そこにいるだけでうれしい

【カトリック上野教会】

2016年7月31日 年間第18主日
・ 第1朗読:コヘレトの言葉:(コヘレト1:2、2:21-23)
・ 第2朗読:使徒パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ3・1-5、9-11)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ12・13-21)

【晴佐久神父様 説教】

 浅草でお話をして、上野でお話をして、・・・って交互に説教をやってると、一つ問題が出てきました。私の説教は、ある部分は連続ものだったりするんで、前の週の話を聞いていないと、ちょっと分かりづらかったりすることがあるからです。「先週のあの話ですけどね、実はその後・・・」って言おうとして、ふと気がつくと、「あっ、上野は3週間ぶりだった!」とか。(笑) これは、私には大問題で、せめて、「福音の村」でね、前の週の話が読めればいいんですけど、とっても今、間に合ってないんですよね~。すいません。

 ってことで、ちょっとだけ先週の話を繰り返すならば、先週は浅草教会で、うなぎの話をしたんですよ。昔、土用の丑の日に、スーパーのお総菜売り場で、うな重を目の前にして、買おうかどうか、すごく迷ったことがある。何度も手に取ってね。・・・でも高いでしょ?(笑) 「どうしようかな~、おいしそうだなあ。でも高いしなあ。う~ん、どうしようかな。・・・やっぱりやめようかなあ」ってね。(笑) で、結局やめて、別のものを買ってスーパーのレジに並んだんです。ところがですね、お総菜売り場って、その向こうに調理場があって、ガラス戸の向こうに働いている方がいるじゃないですか。そこにたまたま信者さんがいて、私をじ~っと見てた。(笑) すると神父さん、何度も迷った末、うな重を置いて行っちゃったんで、憐れに思ったんでしょうね、(笑) それを自分で買って、レジに並んでた私に、「これ、どうぞ」って。(笑) ・・・いや~、「ありがたいねえ」っていう話です。
 で、なんでそんな話をしたのか、どうその後の福音につながったのか、ちょっと今、思い出せないんですけど、(笑) ただ、問題は、昨日の土用の丑の日に、ピンポ~ン♪ ってチャイムが鳴って、「誰だろう?」と思って出たら、浅草の信者さんが、「どうぞ、うな重です」って。(笑)
 先週の話を聞いてたんですね。「しまったなあ・・・」と思いましたよ。だって、そんな話をすると、「誰か、うなぎをお願いしますよ♡」みたいなふうに聞かれかねないですもんね。(笑) これだけは言っておきますけど、そんな意図は毛頭なかったんです。(笑) ホントです。と言いながら、こうして上野でもうなぎの話をしてると、上野でも「お願いしますね」って言ってるみたいじゃないですか。(笑) 上野の皆さん、持って来ないでくださいね、この話を聞いて。
 今日、 「どんな貪欲にも注意しなさい」 (cf.ルカ12:15) ってイエスさまに言われて(※1)、ふと先週のうなぎを思い出したっていうだけです。

