復活という霊的ビッグバン

2015年3月22日四旬節第5主日
・第1朗読:エレミヤの預言(エレミヤ31・31-34)
・第2朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ5・7〜9)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ12・20-33)

【晴佐久神父様 説教】

 天の父が語りかけてくださる御言葉(みことば)に気づかない人たちは、「雷が鳴った」とか、「天使が話した」とか言ってますけれど(ヨハネ12:29)(※1)、私たちキリスト者は、この天からの声を、愛の宣言として聴きました。
 「わたしは栄光を現した。再び栄光を現そう」(cf.ヨハネ12:28)と。
 その「栄光」は、もう現れました。イエスの復活ですね。イエスの復活は、もう、この神のお言葉どおりに実現しました。神の栄光として、この世界に現れました(・ ・ ・ )。・・・完了形なんですよ。ここが大事。これから望むわけじゃない。もうすでに現れて、今、ここに、起こっている。この福音に、私たちは目覚めます。

 イエスさまの、ありがた〜いお約束を聴きました。
 「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12:32)
 この「地上から上げられるとき」っていうのが、「復活」です。
 もうすぐ復活祭。イエスさまが、復活なさったことを祝うわけですけども、しかしそれは、「イエスさまがひとりで復活しました。よかったね」って話じゃないですよ。イエス・キリストは、「すべての人」を「自分のもとへ」引き寄せる。つまり、ご自分の復活によって、全員復活させるんです。みんな一緒に、天の国に連れて行く。イエスの復活によって、すべての人はもう、ひとつにされ、イエスとつながっているからです。
 「すべての人を引き寄せよう」っていうイエスの宣言を疑ってはなりません。みんな、主の復活によって結ばれ、神の愛によってつながってるんだから、先頭のイエスが復活することで、みんな、ずるずるずるっと一緒に天に連れてってもらえる。私たちは、一人残らず、イエスと一緒に復活するのです。このつながりは、もはや、人間には切り離せない。たとえこの世ではバラバラに見えても、みんな(じつ)は、霊的な世界でつながっちゃってて、切り離すことができない。「個人の復活」とか、「個人の救い」とか、もう、そういう傲慢な神学はそろそろ卒業してもらってですね、「私たちの復活」、「私たちの救い」って言いましょうよ。「芋づる式」っていう言葉がありますけど、ぜんぶ、ずるずるずる・・・っとつながってるんですから。
 それはもう、始まってます。イエスは復活しました。私たちは、まだこの世を生きてますけれど、やがてすべてが天に迎え入れられるという、救いの歴史の完成段階はもう始まってるんです。本人が知っていようと知らずにいようと、疑おうと反対しようと、イエスに引っ張られて、引き寄せられて、私たちはもう、ずるずるっと天に向かって引きつけられている途中。それを信じずに、この世での真の幸いはありえない。
 「イエスの復活によって、全人類は復活し始めている」。そんな言い方でいいと思います。

 もうすぐ復活祭を迎えるにあたってね、「復活」って何なのかっていうことを、それぞれ、しっかりとイメージしてほしい。そうして、この世では何があろうとも、それはあくまでもこの世のことだと受け止めて、私たちは天に復活していくプロセスを生きているんだと信じて、希望を新たにしてほしい。まさに、イエスの復活がなかったら、何にもないんです。「私」の意味もないし、この世の意味もない。
 ですから、イエスの復活を祝うのが復活祭ですけれど、実際には、イエスと私たちは、もうつながってひとつなんだし、それによって私たちも、もう復活し始めてるんだから、今年は特に(・ ・)ですよ、
 「私の復活祭」、
 「私たちの復活祭」、
 そういうイメージを大事にしましょう。
 「ご復活、おめでとうございます!」なんて、皆さん、復活祭の日に言い合ってますけど、それは「イエスさま、復活してよかったね」っていう話だけじゃない。まあ、それもありますけれど、「あなたも復活してよかったね。おめでとうございます」、「私も復活したんです。ああ、よかった」って、そういう喜びをこめて、お互いに、「ご復活おめでとうございます」って言い合う。
 本当は、復活祭の日だけじゃない。私に言わせれば、「毎日が復活祭」なわけですけれど、その復活の喜びを、特別に一年に一度、もう一回新たにしますってことで、「ご復活祭、おめでとうございます」って言う。
 特に洗礼志願者は、まさに復活祭の日に洗礼を受けるわけですし、洗礼っていうのは、「復活」の、目に見える特別のしるしですから、(ああ、本当に私は復活し始めてるんだ。やがて、天の国へとホントに復活していくんだ)と、そういう思いをこめて、「洗礼、おめでとうございます」、「ご復活、おめでとうございます」とあいさつします。
 この、「私の復活」、「私たちの復活」っていうのをね、今年は特に大切にしてくれたらなあ、と。

