仲間になろうぜ

【カトリック上野教会】

2017年12月3日待降節第1主日
・ 第1朗読:イザヤの預言(イザヤ63・16b-17、19b、64・2b-7)
・ 第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント1・3-9)
・ 福音朗読:マルコによる福音(マルコ13・33-37)

【晴佐久神父様 説教】

 皆さま、あけましておめでとうございます。(笑)
 ・・・っていう日なんですよ、今日(※1)。キリスト教の(こよみ)では、今日から「新年」。まあ、お正月がもうすぐ来るから、カトリック信者は一年に二度、新年を祝える。お得じゃないですか。中国センターなんかは春節も加えて三度お祝いしてますからね(※2)。(笑) まあ、何度お祝いしたっていいでしょう。心を新たにするときですから。
 お正月は、初心に帰るっていうか、原点に返る恵みのときですけど、われわれ教会の新年も、そうあるべき。・・・原点に返る。一番の基本に戻る。この一年の間に、いろいろとブレたり、余計なものがくっついたり、いつの間にか背負い込んだりしている、そういうものを、ちょうど年末の大掃除みたいにぜんぶきれいにして、原点に返る。

 そんなときに、今日のこの個所が読まれるんですね。(※3)
 「目を覚ましていなさい」 (マルコ13:33,35,37)
 何に目を覚ますかっていうと、本来のなすべきことに、目を覚ます。本来の自分、本来の私たち、本来の人類、そういう本来のあり方に、立ち返る。それが、この「目を覚ましていなさい」ってことです。
 イエスさまのたとえの、「家を(あと)に旅に出る人」 (マルコ13:34) って、これ、神さまのことでしょうし、「(しもべ)たち」 (マルコ13:34) って、私たちのことでしょう。つまり、神さまは、私たちに、なすべき役割、仕事、使命を与えて、「あとは任せたぞ」って旅に出た。われわれ人類は、そのような存在だって言ってるんですね。神さまが一人ひとりに、また、人類全体に、「こうするんだよ。これが一番大事だよ」って、役割を与えて、あとは、「おまえたちを信じてるぞ」「任せたぞ」って。
 この地球っていう恵みの場とか、人類の歴史とか、われわれの今ある世界、そういうものはみんな、神さまのそのような、「こう生きるんだよ」という「神のみ心」「使命」を果たす場なんですね。私たちは与えられたその使命から離れるわけにいかないのに、一年中忘れちゃっているから、せめて「お正月」には目を覚まして、その原点に返ろうっていうことなんです。
 じゃあ、その「原点」である使命とは何かといえば、そりゃあもう、愛し合うってことだし、お互いに生きる喜びを分かち合って、神さまに感謝と賛美を捧げると、まあ、それ以外にない。言うまでもないことですね。
 ただ、問題は、それを一人でやるのは不可能だってことなんです。
 つまり、「愛し合う」っていう原点の使命を、私たちは、一つの仲間として、チームとして、家族としてやらない限り、誰にもできない。愛し合うこと、一致すること、共に助け合うこと。それって、一人でがんばってやることじゃない。そもそも愛し合うって、一人じゃできないでしょ? みんなでやらなきゃ。仲間をつくらなきゃ。弟子たちの集いみたいに。そういう「原点に戻りましょう」「仲間づくりという原点に目覚めていましょう」っていう呼び掛けじゃないでしょうか。
 さて、仲間づくりといっても、これ、簡単なことのようで難しい。でも、難しいことのようで簡単。コツがあるんです。
 平等になればいいんです。
 私たちだれもが、ホントに信頼し合える家族、愛し合える仲間を必要としてるのに、なかなかそれを実現できない。なぜだかわかります? 対等じゃないから家族になれないんです。平等じゃないから仲間になれないんです。だからそこを、難しいけど、目指せばいい。
 で、これ、実は、やってみれば、すごく簡単なことでもある。「あっ、そっか、平等になればいいんだ」と気づいて、まずは新年の今日、やりましょう。お正月から不平等な家なんて、さみしいですもんね。たとえば、けんかひとつにしても、自分の方が上だと思ってるから起こるわけですから、原因は対等じゃないってとこにある。今日くらいは、いつもはけんかしてるお嫁さんと姑さんも対等になって、ニコニコする。まずはそこから出発です。
 この似た個所でね、マタイだったと思うけど、仕事を割り当てられた(しもべ)たちが、主人がいなくなったら、仲間たちを殴りつけたり、好きに飲み食いしてるなら、主人は帰って来て怒るぞって、イエスさまはそんなふうにも、たとえてる(※4)。その意味は、仲間は平等でなければならないのに、上下関係ができたり、支配したり、仲良しだけで勝手に食べたりする、その不平等が問題なんだってことでしょう。目覚めるべきは、仲間たちをね、ホントに平等に大切にして、主人から預かった恵みは分かち合って、みんな一緒に席について平等に頂くこと、そこでしょう。
 「仲間たち」「対等」「平等」、それこそが、人間にとって一番大切なこと。