 いつだったか、あるアンケートで、「『ごちそう』っていうと何を思い浮かべますか?」っていうのがあって、1位は寿司でもステーキでもなく、うなぎだったのを思い出しました。・・・まあ、アンケートの取り方にもよるんでしょうけど。確かに、うなぎは本当においしいし、ごちそうです。
 で、「ああ、食べたいなあ」と思ってね、食べて満足してね、で、しばらくするとまた「食べたいな~」と思ってね、で、また食べたら満足してね、で、また「食べたいな~」って思う。(笑) そんなことしているうちに、やがて人生が終わる。(笑) そうですね、これ、笑うとこですよね、ホントに。
 そうして、「一体、何してたんだろう?」ってね、後で自分の人生を、どのように思い出すんでしょうか、天国に行って。「うなぎ、いっぱい食べたなあ」って思い出すんですかね。まあ、ごちそうを食べて、別に悪いことじゃないと思いますけど、イエスさまが「どんな貪欲にも注意しなさい」 (cf.ルカ12:15) って言ってるのは、「あなたがたの命は、やがて終わるんだ」 (cf.ルカ12:20) と。だから、「本当に大切なものをこそ追い求めなさい」ってことでしょう。
 この世のものは有限であり、やがて過ぎ去るものであって、本当に求めるべきもの、最高のもの、決して過ぎ去らないものを求めましょうね。たぶん、天国に行ったら、「うなぎ」なんて、ほとんど思い出しもしないんじゃないかな。「そういや、天国に来る前に、にゅるにゅるしたものを、かば焼きにして食ったことがあったなあ・・・」くらいにしか思い出さない、それほどに、神さまのみもとでは、最高の喜びがある。だから、この世にありながら、それを先取りして、そのような最高の喜びを信じて生きていれば、もう、何を食おうが食うまいが、そんなことからは解放された、自由で(さわ)やかな生き方ができるっていうことです。
 それは、イエスの弟子たちも味わっていたと思う。イエスさまのみもとでね、とても貧しかったと思うんですよ。でも、この世のとらわれから解放されて、永遠のいのちの福音を聴いて、仲間たちと共に天国を先取りして。・・・イエスの弟子として、キリストの教会も、そういう爽やかな生き方をしたいなと、つくづく思う。私も、それこそ、「いつ神さまに召されるか分からない」っていうことがリアリティーを持って感じられるような年に、だんだんなってきましたから、「お前の命は今夜…」と言われると、「ホントにそのとおりだな・・・」と。
 「この世のものにとらわれない」っていう自由に憧れるし、そして、そのような自由を生きている人たち、「何も持っていないけれど、すべてを持っている」という人たちとこそ、いっそう深く交わりたいな、とも思う。
 いっぱい物を持っていると、それが重荷になり、自分を守るための(よろい)になり、縛られて身動きが取れない。逆に、何も持っていなければ、ホントに自由で解放されて、もう神さまの国に入っているに等しい。・・・やっぱりこの違いは、あまりに大きい。
 「この世で、この世のものを多くは与えられなかった人ほど、実は神さまの国に近いんだ」という、このキリスト教の神秘をね、私、改めて、今週ずっと思い起こしております。何も持っていないかのように思われる人たち、とりわけ、大きな障害を持っているとか、重い知的障害を抱えているとか、そういう人たちのことを、今週は本当によく思わされたからです。

 私が通っていた小学校は、この台東区の隣の、文京区の昭和小学校っていう所です。
 その話をしたら、先週、「ああ、名門の出なんですね」って言われましたけど。・・・そうなんですか? 普通の公立の小学校でしたけれども。ただ、名門かどうかはともかく、いい教育をしてたと思います。あの時代ですから、厳しい教師もいて、ちょっと厳し過ぎたって気もしますけどね。特に、子どものころの私は注意欠陥障害みたいのを持っていたので、授業中に思いついたことを叫んだり、課題をまったく聞いていなかったり、物をなくしたり落としたり忘れたりと、まあ、ひたすら叱られて育ってましたから、そういう意味では、ちょっと教師に対してね、「厳し過ぎたんじゃないの?」っていう恨みがないでもない。
 でも、校長先生は素晴らしい校長先生でね、私のことをかわいがってくれて。だから私はもう、心の中で、「でも、校長はおれの味方だぜ~ ( ̄▽ ̄)V」みたいなことをね、(笑) 感じて生きておりました。・・・ホント、いい校長だった。名前を言っておきます。千葉胤継(たねつぐ)校長先生。
 かわいがってくれてね。・・・私が教師に叱られてると、助けてくれるんです。「こっち来なさい」って校長室に呼ばれてね、校長室でいろいろお話してくれた。あの当時は、「注意欠陥障害」なんて言葉もなかったですし、ちゃんとした対応策もなかったでしょうから、ぼくがウロチョロして、先生の言うことを聞いてなくて、叱られてばっかりでも、その校長先生は、「でも、きみは本当にいい子なんだよ。いつも叱られていても、だいじょうぶなんだよ」っていうようなことを教えてくださってたと思うんですよね。・・・愛情のある、いい教育だったと思います。

