の晩、最後の晩餐の席で、弟子たちの前にひざまづいて、その汚~い足を、ゴシゴシと洗ったじゃないですか (cf.ヨハネ13:1~20) それって、何をしてるんですか?
 「あなたのその汚い足で、わたしを踏みなさい」っていうことですよ。
 ペトロが、「いや、そんなことできません」って言ったら、イエスさま、こう言ったんですよ。「わたしが、あなたの汚いその足を洗わなかったら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」。ペトロはあわてて、「じゃあ、洗ってください!」って言いましたけれど。それは、「じゃあ、踏みます」ってことですよ。
 すべての人の苦しみを背負ったイエスさまは、私たちに、「あなたに踏まれるために私は死んだんですよ。踏んでくれなければ、あなたとわたしのかかわりは、なくなっちゃいますよ」って言ってるんじゃないですか? (cf.ヨハネ13:8-10) (※4)
 遠藤周作は、あの当時、留学先のフランスで、原理主義的な上から目線のキリスト教を体験して、帰ってきました。だからこそ、なんとかして普遍主義的な、・・・日本人の心にも響く本来のキリスト教を描き出したいと、熱い思いであの小説を書いたんです。ですから、私はあの小説を、「原理主義を超える普遍主義の話なんだ」というふうに読みましたし、今のこの原理主義的な、自閉的、自己満足的な時代においては、その意義はますます大きくなっていると思う
 どれほどの罪びとであっても、どれほどの裏切り者であっても、イエスさまは、温かいまなざしで、天の父の愛のまなざしで、見つめてくださるし、ゆるしてくださいます。そうして、すべての人を、みもとに受け入れてくださる。「神におできにならないことはない」(※5)。聖書に書いてあるのはそのような福音です。大事なことは、罪を悔い改めることではなく、罪のゆるしを信じられるかどうかなんです。
 キリスト教徒でありながら、いまだに、裁きを恐れている人は多いですけれども、それでは、あの迫害の時代から何も進歩していないことになる。ここにお集まりの皆さんには、「あなたはもう救われているんですよ」と、「もう、キリストの救いは始まってるんですよ」と、そう申し上げたい。

 イエスさまが、今日もマタイの福音書で(※6)、宣教の最初のひと言として、「悔い改めなさい。天の国は近づいた」 (cf.マタイ4:17) って言ってますでしょ。この「悔い改めなさい」の意味は、「悪人であるあなたたち、善人になりなさい」じゃないですよ。
 「悪人である自分を、しっかりと見つめなさい。そして、そんな悪人を救ってくださる天の父に、心を開きなさい」
 ・・・これが悔い改めです。悪人でなくなることなんて、できませんから。そうして、
 「そのような天の父の限りない愛のうちに、もう、天の国、神の国は始まった。神の子であるこの私において始まっている。そして、わたしの十字架と、十字架を栄光に変える復活において完成する」
 イエスの言いたいことは、そこです。だから、ぼくらは、「天の国は、もう始まったんだ!」って、ホントに心から喜んでいいんです。