 洗礼志願者の中には、闇から救われてそのような信仰に目覚めながらも、時には再び闇に引き寄せられて、「やっぱり、自分なんかはいない方がいいんだ。復活なんかしたくない。もう、消えてしまいたい」っていうような虚無感にとらわれてる人がいます。あるいは逆に、「やっぱり、自分はいなくなってしまうんだ。復活なんかないんだ。きっとすべて消えてしまうんだ」っていう恐れにとらわれてる人もいます。一見、両極端のように見えますけど、私に言わせれば、どちらも同じことを言ってるんだと思う。どちらも、「私の復活」を知らないだけなんです。
 これは、救いに目覚めているはずのキリスト者であっても、闇を体験することがあって、同じように二種類いるんです。「もう死んじゃいたい」っていう人と、「死が怖い」っていう人。
 「もう死んじゃいたい」っていう人は、「死ぬのが怖い」っていう人のことが、分からない。(なんでこんな苦しい世の中をずっと生きていたいって思うんだろう)って。逆に「死ぬのが怖い」っていう人にとっては、「もう死にたい」って言っている人のことが分からない。(なんでそんなこと言うんだろう。せっかく生きてるのにもったいない)って思う。
 いつもそんな両極端の話を聞いてる私としては、足して二で割りたくなってきますけど、私に言わせれば、両方、おんなじこと。
 先ほどのイエスさまのたとえで言うならば、「一粒の種」の話(※2)なんですね。
 イエスさまは麦の種にたとえてますけども、種は、まかれると消えてしまう。しかし、それは消えたんではなく、そこにまことのいのち、永遠なるいのちが芽生えて、やがて想像を絶するほどの多くの実を結ぶ。種の中がすべてと思っていたときからは想像もつかないような、栄光の世界、復活の世界、神の国の世界が現れる。
 それは、種の中では分からない。ここから永遠のいのちが生まれて、そこに、ホントの私が誕生していくんだっていうことが分からない。その誕生を知らずに、いくら種の中で考えても、種の意味など何も見いだせないってことが、分からない。
 「もう死にたい」って言ってるのは、「こんな種はもういやだ」って言ってるんです。
 「死ぬのが怖い」って言ってるのは、「この種が失われるのが怖い」って言ってるんです。
 どっちも、種の中の話に過ぎないんですよ。暗い種の中で、種の中のことしか考えてない。その種を脱ぎ捨てて、神さまのまぶしい栄光の世界に生まれ出て行ったときのことを考えずに。
 ・・・何も知らずに(・ ・ ・ ・ ・ ・)、「もう死にたい」と言ったり、「死ぬのが怖い」と言ったりしているのは、ほんとうに残念です。だから、復活の栄光を知るっていうことが、どっちにとってもすごく大事ってことになるわけです。
 「死ぬのが怖い」って言ってるのは、復活の栄光、永遠のいのちの喜びを、分かってないから。もちろん、すべては分からないですよ。種の中では、その先のことは分からない。でも、永遠のいのちを信じることで、死の恐れを超えて生きることができる。
 「もう死にたい。消えてしまいたい」って言ってる人も、やっぱり、永遠のいのちの喜びを知らないから、そう言う。もちろん、すべて知ることはできませんよ。でも、もしも少しでも知って信じられたなら、その喜びの世界に連なるものとして、この種の中の現実を受け入れられるはず。天に生まれる日を待ちつつ、今を生きることができる。
 「私にはもう、永遠のいのちが始まってる」、「私は復活し始めてる」っていう、そういうワクワクするような思いで、種の中の毎日毎日を大切に過ごす。・・・これが神さまのお望みです。
 「私は、主と共に、もう復活し始めてる」っていう、この感覚に、この復活祭に、ぜひしっかりと馴染(なじ)んでほしい。この世界は今、まさに種の中の話ばかりで、人々はみんな苦しんでいますから。