 思い出すのは、私のクラスに、知的障害の同級生がいました。女の子です。「田中さん」。もう50年以上前の話。・・・田中さん、どうしているだろう。
 この田中さん、授業内容は、おそらく、まったく分かってなかったと思います。でも、普通のクラスに入学して、一緒に勉強してるんですね。で、なぜか、私の隣の席なんですよ、いつも。・・・昔の机、そうだったでしょう? 二人机じゃないですか(※2)。真ん中にチョークで線を引いて、「この線からこっちに出るなよ!」みたいなね。(笑) ・・・懐かしいね、あの木の机。隣が田中さんだった。今でも覚えてる。私が左で、田中さんが右。
 田中さん、何も授業が分かってないし、むずむずしながら、いろんな物いじったり、なんかつぶやいたりしてるんだけど、よく分からない。でも、私は一番仲が良かったんです。授業中、彼女といろいろ遊ぶわけですね。一番遊んだのは、帽子。・・・小学生、帽子をかぶってるでしょ、あの丸い帽子ね。あの丸い帽子を、折り紙みたいにいろんな形にして、ぼくが面白い形を作ると、彼女、笑って喜ぶんですよ。だから、私が違う形を思いついて、作って見せると、「んふふ」って笑う。で、また、「こんなのはどう?」って見せると、また笑う。・・・でも、先生、まったく注意しなかったですね。
 「なんで、いつも田中さんと隣だったんだろう?」って漠然と不思議に思ってたけれど、ある時気が付いた。たぶん、一緒に思われてたんですね、きっと。(笑) ちゃんと授業を聞けないこの二人は、まあ、何でしょうね、特別区? みたいなもんで、許されてたんじゃないかな。そこだけ、「ある程度遊んでても大目に見てもらえるコーナー」として。
 私も、授業、ちゃんと聞いてませんでしたし、遊んでるのが楽しかったし、同級生たちもみんな、田中さんが不思議なことをつぶやいたり、ぼくが突然おもしろいことを叫んだりすることを、面白がっていました。でも、先生は、よくこう言ってました。
 「田中さんはバカじゃないのよ。からかったりしたらダメよ。田中さんはね、皆さんよりも、丁寧に、ゆっくりゆっくり育ってるの」
 ・・・いい教育ですね。
 今の学校、障害を持っている子って、いないんじゃないですか? 普通には。どうなんですか? 知的障害の子が普通に一緒にいたりする学校、どのくらいあるんでしょうかね。まあ、分けて育てた方がいいこともあるんでしょうけど、すべて一緒じゃなくても、時には一緒にいた方がいいと思いますよ。一緒に遊んだり、コミュニケーションをはかったり、先生がその子のことを語ったり。・・・出会うチャンスがないと、理解し合えませんから。一緒にいた方がいいと思いますね。そういう同級生がいるんだってことを体験した方が。本人のためにも、障害を持っていない子のためにも。