 さっき、答唱詩編(※7)で歌いました。
 「わたしは神に一つのことを願い求めている。生涯、神の家を住まいとし、あかつきとともに目ざめ、神の美しさを仰ぎ見ることを」
 ・・・美しい一節ですね。
 「あかつきとともに目ざめ、神の美しさを仰ぎ見る」
 天の国は、よく、光の訪れにたとえられます。第一朗読の、イザヤの預言もそうでした(※8)
 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」 (イザヤ9:1)
 「もう、その光は輝き始めましたよ」って言ってるんです。
 ・・・真っ暗闇の中にいる人にとって、その光は、どれほど美しいか。
 先週の入門講座で、ある方が、「私は真っ暗闇の中にいたけど、この講座に出るようになって、今、一点の光が見えた気持ちです」って言ってました。・・・「一点」でも見えたら、すごいじゃないですか。あとはそっちに向かっていけばいいんだから。だから、それは絶対見逃しちゃいけない。
 その一点の光は、福音です。普遍主義の福音です。
 「イエスはわれわれを救ってくれた」「神は私をホントに愛している」「神は私を必ず救ってくださる。いやもう、救いが始まっている」という、その一点の光は、繰り返し恐れたり、何度でも自分を責めたりしてしながらも、絶対に見失っちゃいけない光です。その一点の光に向かっていけば、ちょうどトンネルの出口に向かっていくと、だんだん光が大きくなるように、天の国は、私たちを待っています。ですから、その光が見えた時点で、もう、神の国は始まってるんです。
 それを、答唱詩編は、「あかつき」にたとえていました。・・・いいたとえですね。だって、あかつきの光って、やがて必ず昼になるじゃないですか。皆さん、そうでない朝を経験したこと、ないはずですよ。「ああ、朝だ。太陽が昇ってきた。あれれ、また沈んじゃった」なんて、そんなこと、あり得ないでしょ。太陽は、昇り始めたら決して元に戻らず、必ず、昼のまばゆい光が私たちに訪れる。
 第一、「あかつき」は、すべての人に訪れるでしょう? 「洗礼を受けている人には太陽が昇って、受けていない人には昇らない」なんて、そんなことはあり得ない。「殉教した人には昇って、転んだ人には昇らない」ってことはあり得ない。善人にも悪人にも、太陽は昇るんです(※9)。そんな真実、そんな希望に支えられて、「罪深い私」を「自分の十字架」として背負って、忍耐して生きていくっていうのが、キリスト教じゃないですか。
 神の国の輝きが、「もうすでに輝き始めてるんだ」っていう希望だけはね、絶対に手放さないでください。特に、うつ気味の方は、繰り返し襲ってくる闇に覆われそうになったときに、その光は必ず輝いていますから、一点でも、そこからだけは目をそらさないでほしい。信じ続けてほしい。
 そもそも、その先の光の国で、神さまが最も待っておられるのは、そのような、闇の中にいた人です。そういう人たちにこそ福音を語るのが、イエスさま。イエスさまは、まず、一番悩んでいる人、一番恐れている人を第一にいたしました。「そんなあなたを、私が救う。その私を信じてくれ」というイエスさまの呼びかけに、「信じます」と答える、これが「悔い改め」です。
 ・・・神の国は、今日、ここに、もう始まっております。

 昨日は、ある国の大統領がいよいよ就任して、いろいろな報道がなされておりました。金色の御髪(おぐし)の方です。(笑)
 まあ、いろんなことを言われてますけれども、私はひとつ、とっても気になったことがある。その・・・・、その国では、大統領の就任式で、聖書に手を置いて誓うんですね。その方も、聖書に手を置いたわけですけど、その同じ手で、人差し指を一本立てて、「アメリカ・ファースト」(※10)って叫んだんです。
 一国が、自分の国の利益を求めるのは当然だっていうかもしれない。しかし、手を置いたはずのその聖書には、「敵を愛せ」って書いてあるはず。「隣人を自分のように愛せ」って書いてあるはず。「自分の利益だけを求めていたら、結局は自分も滅んでしまう、すべての国が滅んでしまうんだよ」っていうのが聖書の教えなんじゃないですか。
 聖書の教えは、「神の国・ファースト」であるはず。
 神の国が、一番。神さまがおつくりになっている愛の国、ゆるし合う国、その国を一番にして、共に信じて、共に生きていこうとする。聖書の教えは、「神の国・ファースト」ですし、イコール「一番弱い者・ファースト」ですし、都合悪いものを排除するのではなく、同じ神の子として共に生きる、すべての人のための神の国を最も大切にしようという、そういう教えですから。
 聖書に手を置いて、「アメリカ・ファースト」だなんて、・・・すいません、私、「アメリカ」って言っちゃってますね。(笑) まあ、どこであれ、「自分の国・ファースト」ってね、どうなんでしょう。「自分の宗教・ファースト」もね、どうなんでしょう。
 アメリカって国は、そもそもは、ヨーロッパでいろいろもめて、迫害もあって、大変な思いをして、「もうこんなとこは出て行って、自分たちだけの新世界をつくろう」って、出てっちゃった国ですよね。「もしかして、『よそはどうでもいい、自分たちだけで、好きにやるんだ』っていう本質がないですか?」って言いたくなりますよ。
 今、ヨーロッパは、なんとか一緒にやっていこうと、EU(※11)として必死の努力をしている。EUも、まだまだ歴史も浅く、いっぱい問題があるけれど、「もう二度とあんな悲惨な、愚かな戦争をするのは止めよう」って、第二次世界大戦のあと、EUっていう挑戦を始めたんですよね。それが、どの程度成功しているかはともかく、「それでも一緒にいようよ」「いろいろ面倒だけど受け入れて行こうよ」「問題はあるけれど、不都合なものを排除して、『自分たちが第一』っていうのだけは止めようよ。それを言い出したら、また戦争だよ」っていう、そのチャレンジは尊いし、われわれも、「神の国・ファースト」、それを旗印にして、チャレンジし続けようじゃないですか。

