26本の指

2015年2月22日四旬節第1主日
・第1朗読:創世記(創世記9・8-15)
・第2朗読:使徒ペトロの手紙(一ペトロ3・18~22)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ1・12-15)

【晴佐久神父様 説教】

 いよいよ2015年の、洗礼志願式(※1)を行うことになりました。
 聖堂ベンチの、前から数列に、今日これから洗礼志願者となる方たちが座っておられます。今年のこの志願者たちを、後ろの席の先輩信者たちは、あったか~い目で見守りましょう。「後方支援」っていうんでしょうかね、今日は後ろからいっぱいお祈りを注いでください。
 志願している方たちは、そうは言ってもやっぱり不安のうちにあるんですよ。迷いもある。さあいよいよだという思いと同時に、恐れもあるんです。そんな志願者たちの、どこか不安げな顔を見ていると、本当に励ましたくなります。後方支援のお祈りが、何より大切です。よろしくお願いしますね。

 洗礼を志願した方たちは、志願した後でも、入門講座などで、「でも、こんな私でいいんだろうか」とか、よくそういうようなことをおっしゃいます。
 「こんな自分はふさわしい(・ ・ ・ ・ ・)んだろうか」
 「本当に自分は受け入れてもらえるんだろうか」
 「私なんかが洗礼を受けるなんて、神はそれを望んでおられるんだろうか」
 「こんな汚れた、こんなダメな、こんな弱い私が、信仰を守って生きていけるんだろうか」
 ・・・普通の人なら、当然、そう思うわけです。
 洗礼志願動機書(※2)にも、確かに「信じます」とは書いてあるけれど、同時に、恐れや不安も書いてある場合が少なくない。中には、司祭が洗礼許可証にサインする面接の前日に、その動機書を、「もうダメ! 私なんかは受ける資格がない!」と、ビリビリと破いたという方もおられる。もちろん、その方は翌日の面接で福音を聴いて安心し、サインをもらって、今、ここにおられます。
 ・・・皆さんの、その気持ちはよく分かります。その恐れもよく分かります。でも、皆さんも分かってください。あなたは、だからこそ、洗礼を必要としているんだってことを。
 もし、その動機書に、「私こそ洗礼を受けるにふさわしい。私は完全な信仰を持っています」なんて書いてあったら、私がビリビリ破くでしょう。(笑) 「こんなのは、許さん」と。
 恐れていいのです。でも、だからこそ、洗礼を受ける。

 先ほど、ノアの箱舟の箇所が読まれましたけれども(※3)、まさに、洗礼志願者の皆さん、救いの大船に乗った気持ちになってください。どんな洪水でも、この仲間と共に乗り越えていきましょう。なにも、「洗礼を受けたら強い信仰を持って、一人で荒波を泳いで渡れ」などと言っているのではない。「さあ、もうこの船に乗ったら安心だよ、恐れずに、一緒にやっていこう」って言ってるのです。「イエス・キリスト」という大船で、「神の国」という港に入ったも同然のこの航海、もはや何を恐れることもありません。旅する教会の仲間たちと一緒に、救いの喜びを分かち合っていくのです。
 ・・・いやあ、これ、洗礼志願式の説教って、どうしても高揚してきて、洗礼式の説教になっちゃうんですよねえ。福音に救われたみなさんの顔見てると、なんかもうホントに、すぐにでも洗礼の水をかけたいような気持になりますが。もうちょっとの辛抱です。
 まあ、結婚にたとえるなら、洗礼式が結婚式で、洗礼志願式は婚約式。だから、一生一度のことでもあるし、「神と結ばれる結婚」という、その日のために、この婚約期間、よい準備を始めましょう。「本当に神さまが、自分を受け入れてくれるんだ」ということ、「こんなふさわしくない私と共にいてくれるんだ」ということ、「こんな私に、生涯特別にご自分の愛を表してくれるんだ」ということ、それを信じなかったら、結婚なんて意味がない。婚約式、婚約期間は、本当にそうなんだと知るためにあります。
 だから、この四旬節、40日間は特別に、
 「神さまが(・ ・ ・ ・)、私を選んでくれた」
 そういう信仰を、確かなものにしてください。
 その意味では、結婚にたとえましたけど、人間同士の結婚とは決定的に違うところがある。人間の結婚だったら、お互いフィフティーフィフティーというか、両方が求め合い、両方が受け入れ合いってことですけど、洗礼で神と人が特別に結ばれるってときは、圧倒的に神の側からの熱が高い。・・・温度差があるんですよ。
 そもそも、洗礼は神からのプロポーズです。神の方が選び、神の方から求め、招き入れ、導いて、神の方が皆さんを確実にご自分のもとに受け入れてくださる。私たちはただ、「はい、よろしくお願いします」と言うだけ。・・・婚約期間は、そういうことをしっかり学んでくださいね。