 まあ、言うまでもなく、先週の相模原のやまゆり園の事件(※3)を、私は非常に胸痛めて見守っておりますので、そんなことを思い出しているわけですが。
 「知的障害を持っている人」、それを、あの犯人は「人じゃない」って言ったんですね。そう報道で聞きましたよ。「人の形をしているだけだ」と。驚くべき野蛮な見解ですけれども、実際にその犯人がどのように思って19人もの命を奪ったのか、まだよくわかりません。薬物のことも言われていますし、思想的なことも取沙汰されていて、「ヒトラーの思想が降りてきた」なんてね、言ったりしているようですが。
 しかし、やっぱり私、思うに、一人の人の異常性に答えを見つけようとするのは、もう無理だなと思います。むしろ、世の中全体が、そういう空気、そういう思いにとらわれ始めているっていうことの、一つの目に見えるしるしなんだと、そういうふうに捉えるべきだと思う。「この世がすべてだ」っていうような、そういう空気ですよね。「金がすべてだ」「力がすべてだ」「どれだけ社会の役に立つかどうかがすべてだ」というような、そんな気配が、この私たちの中にも、ここに集まっている皆さんの心にも、ちゃんともう、それは忍び込んでいて、それにとらわれ始めていて、「この世でどれだけ金を儲けるか」「どれだけ経済を活性化できるか」「どれだけ贅沢なものが食えるか」、そんなことに、みんなの心が少しずつ、まるで黒い霧が世界を覆おうとするかのように忍び込んできているとしたら、やっぱり、そういう中で、それこそ犯人だって、被害者の一人ってことになる。たぶん、一番弱い精神に、そのような悪しき黒い霧がフィルターなしに流れ込んできて、そして目に見える形で噴き出してしまうんじゃないか。
 そんな現実の中で、
 「どんな貪欲にも注意しなさい」 (cf.ルカ12:15)
 「この世のものなんか有り余るほどあったって、何の役にも立たない」 (cf.ルカ12:20)
 そういう福音、すがすがしい福音を、私たち、この世界に向けて、ちゃんと発信しているんでしょうか。
 まずは自分自身が、そのように憧れて、解放された生き方を目指しながら、「皆さ~ん! ここにこそ本当の安心が、本当の一致があるんですよ~!」「一番弱い人、何も持っていない人こそ神さまの恵みのうちにあって、一番役に立ってるんですよ~!」「この世のものは消え去るけれど、天の国は永遠で、その人の心にこそ、その入り口があるんですよ~!」と、そんな真理を、私たち教会は、ちゃんと発信してきたでしょうか。・・・キリストの教会は、そのためにあるはずですが。今の世の現実に対して、私は全く責任ありませんって、堂々と言えるキリスト者、いますか。
 パウロが言っているように(※4)
 「もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分のものの区別なんかありません。健常な人と、知的障害を持っている人の区別なんかありません」(cf.コロサイ3:11)
 「古い人を脱ぎ捨てて、神の姿、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」 (コロサイ3:10)
 こういう生き方を、われわれ、次の世代に発信してきましたかね。
 ・・・聖書の中に、どれほど素晴らしい福音が書いてあっても、誰も知らないなら、特に次の世代が知らないなら、意味がない。
 あの犯人が、若いときに、・・・もう何年か前でもいい、キリスト教に出合い、福音を聴いていたらああいうことをしなかったっていう可能性はあるんじゃないですか? ・・・そんな可能性、ゼロですか? あるんじゃないですか?