 日本の殉教者たち、ホントに苦しみました。その苦しみを無駄にしてはいけない。これは、ホントにそう思う。とりわけ、浅草教会という、江戸の殉教者を記念する教会の私たちは、殉教者の犠牲に心を馳せながらも、実は、そのような悲劇を生んだ責任は、教会の側にもあったんだという事実、これを忘れちゃいけない。
 「キリスト教徒でなければ救われない」という、その原理主義が、どのような混乱、苦しみ、争いを生み出すか。原理主義であったユダヤ教の中で、それを超えていく道を示してくれたのが、あのイエス・キリストなんだという信仰、そこに、いつでも立ち返りたい。

 今、さまざまな試練のうちにある人もおられるでしょうけれども、あかつきの光は、もう訪れています。そのあかつきの光は、特定の宗教の人、特定の善人だけを照らすのではなく、すべての人を照らす、普遍主義の光。
 ・・・光の中で、心から、感謝いたします。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「第三土曜日、『いやしのミサ』というのを、市ヶ谷の援助修道会の聖堂でやっておりますが」
 毎月の東京教区ニュースでは、「ミサ・祈りの集い・黙想会」の紹介ページに= 「
いやしのためのミサ「おかえりミサ」 =として案内されている。
 例は、>こちら(2017年1月6日付の「東京教区ニュース第339号」)/少しスクロールして下をご覧ください。
(参考)
◎「いやしのミサ」 (「福音の村」の別ページでもご案内
= いやしのためのミサ「おかえりミサ」 =
 東京、信濃町の援助修道会で、2001年から続いている、晴佐久神父司式のミサ。
 どなたでも参加可能。ただ、特に、事情があって教会に行くことができないない方、体や心の病などでいやしを必要とする方、キリスト教に興味のある未受洗の方などを主な対象とし、いやしの恵みを祈り求めている。
***** Information *****
・日時 : 毎月第3土曜日 (急なお休みもあるかと思いますので、以下までご確認ください)
       15時~(途中参加可): 祈り
       16時~ : ミサ
・場所 : 援助修道会 聖堂
・住所 : 東京都新宿区市谷田町2-24
・電話 : 03-3269-2405 (問い合わせは17時まで)
・メール: auxijapon@live.jp (件名に「おかえりミサ問い合わせ」と入れてください)
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※2:「遠藤周作原作の『沈黙』っていう映画」
 遠藤周作原作の小説『沈黙』を映画化。 監督は、「ディパーテッド」「タクシードライバー」で知られるマーティン・スコセッシ。自身もカトリック信者で、幼い頃は司祭になりたかったという。
 物語は、江戸初期のキリシタン弾圧が激しかった時代、その渦中に潜入したポルトガル人宣教師を通して描かれる、想像を絶する状況、究極の試練の中で繰り広げられる心のドラマ。
 2017年1月21日(土)から、全国ロードショー
(参考)
 