 昨日教会に泊まった一人の学生が、今朝、司祭館の食堂でテレビ見てましたけど、再放送で『ドラゴンボール』(※5)やってました。大ヒットアニメですけど、あれも「仲間たち」の話ですね。仲間たちで協力し合って、敵を倒していく。次々と敵が現れるんだけれども、仲間たちが協力し合うことで打ち勝って、次のステージに進んでいく。みんな、こういう「仲間もの」、大好きですよね。
 さっきチラッと見てたら、私はストーリーはよく知らないんだけど、登場人物が、「自分たちは去っていくけど、私たちの愛は、みんなの中にいつまでも生きてるからね」なんて言ってるわけですよ。グッとくるセリフですけど、「私たちの愛は、みんなの中にいつまでも生きてる」なんてもう、まるっきりキリスト教じゃないですか。はやっているアニメとか、漫画とかって、ちゃんと人間の本質をついてるし、ある意味とってもキリスト教的ですよ。だからヒットする。『ONE PIECE』(ワンピース)(※6)なんかだって、「仲間もの」ですよね。主人公が追い詰められて、すべてを失って、もう、壊れる寸前までいって、「自分はすべてを失ったけれど、最後に残っているものがある。それは仲間だ」っていう、そういう話でしょ?
 どうしてこんなに仲間たちの話がヒットして、若い子はもちろん、結構な大人たちまで、みんな夢中になって見ているかわかりますか? 言うまでもなく、仲間がいないからです。仲間こそが人が生きる上で絶対に必要なのに、現実には仲間がいない。いないから、代わりに、ファンタジーの世界で仲間を求め、アニメとか漫画とか、作り物の世界だけれども、その中の仲間の物語に自己を投影して、ちょっと安心するというか、そこに逃避するというか、仲間の素晴らしさを求める心がつかの間満たされるというか・・・。でも、番組が終われば、どこにも仲間がいない。コミック本を閉じたら、もうそこには仲間はいない。だからまた開く。・・・そういうことじゃないですか?
 別に、アニメやコミックを揶揄(やゆ)するつもりはありません。現実生活に疲れて、つかの間、それでホッとしたり、ワクワクしたり、時には生きる希望や元気を取り戻したりするっていうこともあるでしょう。でも、それで現実の仲間を求める気がそがれちゃうなら、大問題です。みんながそれぞれの部屋でバラバラにアニメを見るんじゃなくって、集まって一緒に、「現実の仲間」っていうものをやっていきましょうって言いたいんですよ。キリスト教って、そういうもんでしょ。
 イエス・キリストなんて、メチャメチャ仲間物語じゃないですか。弟子たちが、イエスさまを囲んでね、「新しい世界を始めよう!」って、ワクワクしながら野や山を越えていくわけでしょ。純粋に仲間の物語として読んでも、聖書って楽しいし、実際に、すごく楽しかったと思いますよ。みんなで協力し合いながら困難を乗り越えていく。ペトロなんか、最後、イエスさまが殺されそうになったとき、「私はどこへでも一緒に参ります! 死も覚悟いたします!」なんて言ったじゃないですか(※7)。まんま、任侠(にんきょう)ものでしょ。「血縁を超えた大きな家族」っていう仲間物語なんですよ。もっとも、ペトロは裏切っちゃうわけですけどね。でも、ペトロが裏切っちゃったら、親分が、「そんなおまえたちを、俺はゆるす!」「そんなおまえたちを、俺が守る!」と。そうして、親分が命を捨てて弟子たちを守ったと、そういう話ですからねえ。かっこいいじゃないですか。ワクワクするじゃないですか。
 なんとなく、二千年前のヤンキー物語というか、へたすると、「組」の話みたいでしょ、ヤクザの。もちろん、反社会的なことはしてませんけど。って言っても、当時のファリサイ派や律法学者からしたら、非常に反社会的なグループだったわけですけどね。決まりきった掟を弱いものに押し付けるとか、仲間を犠牲にして自分だけが得してるとか、既得権益を持ってる者だけがいい思いをして貧しい人たちが苦しんでるとか、そんな不平等な現実の中で、イエスさまが堂々と先頭に立って、「みんな平等だ! みんな俺の仲間だ! 俺は仲間たちを守る! 苦しんでいる仲間たちを救う!」って啖呵(たんか)を切る、そんな話ですからね。
 キリスト教をちゃんとやれば、『ドラゴンボール』や『ONE PIECE』なんか、及びもつかないほどリアルな「仲間たち」っていうことをやってけるんです。若い人たちは、それを求めてますし、それがないがゆえに苦しんでますから、それさえあれば、続々、教会に来ると思いますよ。当たり前のことです。イエスさまのもとに続々と若い者たちが集まってきたっていうのは、そういうことでしょ。

