終活と天活

【カトリック上野教会】

2017年11月5日 年間第31主日
・ 第1朗読:マラキの預言(マラキ1・14b-2、2b、8-10)
・ 第2朗読: 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(一テサロニケ2・7b-9、13)
・ 福音朗読:マタイによる福音(マタイ23・1-12)

【晴佐久神父様 説教】

 11月の最初の日曜日、特に、亡くなられた方々のために祈ります(※1)。しかし、いつも申し上げてることですが、亡くなられた方々のために「祈る」というよりは、亡くなられた方々に「祈られる」、その方が大事。第一、向こうのほうが、私たちのこの世界よりずっと格上の天の世界を生きているわけですから、その方々の祈りの方がずっと清らかで、ずっと自由。われわれが忘れていても、向こうは忘れてない。私たちを今もいつも愛しているし、私たちのために、私たちには分からないさまざまなかたちで働いてくれている、そんな方々の祈りに包まれるとき。・・・11月、そういうイメージがいいんじゃないでしょうか。

 昨日は、上野教会のみんなで、お墓参りに行きました。上野教会の教会墓地は、あきる野の霊園にあるんですけど(※2)、朝早く、教会の前から、観光バスを仕立てて行ってきました。帰りに、天ぷら重とお刺身定食のどっちかを選んでゆっくり食べて、道の駅に寄ってお買い物をして、昭和記念公園に寄って紅葉を見物して。結局、お墓にいる時間より、そっちの方がよっぽど長かった。(笑)
 まあでも、それでいいんじゃないですか。天の方々は、お墓にいるわけじゃないですから。お墓もひとつのしるしですけど、ご愛敬なんですよ。天の方々から見れば、おままごとみたいなもんですし、あんまり、お墓、お墓って心配するのもね、どうなんでしょう。私の両親の墓もあきる野の霊園にあるんですけど、50年前ですかね、父は用意のいい人だったんで、あそこができてすぐのときに買いました。だから、1区にお墓があるんですけど、選んだのは平地じゃなくて、斜面の3段目の所なんですね。さかんに、「ここは日当たりがいい、日当たりがいい」って言うんですよ。(笑) 子ども心にも、日当たりって言ったって、もう本人は亡くなってんだから・・・って、やっぱり思いましたけど、まあまあ、ご愛敬ですね。確かに、昨日は日が差して、あったかくってね。日の当たる両親のお墓の前で、そんなことをしみじみ思い出してました。
 そういえば、上野教会の共同墓地も、最初立てた石板の墓碑をね、その裏のお墓の人が、こんなに高い墓碑を建てたら日当たりが悪くなるって抗議されたんですね。だから、その方の所の手前の石板を切り取ったら、日が当たるようになって、その方に喜ばれたっていう話を聞きましたけれども。・・・う~ん、日当たりねえ・・・。
 私たちは、地上のことをね、いろいろ工夫したり、それにとらわれたり、しまいには争ったりしてますけれども、なんにしても、その地上のことはすべて、天上のことにつながってるっていう、その感覚がなければ、どんなに地上のことをがんばっても、意味がない。この世のことだけを、いくらじ~っと見つめても、そこには何の意味も見いだせない。やっぱり、それが天上のことにつながっているから意味が生まれてくるんであって、まさに、天の世界に私たちが共に向かっているという、その希望によってはじめて、今の意味、この苦しみの意味、この人生の意味、そういうものが立ち現れてくる。
 だからやっぱり、天を仰ぐことって必要なんですよ。ホントはいつも仰いでいればいいんだけど、ときに、たとえばこのような、死者の追悼(ついとう)をするようなときにこそ、いつにもまして、天を仰ぐ。そういう機会がないと、この世がすべてになってしまいますから、悩みも深くなっちゃうわけですね。だって、過ぎ去りゆくこの世のことだけにこだわっていると、それはやがて消えてしまうものだから、必然的に恐れが生まれてくるし、また、この世のことだけを大事に思っていると、それは俺のものだとか、お前のもよこせとか、そんな話にしかならない。・・・この世がすべてなら。
 でも、ちゃんと天上につながっているならば、この世のことはね、たとえ日当たりが良かろうが悪かろうが、そんなことはご愛敬ですから、「いいよ、いいよ」と譲り合えるし、この世でどれほど苦難に遭っても、やがて来たるべき天の栄光に向かって、私たちは顔を上げることができる。