 四旬節って、どちらかというと、「もっとしっかりした信仰者になろう」とか、「もっとがんばって祈ろう」とか、「もっと罪を捨てて清くなろう」とかっていう、何て言うんでしょう、・・・上昇志向というか、自罰志向というか、何かそういうものがイメージとしてあるのは、これはでも、実は逆なんだっていうことを、特に洗礼志願者の人には分かっていただきたい。
 今までがんばって泳いできたけれど、もう、(おぼ)れて死にそうだったから、救いの船に乗せてもらったわけであって、船に乗ってから、なおも泳ごうとする人がいたら、おかしいでしょ。安心して、「神さまにすべてを委ねる」ということを学ばなくっちゃ。
 四旬節、後方支援の信者さんたちでも、そうですよ。せっかく洗礼を受けてるのに、自分を責める人が多い。こんな自分じゃだめだと嘆く人も多い。そして四旬節になると、ますます、「こんな自分は罪深い。もっと清くならねば」と、「でも、そうなれない。どうしよう」と、なんだか暗い気持ちになる人が多い。
 ・・・もしそうだとするなら、それは「逆」です。・・・逆。
 むしろ四旬節は、神の愛にのみ信頼するときだから、1年間自分を責めてきた人が、それをやめるときです。いうなれば、「がんばって、がんばるのをやめる」んです。
 がんばって、いい人になるんじゃなくって、がんばって、悪い人である自分を受け入れるんです。
 神さまに受け入れてもらっていることに、目覚める。・・・これが四旬節。
 たった40日ですから、できるはずですよ。365(ぶん)の40ですから、9分の1? 約1割。このくらいの期間だったら、なんとかなるはず。
 よく四旬節に禁煙するっていう方がいますけど、それはつまり、40日ならなんとか(・ ・ ・ ・)なるっていう、そういうことでしょ? 1年は無理だけど、40日ならなんとか(・ ・ ・ ・)なる。
 普段、自分を責めたり、こんな自分はダメだと思っている人が、40日間がんばって、「こんな私でも、だいじょうぶだ!」「こんな私だからこそ、救われるんだ!」、そう自分に言って聞かせる季節として、この婚約期間を過ごしてほしいのです。相手の愛を感じる期間なんだから。
 禁煙でいうならですね、私の親しい友人ですが、心の病を背負っている40代で、もう何十年っていう付き合いなんですけれども、いつも同じことを言う。
 「自分はたばこがやめられない。どうしてもやめられない。本当はやめるべきだって分かっている。体にも良くないし、周りにも迷惑をかけるし、神は私がたばこを吸うことをお望みでない。私が本物の信仰を持っていれば、たばこをやめることができるはずなのに、そうできないのは、私が罪深いからだ。そんな自分が情けない」
 ・・・そんなようなことを、いつもいつも、ず~っと言ってるんですよ。
 だからつい先日、これからもうすぐ四旬節が始まるってときに電話が来て、またそんなこと言ってるので、はっきり申し上げました。
 「今年の四旬節、君は、しっかりたばこを吸いなさい。(笑)それが君の四旬節だ。神は、君がたばこを吸おうが吸うまいが、あなたを愛している。たばこをやめてもやめなくても、あなたは神の子だ。強い信仰でたばこをやめたら救われる。・・・そんなのは信仰じゃない。そんなのは、神の救いでも何でもない。それは、あなたの満足であって、本物の神は、あなたがたばこを吸っていても、どんな悪人でも、あなたを決して罰したり、裁いたりしない。むしろ、『こんな弱い自分はダメなんだ』というあなたの(・ ・ ・ ・)思いが、そのたばこに投影されているだけだと気づきなさい。・・・神の愛に目覚めなさい。四旬節、恵みのとき、安心して、しっかりたばこを吸いなさい」
 ・・・そういうことなんです。「神の愛に目覚める」っていうことはね。
 み~んな自分を責めて責めて、「こんなんじゃダメだ」って言う。そして、それゆえに、他人のことまでも、「あんなんじゃダメだ」と言い出す。
 神さまがどれほど私たちを愛しておられるかということをちゃんと知るのが、この四旬節なんだから、「いつにも増して、がんばって悪い人のままでいる」と決心してください。・・・ダメな自分に、踏みとどまる。いい人になろうとしない(・ ・ ・)訓練です。それをこそ、四旬節の大切な修行、捧げものとして過ごしてほしい。
 ・・・「それでも(・ ・ ・ ・)、神さまは私を、永遠に愛してくださっている」
 そう分かった時こそ、「ああ、もうこれ以上、何も必要なものなんてないんだ」っていう真の安心、満足がある。そんな気持ちになれたときにこそ、「ああ、もうたばこ(・ ・ ・)なんていらないや」っていう思いすら出てくるんですよ、逆にね。
 まずは、「この私は、な~んにも足りないものがない」っていう「安心」にね、気づかないと。