 3週間前、ここで説教をしたときに、確か「秋葉原家族をつくる」みたいな話をしましたでしょ(※8)。おととい、浅草教会で、その第1回のミーティングをやりましたよ。仕事早いね、晴佐久神父さん。(笑) 昨日なんか、それで私、午前中、秋葉原の街をず~っとリサーチして回ったんだから。ぼくはあんまりコミックとかアニメとか知らないんで、今の秋葉原の生態をサファリみたいに観察して回って、いろいろ見たり、のぞいたりして、なるほど、こういうことになってるんだ~!って、実に面白かった。
 で、素朴な感想ですけど、秋葉原に集まっている人たちって、基本的にみんな、さみしがり屋ですよね。みんな、さみしいんですよ、きっと。だから、集まって来て、ときめきを共有したり、同じ物語を分かり合えているような気持になったりする。物語の中には幻想の仲間たちもいるし、つかの間、「自分は一人じゃないんだ」「何か意味ある世界を共有してるんだ」みたいに感じられれば、まあいいかって。
 それはひととき楽しかったりもするんだけど、ああいうバーチャルな世界でその辺のモチベーションを消費しちゃったら、リアルな世界で対等な仲間たちを求めるモチベーションとか、現実の仲間たちと生きるチャンスとかが減っちゃうような気がするんですよ。・・・もったいないです。アニメも漫画も面白いし、いくらでもハマったらいいんだけど、そのぶん、リアルな世界で仲間たちをつくるモチベーションが減っちゃうとしたら、もったいない。私は、その幻想の仲間を、リアルな仲間にしようよって言いたいし、リアルな仲間たちは、もっと楽しくって、もっと感動的だってことを知ってもらいたい。
 おとといのその集まりは、その意味で、手ごたえがありましたよ。面白い人たちがリアルに集まったからね。その集まりに誘ったひとりの高校生がいて、本人は漫画マニアってこともあって、ぜひ参加したいって言ってたんだけど、ちょうど喫煙がバレて、自宅謹慎になっちゃったんですね。その高校生、自宅謹慎だっていうのに、晴佐久神父の教会に行くって言い張って、親と大げんかしたっていうんです。もちろん、自宅謹慎中に、ふらふら出掛けてきたら退学になっちゃいますから、そいつの友人を通して、「今日は来るな」って説得したりとかで、結果的には来なかったってことがあった。
 まあ、これからも毎月やるんだから、次に来ればいいんですけど、ただ、私はね、うれしかったんです。だってね、喫煙で自宅謹慎になってる高校生が、「どーーーしても教会に行く!」って言い張って、親と大げんかしたっていう話ですからね、これ。「親と大げんかしてまで、教会に行こうとする高校生」って、これ、いい話じゃないですか。って言うか、そう言わせる、この「秋葉原家族」ってすごいって言うべきじゃないですか。
 およそキリストの教会が関心を持たない分野は、この世に一つもありません。この世には人間が生きてるんであって、その人間を一人残らず救うのが、教会なんだから。人間一人ひとりに、神さまからの呼び掛けがあるし、教会は、その呼びかけなんです。「仲間になろうぜ」っていう呼びかけなんです。それも、本物の仲間。なぐり合うような仲間じゃなく、一部が食べたり飲んだりする仲間じゃなく、ホントにみんなで分かち合い、「おまえは、俺が、命がけで守る」って言い合うような仲間。