 今朝の新聞を読んだら、・・・日本の司教団が教皇フランシスコに会って、いろいろお話をしたっていう記事が出ていましたけれども(※3)、その中に、司教団が原発の話をして、教皇様が原発への懸念を示されたって載ってました。これは、歴代教皇の中でも初めてみたいですね。
 ・・・言い添えておきますけど、原発反対とか、原発批判をしたわけではないそうです。だけど、原子力を開発するに当たって、やっぱり、節度が必要だっていうこと、神から与えられた自然を、愛をもって用いなければならないっていう意味で、原発の事故にも触れ、
 「私たちは、天にも届く塔を建てようとして、自らを滅ぼそうとしている」
 っておっしゃったとか。
 原発の文脈の中で、「バベルの塔(※4)」を持ち出したっていうのがね、(いやあ、はっきり言うもんだなあ)と思って感心しましたけど、言わんとすることは、よく分かります。
 人間たちが、まさにこの小さな種がすべてだと思い込み、種の中のことだけを考えて、限りある資源を奪い合ったり、目先の利益のために自然を破壊したり、行き過ぎた科学技術を暴力的に使ったりすることで、種の中のみんなが苦しんでいるっていう事実を指摘してるんですね。
 「この小さな種は、大いなる実りのためにある。そういう真理をみんなが知り、永遠のいのちへのまなざしを持って謙遜に生きるなら、もっと、みんなが幸せに生きる世界になるはずだ」と、教皇様、そういう思いだろうと思いますよ。
 私たち、種の中のことばっかり話し合ってるけれど、「やがて復活する」、「もう復活し始めている」っていう、種から生まれ出る喜びだけは、何があっても忘れちゃいけない。

 今年、洗礼志願者にならなかった方の中に、「復活っていうのがよく分からないから、洗礼の決心がつかない」って言った方がおられるんですよ。今、入門講座では、いよいよ総まとめってことで復活のことを話してるんですけど、その方の気持ちも、分からないでもない。「復活」って、普通に考えたら、確かに分かりにくいことですから。
 イエスは、どのように復活したのか。復活して、どうなったのか。私たちも復活するって、具体的にどういうことなのか。そういうのって、確かにイメージとして、すっと分かるものではない。
 でも、そりゃもう、そんなの具体的には教皇にだって分からないわけで、つまり、復活って、そもそも「理解する」もんじゃないんです。これは、「体験する」ものなんです。もう復活が始まっているという、この現実、を体験するんです。
 そう、実は私たち、もう体験してるんです。復活体験を。
 それは、この、現実の教会体験です。
 復活体験イコール、あなたの教会体験です。主の復活は今も、今のあなたの教会体験として続いてるんです。
 入門講座では、それをビッグバンの話で説明してるんですけど、宇宙の始めにビッグバンと呼ばれる大爆発があった。・・・と、これ、皆さん、ご存じですよね。「ご存じです」っていうか、科学者がそう言ってることを、まあ、だいたいみんなが、そう信じてるって話ですけど、おそらく、今のまともな科学者はみんな、ビッグバンを信じてると思います。
 ただ、これは今まさに私がそう言ったように、科学とはいえ、「信じてる」っていう言い方を使うしかないですね。だって、誰も見てきたわけじゃないですし、確かめようがない。できることは、そのビッグバン学説が正しいかどうかを、いろんな観測で、理論で、確かめることだけです。そうして、あらゆる観測の結果、「これは、どう考えてもビッグバンがあったとしか思えない」ってことを、今、宇宙科学、物理科学では言ってるわけで、つまり、多くの学者はその学説を「信じてる」わけです。
 137億年前に、いわば「無」のような状態のなかで、ボンッと大きな爆発があり、それが137億年かけて広がってるとこなんだという、その学説を信じなければ、物質があるということも、時間があるということも、光があるということも、説明がつかない。星の広がり具合を観測しても、重力の偏りを調べても、素粒子の振る舞いを見ても、何をどう調べても、「ああ、もう、これは最初にビッグバンという爆発があったとしか言いようがない」っていうことになって、みんなが信じてる。・・・そういうことですね。
 でも、どれだけ調べても、やっぱり最後は、あくまでも、「信じる」しかないでしょうね。見てきたわけじゃないんだから。