 私、(めい)が知的障害者なんですね。私の姉の娘です。私にとって最初の甥姪(おいめい)ですね。もう30になるのかな。
 私の姉が結婚したとき、私もうれしかった。姉が最初の子どもを授かったとき、私もうれしかった。かわいい子でね。幼稚園で、ものすごく才能を発揮したんですよ。なにしろ、耳がいいんですね。聞いた歌を、耳で覚えて、ぜんぶ歌えるんです。で、歌は歌えるけど、ちゃんとしゃべれない。手先もね、はさみは使えるんだけれど、細かいことがなかなか上手にできない。「ちょっと発達が遅い子なのかな?」くらいに思ってました。幼稚園でキラキラ輝いて、楽しくね、はしゃいで過ごしてましたから。ただ、就学時検診で、「普通の小学校には入れない」って言われて、姉はやっぱり、すごくショックを受けておりました。
 でも、彼女の笑顔は天下一品ですし、その才能は素晴らしいものがありますし、何よりも、私の姉一家を、本当に喜ばせて、幸せをもたらして、今も姉と一緒に暮らしておりますけれども、まさに、・・・何でしょう、「この人が神さまの国の入り口の、一番近い所に座ってるな~」っていうのは、これは、見れば分かります。
 たまたま、前にいた教会が姉のいる教会だったんで、姉は入門係を手伝ってくれました。だから、入門講座に毎週来る。もちろん娘も一緒です。母親から離れていられませんから。だから、入門講座に必ず彼女がいるわけですね。それは、私にとっては、・・・なんていうんでしょう、「この入門講座は天国の入り口だ」という事実の、まさにシンボルでありました。
 福音を語りまくった7年間でしたけれども、彼女はいっつも入門講座に座っててくれました。私の言ってることの内容は、たぶん分からなかったと思う。しかし、私が何をしているかということの、本質は、よ~く分かっていた。私が、みんなを喜ばせている。みんなを笑わせている。みんなを感動させている。みんなを救っている。・・・それを、彼女はちゃんと分かってるんですね。
 たとえば、私が福音を語っていると、時には眠そうな人がいるんですね。(笑) で、「眠らせてなるか!」と思って、ちょっと笑わせたりする。・・・「今、そうだ」って言ってるんじゃないですよ。(笑) そんな時、笑わせようとして、話の中で、私、ボケをかますんですね。ツッコんでくれる人はいませんから、一人でボケるだけですけど、でも、みんな、「ははは・・・(〃^▽^〃)」と笑ってくれる。
 で、私がボケるとき、・・・何か面白い話を、とぼけて話そうとするとき、ある(くせ)があるみたいなんですね。自分では気づいてないんですけど、ちょっとこう、声の調子が、「さあ、ここからボケに入ったぞ」っていう声の調子があるみたいなんですよ。(笑) そういうときの声のモード、声音(こわね)っていうのかな。 そうすると、まだボケを言い終わってないから、みんな笑ってないのに、私がボケ始めると、彼女は、真っ先に笑うんです。(笑) 分かるんですよ、耳がいいから。内容としては分かってないからこそ、余計にそういう力が発達するんでしょうけど、声の調子とか音の調子に、ものすごく敏感なんです。・・・ホントに耳がいいんですよ。だから、私がボケ始めただけで、真っ先に笑う。・・・すごい才能ですよね。
 知的障害を持ったわが子を抱えている親というのは、いろいろ大変ですよ。将来のことを思えば、施設に預けなければならないこともある。でも、どれほど愛しているか、大切に思っているか、それは普通の子の親以上かもしれませんし、もう、そこにいるだけでうれしいんです。それを思うと、今回の事件を、姉はどう思っているだろうと思うと、私、胸が詰まります。

 そして、私たち、キリストの教会にできることがあるということを、改めて思い出します。
 ・・・「福音」を語るんですよ。宣言するんです。
 神さまがどれほど、・・・どれほど、そのような一人の子どもを愛しているか。その存在が、この世界にとって、どれほど役に立っているか。どんなに頭のいい人よりも、どんなに力のある人よりも、どんなスポーツ選手よりも、どれほど聖なる役割を果たしているか。最も大切な人、最も尊敬すべき人、最も神さまの栄光を表す人として、イエスさまがどれほど大切にしたか。私たちキリスト者が、そのような神の子を、誰よりも天国の近くにいる人として、どれほど大切に思っているか。そういう福音を、ちゃんと、もっともっと語りましょうよ。伝えましょうよ。そして、この教会にも、いっぱい呼んできましょう。大勢いるはずですよ、このような集まりを、今、現に求めている親も、当事者も。
 今、このミサにも大勢の人がいますけれども、社会全体の割合を当てはめて言うならば、何パーセントかの割合で、ここにもそのような人がいるべきだと思うし、ぜひ皆さんで、福音を語って、お招きしてください。そして、どんな人とも家族同然に、いや、家族として、ごく普通に一緒にいるという恵みの体験を、特に若い人たちにしてもらいたい。
 イエスさまは言いました。
 「彼ら一人ひとりの天使たちは、天上で神さまの顔を仰ぎ見ているんだ」(cf.マタイ18:10)(※5)
 まさに、このキリストの教会は、そんな一人ひとりと共にあることで、神さまとつながれるのです。
 ・・・「この世がすべてだ」って思い込んでいると、ホントに、この世の基準でしかものが見えなくなって、むしろ、「貪欲であることが当然だ」みたいな世の中になって、「もっと集めろ」「もっと大きな倉を立てろ」、そんな話ばかりになる。
 でも、世の中がどんなであろうとも、私たちは、爽やかに天を仰ぎ見ます。
 そして、神さまに申し上げます。
 「神さま、今夜、私の命が召されても構いません。私は今日一日、あなたが愛している最も小さな一人ひとりを大切にいたします(※6)。あなたはそのために、私にこの一日を与えてくださったのですから」