 「仲間をつくる」っていうのは、これ、キリスト教の本質なんですよ。そういうことのために、神さまがわれわれに恵みを与えて、そして、「信じてるぞ」「任せたぞ」って言う。そもそも、この「任せたぞ」なんて、対等じゃないですか。神のわれわれへの仲間意識ですよ。単に「支配してる神」じゃなくて、「おまえは俺と平等だ」「おまえを信じるぞ」っていうような。神さまからそこまで言われてるのに、自分たちが仲間であることを忘れている状態が、今日のたとえで言う、眠りこけてる状態なんです。
 まあ、まずは周りをよく見て、家族、友人、大切な仲間たち、助けてあげるべき仲間たち、そういう仲間たちのために心を開くこと。これが、新年に、私たちが自分に言い聞かせるべき「目を覚ます」という本質です。

 司教さまも、新しく変わります。(※9)
 『教区ニュース』(※10)というのがあって、そこに、あいさつが載っております(※11)。短いあいさつですけれども、非常に重要なことを言ってます。教会の三つの使命について。前教皇ベネディクト16世が、「神は愛」っていう回勅の中ではっきりとお示しになったことです。
 第一は、「み言葉を語り伝えること、そして、その証しをすること」。つまり、人々に福音を、ちゃんと言葉で語れ、福音を、ちゃんと行いで証ししろってことですよ。
 第二は、「秘跡を祝うこと」。たとえば、こうしてミサに集まって、ふさわしい儀式をきちんとやって、人々に、神さまの愛を、「目に見えるしるし」として示せってことです。
 そして、第三が、「愛の奉仕」です。困っている人を助けます。争ってるところに平和をもたらします。自分を犠牲にしてでも、つらい思いをしている人たちに恵みを分かち合います。
 そう説明した上で、菊地司教さま、改めて「私にとって教会とは」って、その三つを繰り返してるんですね。ただ、よく読むと、それぞれに、ひとこと付け加えてるんです。
 最初の、「み言葉を宣べ伝える」には、「積極的に」を付け加え、「秘跡を祝う」には、「ふさわしい」を付け加え、「愛の奉仕」には、「徹底的に」を付け加えてるんです。以下のとおりです。
 「私にとって教会とは、積極的に福音を告げ知らせ、ふさわしい典礼のうちに祈り、徹底的に愛の奉仕に生きる『共同体』です」
 「積極的に」「徹底的に」・・・つまり、この司教は、「俺は本気だぞ」って言ってるんです。「俺はやるよ」と、「みんなも一緒にやってくれ」と、そう言ってるんです。「多様性における一致を、共同体として、みんなで一緒にやっていこう」と。
 今度の司教さん、本気ですよ。「積極的に(・ ・ ・ ・)、福音を語ろう」と、ふさわしく(・ ・ ・ ・ ・)、秘跡を祝おう」と、つまり、「ちゃんとすべての人に、愛のしるしを示して、教会を輝かせましょう」と。そして、「徹底的に(・ ・ ・ ・)、愛の奉仕をしましょう」と。(※12)
 新しい親分を囲んで、仲間たちみんなで、ちょっと本腰入れてやっていきましょう、というのが、この新年の心。