 今日、律法学者やファリサイ派の人々のことをイエスさまが話してますけど(※3)、そもそも、なんでこの人たちは、「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたり」(マタイ23:5)するのか。なんで、「宴会では上座、街道では上席に座ることを好む」(マタイ23:6)のか、なんで、「広場で挨拶されたり、『先生』って尊敬されたりすることを好む」(cf.マタイ23:7)のか。それは、なぜなのか。
 私たちも、そういうとこ、ありますよね。似たようなもんじゃないですか。やっぱり、ちょっとは尊敬されたい、もうちょっと目立ちたい、もう少しいい席に座りたい、みたいなね。だけどこれ、すべて、「この世しかない」と思ってるからそうなんですよ、実をいうと。天を思うなら、そんなことどうでもよくなるもんなんです。祭司たち、もちろん神父なんかもそうですけど、この世でいくら立派なことを言っていても、それが天につながっていないなら、それはホントに意味のないもの、この世「だけ」のことになってしまう。天の広がり、天の完全、天の自由、そういうものにつながってないと、人も救えない。
 さっきパウロも、「わたしたちの言葉を人の言葉としてではなく、神の言葉として、あなたがたは受け入れてくれた」(cf.一テサ2:13)と、そう言ってますけれども(※4)、それこそ、こうして説教をしていても、これが何か、この世の言葉として、この世のことを話してるんであれば、意味がないですね。「この世を上手に生きていきましょう」っていう話じゃないですから。「私たちは天の国に向かっている」っていう希望の話。
 こうして、大勢で共に祈ってますでしょう? 隣に人がいる、後ろにも前にも人がいる、だけど、今、この聖堂で私たちが第一に思うべきは、「上」の人なんです。いるんですよ、上に。大勢いますよ。この聖堂の目に見える人の十倍、百倍、千倍、今、上にいるわけですよ。その、永遠を生きている方々のリアリティ、それに触れていないと、取るに足らないこの世のものを奪い合ったり、やがて消えゆくものをうらやましがったりすることになる。・・・「上」を見るんです。そこには、神の世界に生まれ出ていった、きら星のごとき聖なる方々が大勢、ほほ笑んで、私たちを見守っているし、「あなたたちも、やがてこの世界に生まれてくるんだよ」って語り掛けてくれている。そんな天の広さ、大きさの中で、そんな天の御言葉(みことば)の中で今を生きていると知れば、まあ、多少日当たりが良かろうが悪かろうが、どうでもいいっていう、そういうことでしょう。
 ただね、じゃあ、天に心を向けようっていっても、自分一人ではなかなかできないので、まさに、だからこそ、もうすでに天に生まれ出ていった人たちに助けてもらうわけです。導いてもらう。その方たちから語り掛けてもらう。そして、その方々と深い交わりを持つことで、今日という日を、生き生きと、ワクワクと生きる。・・・これが、本当の意味で、永遠の命を生きるってことでしょう。
 この「上の方々」、目には見えませんよ。でも、その方々を感じていないと。目に見える横の人のことばっかり考えて、悩んだり恐れたりしているのは、とても残念なこと。

 最近、よく、「終活」っていう言葉を耳にしますけど、・・・ご存じですか? ()()動じゃないですよ、「終わる」って書くやつね、・・・はやってますでしょ、終活。もうそろそろ、人生が終わりに近づいてきたから、いろいろ身辺整理をしましょう、みんなに迷惑を掛けないように、いろいろ考えておきましょうみたいな、()わる準備の()動・・・ですね。たとえば、「遺言書を用意しましょう」だとか、「お墓の準備をしましょう」だとか、「葬儀のことも考えて、そんな費用も残しておきましょう」みたいな。
 先日の入門講座でも、ある方が「そろそろ終活を考えてるんです」って話してたんで、私、申し上げたんですよ、「キリスト者は、そんな必要ないんじゃないの?」と。・・・まあ、準備するのは悪いことではないですし、ある程度はやっといたほうがいいのかもしれないけど、どのみち人間の準備ですから、どんな準備も足りないだろうし、どんな計画も思ったようにはならないだろうし、時には、良かれと思って用意したことが、かえってみんなに迷惑を掛ける結果にならないとは言い切れないですよね。残されたほうも、だれもそんな準備を期待してないんじゃないですか? 第一、ぼくらは、「明日を思い悩むな」っていう信仰を持ってるんだから、あんまり心配しすぎないで、もっとこう、今このときを、天とつながっているものとして、生き生きと生き切ったらいいんじゃないか。それこそが、日々の「終末」を生きる本当のキリスト者だと思う。
 そもそも、「終活」って言葉が悪いですよね。「終わる」っていう字ですけど、ホントは終わらないんだもん。キリスト教は、「終わる」って思ってないんです。むしろ、そこから「始まる」。天国の本番が始まるんです。この世での準備期間は、確かに終わる、それでいえば終わりかもしれないけど、本番を始める準備なんだから、天国の先取りをしてるわけでしょう。栄光の世界、喜びの世界、愛だけがあふれている世界に入っていくことを、今、先取りして、準備している。それは終わる準備じゃなく、始まる準備なんです。
 葬式がどうとか、相続がどうとか、そんなもの、所詮はこの世のことですから、だいたいにしておけばいいです。そんなことで、後の人に迷惑が掛かるの掛からないの、残された人が幸せになるのならないのっていうのも、な~んだか、さみしい話ですよ。お互いに迷惑掛け合ったって、そんなのお互いさまだし、ぜんぜん構わない。むしろ、天国に生まれ出ていって、その天国でこそ、残された人たちを幸せにできるんじゃないですか? 天の国で、彼らを守り、導き、祈る、そういう天国の活動に入っていくわけですから。だから、私たちは、その準備をするべきであって、それこそ「終活」じゃなくって、天国活動?・・・「天活」?(笑) そんなようなことを始めていただきたい。実はもうすでに、天国始まってるんだし。顔を天に上げて、天国の喜びを先取りする。天国の一致を、もう地上でも始めちゃう。
 ・・・ね、この世のことは、もうだいたいで。まあ、何にもしないっていうわけにはいきませんけど、ほどほどにしておいて、むしろ、「この世でするべきは、天国の先取り!」って、ね。教会なんていうのは、そういう所じゃないですか?