 私、「復活」っていうのは、このビッグバンみたいなものだと思いますよ。
 2000年前に、まったく新しい、神さまの創造のみ(わざ)が始まったんです。神さまはかつて、「光あれ」って、ビッグバンによって宇宙をお始めになり、その後137億年の準備の末、2000年前に、ついに、地球上の人類において、ボンッと、「復活」という霊的なビッグバンをお始めになった。
 これ、「始まった」んです。今も、続いてるんです。「ビッグバン」って、一瞬の爆発で、あとは消えちゃったわけじゃない。今も続いてるわけでしょう。爆発は継続中なわけですよね。
 イエスの復活という、新しい創造の業も、2000年前にボンッと始まって、今も続いてるんです。
 宇宙が広がっていくように、教会が広がっていく。人類史の中に福音が広がっていく。すべての人の心に、この、復活という霊的ビッグバンが継続中ってことです。
 復活のイエスの永遠なる働き、愛の力、神の国への招きは、ちゃんと、すべての人のうちに及んでいる。イエスの復活は、今も「起こり続けて」います。
 カトリック教会だけでも12億人の信者がいて、みんながこうして主日のミサに集まって、天の父に祈り、キリストの復活を祝ってるっていう、この事実を見ただけでも、「ああ、確かに復活があったに違いない」って信じられるし、その中で共に祈る教会体験こそが、正真正銘の「復活体験」なんですよ。そういうことじゃないですか?
 イエスの弟子たちの証言をはじめ、歴史上の無数のキリスト者たちの愛、犠牲、祈り、喜び、それらを見れば、「イエスの復活」という創造の業が原点にあったとしか言いようがない。その「復活」によってこそ弟子たちが復活し、そこからキリストの教会が爆発していって、現在、ここに、こんなにも素晴らしい教会が存在しているのだとしか、言いようがない。
 復活がなかったら、教会なんてない。今日のミサもない。洗礼式だってない。
 洗礼志願者の皆さん、もし復活がなかったら、今日はいったい、どこで何をしていたのか。
 でも、復活はありました。
 ですから、私は、イエスがどのように復活したのか、そのとき手足はどんな様子だったのかなんて、全然興味ありません。どうであっても構わない。私にとって大切なのは、今、私が現実に体験しているイエスの復活です。今も続いているイエスの復活による、私の復活です。イエスは永遠なる世界に復活し、今も復活し続け、私たちも共に復活し続けていることを、教会において、私たちに(あか)ししておられます。これを、私たちはミサのたびに記念しますし、その出発点として、「復活式」としての洗礼式がある。
 イエスさまのたとえは、ホントに分かりやすい。
 「一粒の種は、地に落ちて死ななければ、そのまんま。でも、死んだら、多くの実を結ぶ」(cf.ヨハネ12:24)
 イエスの「死」こそは、新しいビッグバンでした。その復活の実りを見てほしい。死んだ種がどうなったかなんて、どうでもいい。なくなっちゃって構わない。(から)が残ってるだけ。