 イエスさまが荒れ野で誘惑を受けますけれど(※4)、この「誘惑」っていうのは、ひとつにはそういうことなんですよ。「あなたは、まだ足りない者だから、もっとこうすると幸せになるよ」と、「あなたは不完全(・ ・ ・)だから、こういうふうにがんばれば(・ ・ ・ ・ ・)、完全になって救われていくよ」みたいな。・・・そういう誘惑です。いずれも、神の愛に包まれている満足から目をくらませようとする。
 今日の箇所では読まれてませんけど、マタイとルカでは、悪霊が三つの誘惑をする話が出てきますでしょ(※5)。空腹の時に「この石をパンに変えたらどうだ」とか、山の上から繁栄している国々を見せて、「これをぜんぶあげよう。私を拝むなら」とか、そういう誘惑をしてくる。
 これ、悪魔は何をしているかっていうと、「あなたは空腹だろ? 足りなくて不幸だろ? もっといろいろ欲しいだろ? さあ、がんばって自らを満足させようじゃないか」と。
 イエスは何て答えたか。
 「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)
 つまり、イエスはすでに、「神の口から出る一つ一つの言葉」で生きてるわけですから。「お前を愛してるよ」っていう神の言葉で生きてるわけだから、パンがなくったって、ある意味満腹してるんです。今日の箇所の直前の、イエスの洗礼のシーンで読みましたよね、先日(※6)。神が天から言ったじゃないですか。
 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1:11)
 翻訳すれば、「ああ、かわいいね~、いい子だね~^^」っていう、神からの究極の愛の言葉が天から注がれたって、そういう話、しましたでしょ? イエスは、ああいう神の言葉で満たされてるから、他に何もいらないんですよ。・・・もうすでに、満たされてるんです。
 「さあ、空腹だろう?」
 「さあ、足りないだろう?」
 「不幸だなあ、お前は。こうすれば幸せになれるぞ」
 「ほら、この権力、この繁栄、この世のすべてをごらん。お前はそれを持ってないだろう?」
 サタンはそう言う。
 するとイエスは答える。
 「『ただ神にのみ仕えよ』と、そう聖書に書いてある。(なぜなら、神こそがすべてだから)」(cf.マタイ4:10、ルカ4:8)
 ・・・イエスはもうすでに豊かなんです。満たされている。だから、悪魔が山の上に連れてって、「さあ、これをごらん。欲しいだろう?」って言っても、イエスは、「はい? 何言ってんの?」と。「こんなもの、滅びるものでしょ。別に、いらないんですけど。わたし、神に満たされて、十分幸せなんですが」と、そうお答えになる。
 結局、誘惑っていうのは、「あなたはダメだ」っていう話なんです。「あなたは不幸だ」っていう話なんです。「あなたは汚れている」「あなたはふさわしくない」「あなたは足りない存在だ」っていう、これが誘惑なんです。その誘惑に負けて、人は「神ならざるもの」を必死に求めるようになる。
 ・・・思い当たること、いっぱいあるでしょ?
 四旬節は、この誘惑に打ち勝つとき。「自分は神さまに愛されてるんだ」という安心で満たされて、余計なものが欲しくなくなるとき。