・ 上の動画は、映画『沈黙-サイレンス-』本予告〔映画 KADOKAWA〕より(YouTube)
・ 映画『「沈黙‐サイレンス‐』(公式サイト) / > 「上映劇場
『沈黙‐サイレス‐』:作品情報(映画.com)
『沈黙‐サイレンス‐』‐作品情報(映画の時間)
『沈黙』(遠藤周作)(ウィキペディア) ほか
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※3:「第二朗読でパウロが、『キリストの十字架がむなしいものになってしまわないように、福音を告げ知らせる』(cf.一コリント1:17)と、そういう言い方をしていましたけれども」
この日、2017年1月22日(年間第3主日)の第2朗読から。
第2朗読箇所は、以下のとおり。
  使徒パウロのコリントの教会への手紙一 1章10~13節、17節
   〈小見出し:「一致の勧め」1章10~17節から抜粋〉
===(聖書参考箇所)===
キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、
しかも、
キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。 (一コリント1:17/赤字引用者)
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※4:「ペトロが、『いや、そんなことできません』って言ったら、・・・」
 ヨハネによる福音書 13章1~20節
 〈小見出し:「弟子の足を洗う」〉参照。
===(聖書参考箇所)===(部分抜粋)
ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」 (ヨハネ13:8-9/赤字引用者)
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※5:「神におできにならないことはない」
===(聖書参考箇所)===(既出)
・ イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。 (マタイ19:26/赤字引用者)
・ イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。
神は何でもできるからだ。」(マルコ10:27/赤字引用者)
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※6「イエスさまが、今日もマタイの福音書で」
この日、2017年1月22日(年間第3主日)の福音朗読から。
 福音朗読箇所は、以下のとおり。
  マタイによる福音4章12~23節、または4章12~17節
   〈小見出し:「ガリラヤで伝道を始める」4章12~17節、「四人の漁師を弟子にする」18~22節から抜粋〉
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※7:「答唱詩編」(既出)
 主日と祝日のミサでは、第一朗読(通常、旧約聖書)、第二朗読(通常、使徒の書簡)、福音朗読(福音書)の、3回聖書が朗読される。
 第一朗読の後、一同は少しの間、その神の言葉を味わい、その後に、「答唱詩編」が唱えられる。これは、歌われる場合が多いが、朗読される場合もある。本来、答唱詩編は詩編による黙想なので、歌われる詩編は第一朗読にあわせて選ばれ、朗読された神の言葉を味わうことができるように工夫されている。
 詩編本文と答唱句から構成されていて、詩編本文は先唱者が、答唱句は会衆全員が、それぞれ交互に歌うことが勧められている。それによって、互いに聴き、互いに祈るためのものであるということを忘れないようにする。
(参考)
・ 「ミサ司式第」(『ともにささげるミサ 改訂版』2006年) 
・ 「ミサ司式第」(「ミサ」 ウィキペディア)
・ 「(8)答唱詩編」(カトリック田園調布教会) ほか
===(この日の答唱詩編)===
詩編本文
 
神よ あなたの顔の光を わたしたちの上に 照らしてください
答唱句
① 神はわたしの光、わたしの救い、わたしはだれも恐れない
   神はわたしのいのちのとりで、わたしはだれをはばかろう。
② わたしは神に一つのことを願い求めている。生涯、神の家を住まいとし、

   あかつきとともに目ざめ、神の美しさを仰ぎ見ることを。
③ 神に生きる人々の中で、わたしは神の美しさを仰ぎ見る。
   神を待ち望め、強く、たくましく、神を待ち望め。
    (詩編27・1、4、13+14/典礼聖歌73番/答唱句は詩編4・7/赤字引用者)

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※8:「第一朗読の、イザヤの預言もそうでした」
この日、2017年1月22日(年間第3主日)の第1朗読から。
第1朗読箇所は、以下のとおり。
  イザヤの預言 8章23b~9章3節
   〈小見出し:「ダビデの位」8章23b~9章6節から抜粋〉
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※9:「善人にも悪人にも、太陽は昇るんです」
===(聖書参考箇所)===
父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5:45/赤字引用者)
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※10:「アメリカ・ファースト」
 アメリカ第一主義。
 アメリカの国益をすべてにおいて最優先させるという考え方で、社会、経済、貿易、税、移民、外交など、あらゆる方面で「アメリカ第一」という視点から当たっていこうとする。
 アメリカの第45代大統領に就任したドナルド・トランプ氏が、大統領選で一貫して訴え、また、就任演説でもその考えを改めて示した。
(参考)
・ 「アメリカ・ファースト」(コトバンク)
・ 「トランプ米新政権が発足 『米国第一あるのみ』と宣言 TPP離脱も表明」(SankeiBiz 2017/1/21
・ 「【米政権交代】『アメリカ第一』トランプ新大統領の就任演説 全文と和訳」(BBC NEWS JAPAN 2017/1/21)など 
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※11:「EU」
◎EU
European Union(英)= 欧州連合
 欧州連合条約により設立されたヨーロッパの地域統合体。
 「EUは、独特な経済的および政治的協力関係を持つ民主主義国家の集まりである。EU加盟国はみな主権国家であるが、その主権の一部を他の機構に譲るという、世界で他に類を見ない仕組みに基づく共同体を作っている。現在28カ国が加盟している。
 EUの人口は今や5 億人を超え、EUはすべての欧州市民に平和、繁栄および自由を保障するとともに、平和構築や開発援助などを通じ、世界の平和と安定に積極的に貢献することを目指している。」(駐日欧州連合代表部「EUとは」より)
(参考)
・ 「EUとは」(駐日欧州連合代表部
・ 「欧州連合」(ウィキペディア)
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2017年1月22日(日) 録音/2017年2月4日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英