 先週は、お二人のご葬儀がありました。
 ご遺体は、もう「殻」ですね。種の殻です。まあ、ご葬儀の時はまだそのご遺体がありますから、本人がそこにいるように見えなくもないですけど、実際にはびくとも動かない。・・・殻です。中身は、もう復活してるんだから。
 おひとりなんか、96歳ですよ。火葬場で火葬を終えて、カラカラカラッと台に乗った骨が出てきますでしょ、それを見た火葬場の方が、びっくりしてね、「いや〜、こんな立派な骨はめずらしい。96歳の女性の骨とは、到底思えない」って。確かに、太くて大きくてね、しっかりした立派な骨なんですよ。まあ、逆に言えば、そんな骨だからこそ、96歳まで生きたのかもしれないですね。
 それ見て、ご遺族の方も、「ホントだ。おばあちゃん、立派な骨だねえ」って感心してましたし、火葬場の職員さんも、「歯も立派ですねえ」とか、さかんに褒めてましたけど、私、心の中で、(死んでから、骨、褒められてもねえ・・・)って。(笑)
 それは、殻ですから。役目の終わった殻であって、しげしげ眺めるようなものじゃない。もう、どこに埋めようと()こうと、どうでもいい。その辺に捨て置いたって、構わない。まあ、そうもいかないからお墓に納めたりするわけですけれども、本質的には、どうでもいいんです。
 皆さんも、立派な骨か、スカスカな骨か知りませんけれども、これ、殻ですから。そのうちぜんぶ焼かれて、終わるものです。・・・種の殻。殻のためにね、あんまりお金かける必要ないですよ。そんなにあれこれ飾ったりしなくても、いいんじゃないですか。
 もちろん、この世で殻は無くてはならないものですから、この世にいる間大切にしたらいいし、感謝もしたらいいでしょう。でも、どのみち殻なんです。中身を守るだけのものなんです。その中身が永遠なる世界に復活していったら、もういらない。
 本人は、今、天の国で、復活の体を生きてるんですよ。
 信仰宣言(※5)で、私たち、「からだの復活を信じます」って、宣言するでしょう。その復活のからだがどのくらい素晴らしいかってね、想像もつかないわけですけれど、神さまがず〜っと準備なさって、ついに2000年前から、キリストにおいて、「復活」という新たな創造のみ業(・ ・)み業をお始めになった。それに与れることの喜び、希望、これはもう、かけがえがない。
 お二人が今、どんな復活の体で、どんな感謝と賛美を捧げているか、われわれの、どんな想像も足りないでしょう。
 ・・・「信じるのみ」です。

 佐藤初女(はつめ)(※6)さんとの対談が載っている新刊本が出ましたので、アンジェラ(※7)に今日から置いてますから、ぜひ、買ってお読みくださいね。『限りなく透明に凛として生きる』(※8)っていうタイトルで、初女さんの大切にしているキーワード、「透明」について語られている本です。
 「透明に生きていれば、ホントに生きやすい」って、初女さんが言うんです。
 透き通るような復活の希望を持って、この世のいろんな「色」にこだわらず、透明に生きる。
 「色即是空」じゃないですけど、いつもわれわれは、この世の「色」っていうものに振り回されてるわけですけど、色がつく前の本来のわれわれはもっと透明であるはずだし、やがて神さまの、ホントに透明な世界に生まれていく存在であるはずです。
 神の透明に溶け込んでいくような、そういう透き通った本質が自分のうちにあるんだっていうことを知ってないと、真の安らぎも喜びもあり得ない。ちょっとどこかが痛んでは死への恐れに囚われたり、逆にちょっと生きるのがつらくなったらこんな自分は消し去りたいと思ったり・・・。そういうこの世の「色」のことで苦しまずに、次の段階に入っていくときの、もっと透明感のある復活信仰っていうのを、しっかりと持ってほしい。
 初女さんが本の中で、「いのちのうつしかえ」っていう言葉を使うんですけど、たとえば、アスパラガスとかフキノトウとかをゆでてると、生きものとしてのいのちが、あるところで、スッと消える。まあ、ある意味、死ぬわけですね。でもそれは今度、人が食べるのにふさわしいものに変わって、人を生かすものとなる。その、スッと消える一瞬、透明になるんですって。いつも料理をしている主婦なんかは、ピンとくるとこもあるんじゃないですか? 「スッと透き通る瞬間っていうのがある」と。その透き通る瞬間にゆで上げると、ホントにおいしくいただけるんだっていうようなこと。
 セミの話もしてました。セミが幼虫時代を終えて、殻を残して羽化してくときって、すごく透明なんですよね。次の段階に入るときの、あの透明感っていうのは、やっぱりいのちの本質であって、もちろん形も大事、色も大事だけど、存在の本質には、ものすごく透明な、それこそ誰にも汚せない、神さまの透明さに溶け込んでいくような本質がある。
 対談でも話したんですけど、イエスさまなんて、最高に透明な人だったわけでしょう。だからこそ神さまの愛を、そのまんま透き通らせてね、私たちに届けてくれる。私たちも、イエスとひとつになって、もうちょっと透明になってこうじゃないですか。