 だから、四旬節の間、入門講座では、「この40日間、なるべくテレビコマーシャルを見るな」って勧めてます。
 だって、テレビコマーシャルって、「おまえは損してるぞ、足りないぞ、不幸だぞ」「これを買えば得するぞ、満足できるぞ、幸せになるぞ」って吹き込んでくる誘惑だから。ためしに、そういう視点で見てくださいよ。どのコマーシャルもぜんぶ、「あなたはまだ足りないよ」って言ってますから。・・・ホントですよ。
 それを何度も何度も聞かされていると、だんだん、だんだん、不幸になってくんです。そして、それを買えば、そこに行けば、それを食べれば、私は幸せになれるって、もう、洗脳されちゃうんですよね。で、みんな(おど)らされて。・・・でも、そんなものは、うたかたの夢ですよね。・・・ず~っと聞かされて、もう洗脳されてるんですよ、みんな。知らず知らずに。
 かく言う私だって、コマーシャル、いっつも見せられてるうちに、洗脳されてますもん。怖いですよ、自分がいつか、「ドモホルンリンクル(※7)」に電話しちゃうんじゃないかって。(笑) あれ、だって、たぶん、300回か500回くらい見てるんじゃないですか?(笑) 30秒でも100回見たら3000秒ですもんね。全然関係ないと思っていても、何時間も、「そんなしわ(・ ・)があったら、(笑)不幸だぞ」って吹き込まれると・・・。でも、そんなのうそですよね。絶対にうそです。
 むしろ、「不幸だぞ」って洗脳されたから、不幸になるんです。
 「私は神さまに満たされてるんだ」って思ったら、そんなもんいらないはず・・・まあ、いいですよ、ちょっとくらい塗ったって貼ったって、別にかまわないんですけど、(笑) それって、きりがないってことだけは知っておかなくっちゃ。神に満たされてる安心、喜びっていうのがなかったら、「お試しセット」じゃ満足できなくなる。(笑) そうして私たちは、常に「足りない自分」を呪い、「いつ幸せになれるんだろう・・・」って不安に思いながら、不満を抱えて生きてくことになる。
 洗礼志願者の皆さんは、40日間、コマーシャル、消してください。いちいち消すのが大変だったら、コマーシャルが始まったら耳を覆って目をつぶって、「あ~あ~」って声出して、(笑)そして、「サタンよ退け、私は神の言葉で生きる!」って唱えて。
 もちろん、コマーシャルに象徴される、現代社会そのもの、人間の欲望、その本質にかかわる話ですけど・・・コマーシャル見るたんびに思い出してくださいよ、
 「私は『お前を愛してるよ』っていう、神の言葉で生きているんだ」って。