 入門講座で、その終活の話してたとき、初めて来た方が、「彼岸って、本当にあるんですか?」っていう質問をされました。私、「あります!」って宣言して、こんな話をしたんです。
 「彼岸」って、三途(さんず)の川を渡っていく、その向こう岸のことでしょ。舟に乗ってくっていうイメージなんですね。それも、死んでから渡るっていうよりは、われわれの人生自体が、彼岸に向かう三途の川みたいなもんですから、もうすでに、波にもまれる人生の舟に乗ってるわけです。この肉体という舟、この現実という舟、まあ、「この世」っていう舟に乗ってるわけです。確かに、舟がなければ渡れませんから、体も現実も大事なんですけど、さて、彼岸に着いたら、そこはもう目的地ですから、舟の中なんかとは比べものにならない大いなる大自然、輝く浄土が待っている。ですから、「着いた~!」って彼岸に降りたら、もう、乗ってきた舟、いらないんですよ。「いや、この舟には愛着がありますから・・・」って背負っていく人はいない。だって、その先に、天の国の広がりが、自由が、出会いが、再会があって、喜びに満ち満ちてるんですもん。
 重い体、限界ある時間、空間、出来事、まあ、それはそれで、お世話になりましたよ、それがあるから、天の国への誕生があるわけですけども、神さまの世界を生きていくに当たっては、もはや舟は必要ない。ということはですよ、この現実世界を生きてるときに、「この舟がすべてだ」「この舟から絶対離れたくない」「この舟の中にため込もう」、そんなこと思う必要がないし、そんなとらわれから解放された「自由」を生きるべきなんです。まあ、気持ちは分かる。やっぱり、見えるものは大事ですし、それにとらわれますし、そこから離れていくのは怖いっていう本能みたいなものもありますけれども、そんなときに、この11月の第一日曜日。大勢の、もう舟から降りて生まれ出ていった方々が、われわれに語り掛けてるんです。
 「だ~いじょうぶだよ。みんな、こっちに生まれてくるんだよ。心配しないで。そりゃあ、ちょっと、今は舟を漕ぐのは大変かもしれない。今はちょっと舟が沈みかけて焦ってるかもしれない。でも、そんなもん、なんでもない。だいじょうぶ、もうすぐ着くから。いや、もう着いてるも同然だ。天活して、喜んでこっちに生まれておいで」
 もう、そういうお年ですよね、皆さんもね。今日は七五三の祝別ですけど、皆さんもう、七×五×三くらいの年でしょう? (笑) ・・・え~と、7×5=35、×3で、・・・105。(笑) そこまでいってないか。でもまあ、そろそろ、ホントに、天をきちんと仰ぎ見て、天の人たちとつながるときです。