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「『どんな貪欲にも注意しなさい』(cf.ルカ12:15)ってイエスさまに言われて」
 「どんな貪欲にも注意しなさい」は、この日、2016年7月31日(年間第18主日)の福音朗読箇所の中から。
 この日の福音朗読箇所は、以下のとおり。
  ルカによる福音書12章13~21節。
   〈小見出し:「愚かな金持ち」のたとえ〉
************
【あらすじ】(ルカ12:13~21)
 
どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」(ルカ12:15/赤字引用者)
 イエスは、こう前置きされてから、次のたとえを話された。
 「ある金持ちの畑が豊作で、作物をしまっておくための場所もなくなった。そこで、『倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をぜんぶ納めてしまおう。あとはその蓄えで、何年も生きていける。食べたり飲んだりして楽しもう』と考えた。
 
しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」 (ルカ12:20-21)
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※2:「昔の机、そうだったでしょう? 二人机じゃないですか」
(参考画像)
①                   ②                    ③
  
参考画像はいずれも明治のサンプルです。昭和のものが見つからず、申し訳ありません。
ただ、大きくは変わりませんので、ご参考までに。それぞれクリックすると拡大しますが、順に、
旧遷喬尋常小学校(きゅうせんじんじょうしょうがっこう)(重要文化財): 所在地 岡山県真庭市鍋屋/建築年代 明治40年(1907年)
聖ヨハネ教会堂(重要文化財): 旧所在地 京都市下京区河原町通五條/建築年代 明治40年(1907年)
三重県尋常師範学校・蔵持小学校: 旧所在地 三重県名張市蔵持/建築年代 明治21年(1888年)
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※3:「先週の相模原のやまゆり園の事件」
 2016年7月26日未明に起きた、障害者福祉施設「津久井やまゆり園」(神奈川県相模原市)で起こった殺傷事件。同施設の入所者19人が亡くなり、施設の職員2人を含む26人が重軽傷を負うという大惨事となった。
 逮捕されたのは元職員の26歳。同年2月には、手紙で、多数の障害者を殺害できるなどと予告していた。また、「障害者が安楽死できる世界を」めざすなどと主張し、「障害者は生きていても意味がない」などと話したり、親しい友人には、無料通信アプリ「LINE」を通じて「人の形をしているだけで、彼らは人間ではありません」などと書いたりしていたという。
 さらに、緊急措置入院中には、「ヒトラーの思想が2週間前に降りてきた」と語っていたことも分かった。
 障害者に対する差別と偏見、社会的な病巣、措置入院の在り方等、さまざまな問題も浮かび上がっている。
(参考)
・ 「相模原障害者施設殺傷事件」(ウィキペディア)
・ 「相模原殺傷*記事一覧」(毎日新聞ニュースサイト)他
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※4:「パウロが言っているように」
 この日、2016年7月31日(年間第18主日)の第2朗読で語られていることを指す。この日の第2朗読箇所は、以下のとおり。
 使徒パウロのコロサイの教会への手紙3章1~5節、9~11節
  〈小見出し:「日々新たにされて」2章20節~3章17節から抜粋〉
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※5:「『彼ら一人ひとりの天使たちは、天上で神さまの顔を仰ぎ見ているんだ』 (cf.マタイ18:10)
===(聖書該当箇所)===
 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。 (マタイ18:10/赤字引用者)
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※6:「あなたが愛している最も小さな一人ひとりを大切にいたします」
===(聖書参照箇所)===
 ・ 「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」 (マタイ25:40)
 ・ 「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(ルカ9:48)

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2016年7月24日 (日) 録音/2016年8月19日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英