 もうすぐ復活祭、春の日差しが燦々(さんさん)と降り注ぐなか、私たち、すがすがしく透き通ったキリスト者として生きてまいりましょう。
 特に洗礼志願者の皆さんは、清らかに澄んだ洗礼の水をかけられて、新しい段階に入っていきます。この世の「一粒の種」にこだわることなく、「多くの実」である永遠のいのちへの信仰を新たにいたします。それでは、洗礼志願者のための典礼を行ないます。
 ・・・洗礼志願者の皆さんは、立って前に進んでください。


【 参照 】(ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがありますので、ご了承ください)

※1:「『雷が鳴った』とか、『天使が話した』とか言ってますけれど」
〔参照部分〕
・・・「父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。・・・(ヨハネによる福音書 12章28〜29節 〈本日の福音朗読箇所より〉/ 下線引用者)
************
〔福音朗読箇所〕
本日、2015年3月22日〈四旬節第5主日〉の福音朗読箇所は、以下のとおり。
 ヨハネによる福音書 12章20〜33節
  〈小見出し:「ギリシア人、イエスに会いに来る」(12章20〜26節)、「人の子は上げられる」(12章27〜36節)から抜粋〉(小見出しは、新共同訳聖書による)
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※2:「『一粒の種』の話なんですね」
〔参照部分〕
「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
  (ヨハネによる福音書 12章24節〈本日の福音朗読箇所より〉
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※3:「今朝の新聞を読んだら、・・・日本の司教団が教皇フランシスコに会って、いろいろお話をしたっていう記事が出ていましたけれども」
(参考)/ ニュース記事へのリンクは、一定期間後リンク切れになりますので、ご了承ください。
・ 「ローマ法王:原発は『バベルの塔』」 現代文明のひずみ指摘」(2015年3月22日:「毎日新聞」ニュースサイト)
・ 「原発は『バベルの塔』 日本司教団との会見でローマ教皇が警鐘」(2015年3月23日:「CHRISTIAN TODAY(クリスチャントゥデイ)」)
・ 「原発は『バベルの塔』と教皇懸念 【CJC=東京】」(2015年3月23日:キリスト教@ワールドニュースラウダーテ
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※4:「バベルの塔」
 「バベルの塔」の話は、旧約聖書の「創世記」11章1〜9節、ノアの大洪水の物語の後に記述されている。
 ノアの子らは諸国民の祖となり、増えていったが、その頃はまだ、地球上では同じ言葉、同じ言語で話していた。そのうち、ある人々は、「石としっくい」の代わりに、「れんがとアスファルト」を使うようになる。技術の発達と共に傲慢、そして利己的になり、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」(創11:4)と計画し、この「バベルの塔」の建設を始める。
 しかしながら、それは、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(創1:28)という神の望み、神の計画に反していた。神は、「彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにし」(創11:7)、彼らを全地に散らしてしまわれる。
 ・・・この話は、長く、人間の傲慢を戒め、その罰として、言葉が分裂したと捉えられてきた。が、現在では、大洪水後、神が結んだノアとの契約は、『それぞれの地に、その言語、氏族にしたがって』(創10・5)まとめられた人々に対する神の救いの計画であるので、罰というより、癒しの配慮とする見方もある。
 いずれにしても、神は、専制君主や独裁国家、そして思い上がった個人の利己主義を厳しく戒めていることは間違いない。
(参考)
・ 「バベルの塔」(ウィキペディア)
・ 「バベルの塔」(天国への階段〈タワー・塔・高層建築のまとめサイト〉)
・ 「バベルの塔」(カトリック甲子園教会
・ 「ノアとの契約」56項・57項 (2002)『カトリック教会のカテキズム』カトリック中央協議会
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※5:「信仰宣言」
 詳しくは、既出(こちらの〈参照※12〉)をご覧ください。
 「信仰宣言」は、すべての主日と祭日に、ミサ中、説教の後、「洗礼式の信仰宣言」、「使徒信条」、「ニケア・コンスタンチノープル信条」の、いずれかの形式で唱えられている。
 以下は、「使徒信条」。