 そんな彼岸の話を熱心にしてたら、さらに、別の方が告白してくれました。「実は、妻を今年の2月に亡くしました。45年間連れ添った妻です。その妻のことを、本当に大切に思ってきたし、妻と離れられない。だから、骨壺をテーブルの上に置いて、ずっと大切にしてるんです」と。2月からってことは、もう8カ月間、テーブルの上に置いてるわけです。「妻は生前、お墓の中は、なんだか暗くってヤだって言ってたから、お墓に入れられない」んですって。じゃあ、江ノ島の沖にでもまこうかっていう話になったときには、妻が「え~、水は冷たいからヤだわ」って言ったって。(笑) お墓の中は暗いからヤだ、水は冷たいからヤだって、でも、それはすべて、この世の話ですよね。まあ、気持ちは分かるけど、それにとらわれているのは、やっぱりちょっと不自由ですね。
 だから、そのご主人、「暗いのヤだ、冷たいのヤだ」って言われたんで、天気のいい日には、その骨壺をベランダに出して、日なたぼっこさせるんですって。(笑) しかも、ふたを開けて、ちゃ~んと日が当たるようにしてる、と。まあ、それも、愛ですね。愛ですけれども、私は、その方に申し上げました。
 「お気持ちはよく分かります。ホントに愛してらしたんですね。そうしてくれていることを、奥さまも、きっとほほえましく見守ってくださっていることでしょう。でも、これだけは申し上げておきたい。奥さまは、生きておられます。あなたよりも格上の世界を生きておられます。天国で、今、神さまの光をさんさんと浴びて、神さまの愛のぬくもりを受け止めて、ぽかぽかしている。たとえ、この世のお骨を日なたぼっこさせなくっても、奥さまが今、天の栄光に包まれて、どれほど輝いておられるか、そうしてご主人の幸せのために、どれほど素晴らしい働きをしておられるか、それだけは信じていただきたい」
 そう、申し上げました。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「11月の最初の日曜日、特に、亡くなられた方々のために祈ります」
 カトリック教会の典礼暦で、11月は「死者の月」、11月2日は「死者の日」と呼ばれ、帰天したすべての人を記念する。
 11月の最初の主日に記念のミサを行う教会が多い。(文中へ戻る

===(もうちょっと詳しく)===
 キリスト者の間では、2世紀ごろから死者のための祈りを唱える習慣が生まれ、間もなく、これにミサが伴うようになった。7世紀初めから、帰天したすべてのキリスト者を、1年の特定の日に記念するようになり、998年に、クリュニー会の修道院長オディロが、11月1日の「諸聖人の祭日」の翌日に当たる日に、すべての死者の記念を行うように定めて「死者の日」とし、以来、これが、フランス、英国、ドイツなどに広まって、13〜14世紀ごろにローマに伝わった。
 11月が「死者の月」として定着した時期は定かではないが、「諸聖人の祭日」や「死者の日」にちなんでの祈りや行事などが、やがて伝統や習慣となっていったこと、また、11月は典礼暦の最後の月で、主を待ち望む終末的性格が強いことなどのために、すべての死者のため特別に祈る月となっていったと考えられている。
(参考)
・ 「死者の日とは?」(カトリック中央協議会)
・ 「死者の日」(ウィキペディア)
・ 「11月は亡くなられた方のために祈る月」(稲川圭三神父さま<カトリック麻布教会)
・ 「キリスト教の信仰宣言」#946、#953-1、#958-2
   (『カトリック教会のカテキズム』カトリック中央協議会、2002年)
・ 「死者の日」「死者ミサ」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)など
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※2:「上野教会の教会墓地は、あきる野の霊園にあるんですけど」
 カトリック東京大司教区の霊園で、東京都あきる野市にある。
(参考)
◎カトリック五日市霊園
(管理)カトリック五日市霊園管理事務所 : 東京都あきる野市伊奈1Google マップ
    ・・・(宗教法人カトリック東京大司教区:墓地・霊園・納骨堂
(墓前教会)カトリックあきる野教会(カトリック東京大司教区HPフェイスブック
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※3:「今日、律法学者やファリサイ派の人々のことを、イエスさまが話してますが」
この日、2017年11月5日(年間第31主日)の福音朗読箇所から。
マタイによる福音(マタイによる福音書)23章1~12節)
〈小見出し:「律法学者とファリサイ派の人々を非難する」23章1~36節から抜粋〉
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※4:「さっきパウロも、(中略)と、そう言ってますけれども」
この日、2017年11月5日(年間第31主日)の第2朗読箇所から。
 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(テサロニケの信徒への手紙一)2章7b~9節、13節)
  〈小見出し:「テサロニケでのパウロの宣教」2章1~16節から抜粋〉
===(聖書参考箇所)===
 
このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。(一テサロニケ2:13-40/赤字引用者)
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2017年11月5日(日) 録音/2017年12月7日掲載
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