 カトリック新聞に、パパさまが、5本の指を開いて見せている写真が載ってましたでしょ(※8)。今週のカトリック新聞。あれ、いい写真ですね。パパさまが5本の指を開いて、手のひらを見せて、みんなに説教しているんです。報道によると、こんなような説教です。
 「私は5人きょうだいでした。母はよく、こうして5本の指を出して、私たちに教えてくれた。『あなたたちは5人とも、お母さんの指なのよ。さあ、お母さんは、どの指がお気に入りかしら。もちろん、全部お気に入り。どの指も、みんなお母さんの指。それぞれ違う指だけど、ちゃんとつながってるの。だから、1本ぶつけたら、ぜんぶが痛い。どの指をぶつけても、お母さんも痛い。5本とも、お母さんの大切な指なのよ』」
 ・・・いい説教だねえ。もう、こんなお母さんに育てられたら、教皇にもなるわと、(笑)思う。
 私、その写真を見て、ふと思ったんですけど、よく見ると薬指に教皇の指輪がはまってるんですね。なるほど、5本のうちの1本は教皇になって、ちゃんと教皇の指輪がはまってるよって、感心しちゃいました。しかも、教皇フランシスコって、5人きょうだいの4番目なんですね。まさに4番目の指に指輪が入ってるよ、と。
 お母さんの大事な、5本の指。
 でも、じゃあその教皇の指輪が入った指が一番大事かっていえば、そんなことないですよね。お母さんにしてみたら、ぜんぶ大切な指。・・・つながってるんですよ。
 いったい、この世のどこに、自分の指を切り捨てる親がいるか。・・・ありえない。
 指先のささくれ一つだって、お母さんは、すごく痛い。だから、必ず何とかしてくれる。どの指も決してお母さんと離れないし、どの指も、お母さんは自分のことのように愛している。
 私たちが不安になってしまうのは、自分がその指の1本だっていう事実に、気づいていないだけ。

 26名の洗礼志願式の皆さん、あなたたちは26本の指です。
 今日、神さまが特別に、その指に洗礼志願者の油を塗って、復活祭の洗礼式へと導いてくれます。安心して、信頼して、大船に乗った気持ちで、この洗礼志願式に臨んでいただきたい。
 それでは、洗礼を志願した方々のお名前をお呼びします。


【 参照 】(ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがありますので、ご了承ください)