***「使徒信条」***

天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主 イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、
陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、
全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、
永遠のいのちを信じます。アーメン。

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※6:「佐藤初音さん」既出
1921年青森市生まれ。カトリック信者。
小学校教員、ガールスカウト団体代表、家庭科の短大講師などを経て、
1979年には、弘前染色工房をオープン。
1983年には、老人ホームの後援会や弘前カトリック教会での奉仕活動を母体に、自宅を改装し、悩み苦しんでいる訪問者の受け入れのために、「弘前イスキア」開設。
1992年から、同様の目的で、青森県岩木山麓に「森のイスキア」を主宰し、自然で素朴な、心を込めた手料理でもてなしながら、こころとからだに、癒やしの場を提供している。「おむすび講習会」は、常に満員の盛況ぶり。
1995年、龍村仁(たつむらじん)監督の【地球交響曲(ガイアシンフォニー) 第二番】に出演。その活動が全世界で紹介され、国内外での講演会を行う。
アメリカ国際ソロプチミスト協会賞 国際ソロプチミスト女性ボランティア賞、第48回東奥賞受賞。
2013年11月の「世界の平和を祈る祭典 in 日本平」において、キリスト教代表で登壇。
チベット仏教最高指導者のダライ・ラマ法王と初対面。その際、おむすびをふるまう。
著書は、『おむすびの祈り』(集英社)、『朝一番のおいしいにおい』(女子パウロ会)、『愛蔵版 初女さんのお料理』(主婦の友社)、『「いのち」を養う食』(講談社)など多数。
(参考)
・ 「佐藤初女」(ウィキペディア)
・ 「特集:佐藤初女」(NTTファシリティーズ 特集・スペシャルインタビュー)
・ 「小さな森 東京」(東京で、イスキアの活動を応援しているグループ)
・ 「森のイスキア」(その誕生までや、名前の由来などを紹介している。/「雪のイスキア」)など
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※7:「アンジェラ」既出
 カトリック多摩教会の教会ショップ。
 主任司祭(晴佐久神父)の書籍はもちろん、キリスト教専門の書籍や雑誌、十字架やメダイ、ご絵などを扱っている。
(参考)
・ 晴佐久昌英神父 「教会ショップ『アンジェラ』」(主任司祭巻頭言:カトリック多摩教会月報「多摩カトリックニューズ」 2009年10月号)
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※8:『限りなく透明に凛として生きる』
 『限りなく透明に凛として生きる』(画像はクリックすると拡大表示されます)
書名 : 『限りなく透明に凛として生きる -「日本のマザー・テレサ」が明かす幸せの光』
著者: 佐藤初女
定価: 本体1,296円(税込)
単行本(ソフトカバー): 208ページ
出版社: ダイヤモンド社
発売日: 2015/3/20
内容紹介: 心が透明ならほんとうに生きやすい。透明でないとほんとうに生きにくい。93歳「日本のマザー・テレサ」が明かす限りなく透明に凛として生きる知恵。無限の安心感に包まれる考え方。「マザー・テレサの詩」の手、足、声、心を軸に、哲学者・芳村思風氏、晴佐久昌英神父、池川明医師との対論も収録。   
(参考)
・ 『限りなく透明に凛として生きる』(Amazon)
・ 『限りなく透明に凛として生きる』(ダイヤモンド社)
   ・・・出版社のダイヤモンド社のサイトからは、動作環境が整っている場合、Flash版かアプリ版で少し立ち読みもできます。>>>こちら をご覧ください。


【お知らせ】
4月17日(金)には、出版記念講演が、東京都目黒区の「めぐろパーシモン大ホール」で行われます。(ダイヤモンド社主催)
すでに定員いっぱいでキャンセル待ちのようですが、詳細は、この講演会を後援する株式会社アイウィルビーのサイト、および、同社のサイト内、詳細の記されているページをご覧ください。
出版記念講演会
(画像はクリックすると、株式会社アイウィルビーの詳細ページにジャンプします)

※カトリック多摩教会では、詳細は把握しておりませんので、お問い合わせはご遠慮ください。
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2015年3月15日 (日) 録音/2015年3月22日掲載
Copyright(C) 2011-2015 晴佐久昌英