※1:「洗礼志願式」
 洗礼を望む人が、教えを学ぶ求道者の段階から、正式に洗礼を受ける意思を表明し、そのものとして教会に迎え入れられる儀式のこと。この儀式を経ると、求道者は「洗礼志願者」と呼ばれる。
 古来教会では、「恩恵に照らされた者」「資格ある者」「選ばれた者」などと呼ばれた。
 元来、四旬節が洗礼志願者の受洗準備期間として形成されたことから、洗礼志願式は四旬節の初めに行われるのが本来とされる。
 四旬節の間は、ミサの典礼と結ばれて、志願者への力づけ、清め、照らしを願う祈りが行われる。
*******
(備考)
 成人が初めてカトリック教会を訪れ、キリスト者になるまでの歩みは、三つの儀式(段階)と、四つの養成期間に分けて説明することができる。これらの段階や、養成期間は、神の恵みに応えるようとする人間側の順応性に配慮して設けられたものといわれている。
1.四つの養成期間 
 ①「求道期前」(福音の告知) ②「求道期」(入信準備期) ③「洗礼準備期」 ④入信直後の期間
2.三つの儀式 
 ①「入門式」 ②「洗礼志願式」 ③「入信の秘跡(洗礼、堅信、聖体)の祭儀」
==(流れ)==
 ①「求道期前」(福音の告知)→ ②入門式
求道者となる)=「求道期」= → ③洗礼志願式洗礼志願者となる)=「洗礼準備期」= → ④入信の秘跡の祭儀キリスト者となる)→ ⑤入信直後の期間
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 詳しくは以下の(参考)などをご覧ください。
(参考)
・ 『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2008 )
・ 『成人のキリスト教入信式』(カトリック中央協議会、1976)
・ 『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会、2002)
・ 「入信のプロセスとは」(カトリック京都司教区
・ 「だれが洗礼を受けることができるか」(「カテキズムを読もう」ラウダーテ) ほか
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※2:「洗礼志願動機書」
 カトリック多摩教会で、洗礼を希望する方は、原則として、待降節第1主日から四旬節の始まる2週間前までに、「洗礼志願書」と「洗礼志願動機書」を提出し、主任司祭との面談を申し込むことになっている。
(参考)
洗礼シーズン到来」 晴佐久神父(『多摩カトリックニューズ』2013年1月号 主任司祭巻頭言)
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※3:「ノアの箱舟の箇所が読まれましたけれども」
本日、2015年2月22日〈四旬節第1主日〉の第1朗読で読まれた。
 創世記9章8~15節
  〈小見出し:「祝福と契約」9章1~29節からの抜粋〉
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※4:「イエスさまが荒れ野で誘惑を受けますけれど」
本日、2015年2月22日〈四旬節第1主日〉の福音朗読で読まれた。
 マルコによる福音書1章12~15節
  〈小見出し:「誘惑を受ける」「ガリラヤで伝道を始める」〉
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※5:「マタイとルカでは、悪霊が三つの誘惑をする話が出てきますでしょ」
 「マタイによる福音書」4章1~11節
 「ルカによる福音書」 4章1~13節
  〈小見出し:双方とも、「誘惑を受ける」〉
*******
 「誘惑する者」(マタイ)、「悪魔」(ルカ)、「サタン」(マルコ)がやって来て、荒れ野のイエスを誘惑する。
 誘惑の「三つ」とは、以下のとおり。(おもに「ルカによる福音書」の表記に従う)
 ① 悪魔は40日間断食して空腹のイエスに言う。
 悪魔 :「神の子なら、この石が
パンになるように命じたらどうだ」
 イエス:「『人は
パンだけで生きるものではない。(神の口から出る一つ一つの言葉で生きる)』と書いてある」
===
 ② 悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せる。
 悪魔 :「この国々の一切の
権力繁栄を与えよう。(中略)もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」
 イエス:「『あなたの
神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」
===
 ③ 悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせる。
 悪魔 :「神の子なら、ここから
飛び降りたらどうだ(以下略)」
 イエス:「『あなたの神である主を
試してはならない』と言われている」
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※6:「今日の箇所の直前の、イエスの洗礼のシーンで読みましたよね、先日」
以下の説教の、特に説教後半、下から3段落目を中心にお読みください。
 ・ 「かわいいね~、いい子だね~」(「福音の村」2015/1/11説教)
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※7:「ドモホルンリンクル」
 株式会社再春館製薬所が製造、販売する基礎化粧品、および医薬部外品の商品名。
 テレビCMを中心に、新聞や雑誌での通信販売に特化しており、店舗販売は行っていない。
 CMで流れる「♪0120-444-444♪」のサウンドロゴも有名。
(参考)
・ 「再春館製薬所」(ウィキペディア)
・ 「ドモホルンリンクル」(公式ホームページ)
・ 「ドモホルンリンクル CM紹介」(公式ホームページ)
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※8:「カトリック新聞に、パパさまが、5本の指を開いて見せている写真が載ってましたでしょ」
 「カトリック新聞」 2015年2月22日(日)第4279号 1面
 教皇フランシスコは、2015年2月11日のバチカンの水曜一般謁見で、家庭における子どもたちの役割について語られた。
 「5本の指を出している写真」は、CNSのカメラマンによるもので、以下のサイトに同じ写真が掲載されている。
  >>> 画像 (引用元の記事は「2.17.2015(Catholic) Diocese of Arlington」)
(参考)
・ 「水曜一般謁見: 教皇フランシスコ『子供は神からの恵み、両親の愛の結晶』」(バチカン放送局
・ 「カトリック新聞オンライン」(該当記事(「子どもは希望のしるし」2015年2月18日)は「国際ニュース」欄からご覧ください)
・ 「Like the fingers of a hand」(NEWS.VA-Official Vatican Network
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2015年2月22日 (日) 録音/2015年2月 28日掲載
Copyright(C) 晴佐久昌英