 つらい思いをしている人、たくさんおられますけれども、私たちは、この仲間たちで、そこに福音をもたらし、秘跡の喜びを与え、愛の奉仕をすることができます。一人ではできない。つらい思いをしているたくさんの人々に、私たちは、「仲間として」関わっていきます。
 「新しい年、新しい希望を持って、新たに仲間として、一緒にやっていきましょう」
 ・・・教会歴新年の、所信表明でありました。よろしくお願いいたします。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「皆さま、あけましておめでとうございます。(笑) ・・・っていう日なんですよ、今日。」
 カトリック教会には、特有の暦(「典礼暦」または「教会暦」)があり、キリストの神秘を、一年を通して思い起こしていく。
 教会の「一年」は、1月1日から12月31日の「日付」でくくられるのではなく、「待降節(※)第1主日」に始まり、「王であるキリスト」の祭日で終わる。(毎年、日付は変動する)
 この日(2017年12月3日)は「待降節第1主日」で、教会の典礼暦では、一年の始まりに当たる。
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===(もうちょっと詳しく)===
 典礼暦に則って、移動祝日(復活の主日‹イースター›をはじめ、年によって日付が動く祝日のこと)などが決まり、また、それに従って、典礼や、1年間の聖書の朗読配分、祭服の色などが決まっていく。
 「待降節第1主日」に始まる一年は、次の年の「王であるキリスト」の祭日で終わり、その翌週の日曜日の「待降節第1主日」に、また新たな一年が始まる。
 例:1年の始まり:2017年12月3日「待降節第1主日」
    → 1年の終わり:2018年11月25日「王であるキリスト」の祭日
   次の1年の始まり:2018年12月2日「待降節第1主日」
    → 1年の終わり:2019年11月24日「王であるキリスト」の祭日
===( 待降節)===
 降誕祭(クリスマス)に向かい、この世にいらしたキリストの降誕を思い起こし、また、終末のキリスト再臨への待望に心を向ける季節。
(参考)
・ 「教会暦」(ウィキペディア)
・ 「A年、B年、C年」(ラウダーテ:「キリスト教豆知識」)
・ 「2018~26年度 移動主日・祝日表 [PDF] (カトリック中央協議会)
・ 「典礼解説 待降節」(カトリック中央協議会)
・ 「待降節とクリスマス(降誕祭)とは?」(カトリック中央協議会)
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※2:「中国センターなんかは春節も加えて三度お祝いしてますからね」
 カトリック上野教会には、「中国センター」という、首都圏の中国人カトリック信者の司牧を目的とするイエズス会運営のセンターがある。ミサは毎週日曜日13時30分から(春節祝い、復活祭、聖霊降臨祭は12時から)。そこでは、春節(中国の旧暦の元旦)も祝う。
(参考)
・ 「イエズス会中国センター」(オフィシャルホームページ)
・ 「イエズス会中国センター」(イエズス会)
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※3:「そんなときに、今日のこの個所が読まれるんですね」
この日、2017年12月3日(待降節第1主日)の福音朗読箇所のこと。
 マルコによる福音(マルコによる福音書)13章33~37節
  〈小見出し:「目を覚ましていなさい」13章32~37節から抜粋〉
===(当日福音朗読個所・全文)===
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕(しもべ)たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。 (マルコ13:33~37/強調引用者)
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※4:「イエスさまはそういうふうにも、たとえてる」
参考個所は、
 マタイによる福音書 24章45~51節〈小見出し:「忠実な僕と悪い僕」〉
===(聖書参考個所/部分)===
「しかし、それが悪い僕(しもべ)で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」 (マタイ24:48~51/強調引用者)
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※5:『ドラゴンボール』
 1984年~1995年に、「週刊少年ジャンプ」に連載されていた鳥山明の漫画。テレビアニメ化もされ、世界的に有名な作品となった。ゲームのソフトも10本以上販売され、ミリオンセラーを誇るものもある。
 西遊記を下敷きにした作品として始まり、7個集めると神龍が現れ、どんな願いでも一つを叶えてくれるという秘宝、「ドラゴンボール」を探す旅をする冒険漫画。冒険、格闘、夢、友情などが描かれている。
(参考)
・ 「ドラゴンボール」(ウィキペディア)
・ 「ドラゴンボール」(ピクシブ百科事典)
・ 「ドラゴンボール 集英社公式サイト」(集英社)など
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※6:『ONE PIECE』(ワンピース)
 1997年から、「週刊少年ジャンプ」に連載が続いている尾田栄一郎の漫画。テレビアニメ、アニメ映画、小説、絵本、ゲームソフト、舞台化もされ、大人気の作品。海賊王を夢見る少年を主人公に、夢への冒険、仲間たちとの友情を中心に、壮大なドラマが繰り広げられる作品となっている。
・ 「ONE PIECE」(ウィキペディア)
・ 「ONE PIECE.com」(尾田栄一郎公認ポータブルサイト)
・ 「ONE PIECE WEB」 (ストーリー紹介サイト)など
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※7:「ペトロなんか、最後、イエスさまが殺されそうになったとき、『私はどこへでも一緒に参ります! 死も覚悟いたします!』なんて言ったじゃないですか」
===(聖書参考個所/赤字引用者)===
① マタイによる福音書(26章35節)
 
ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。
② マルコによる福音書(14章31節)
 
ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。
③ ルカによる福音書(22章33節)
 
するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
④ ヨハネによる福音書(13章37節)
 
ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。
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※8:「3週間前、ここで説教をしたときに、確か「秋葉原家族をつくる」みたいな話をしましたでしょ」
===(参考個所)===
「秋葉原福音家族」(「福音の村」2016/11/12説教、最後の段落>この辺~
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※9:「司教さまも、新しく変わります」 (既出)
 カトリック東京教区では、岡田武夫大司教の大司教引退に伴い、それまで新潟教区の司教だった、タルチシオ菊地功司教が、東京大司教として任命された。
 着座式は、2017年12月16日(土)午前11時から。
 場所は、東京カテドラル聖マリア大聖堂 Google マップ
(参考)
・ 「東京大司教任命のお知らせ2017/10/26 (カトリック東京大司教区)
・ 「菊地司教、東京教区大司教に2017/10/25 (カトリック中央協議会)
・ 「東京大司教の任命をいただきました2017/10/26(「司教の日記 毎日の活動から」:菊地功司教のブログ)
・ 「東京大司教の任命をいただきました2017/10/26(「司教の日記」:菊地功司教のフェイスブック)
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※10:「教区ニュース」
 カトリック東京教区、広報部が出している、『東京教区NEWS』。
 教区からのさまざまなお知らせが掲載されている。ペーパー版は『東京教区NEWS』というタイトルで、タブロイド版くらいの大きさ(普通の日刊新聞の約半分の大きさ)。8ページ程度。同じ内容のホームページ版もあり、「教区ニュース」(カトリック東京大司教区)のページで紹介されている。原則的に月に一度の更新。
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※11:「そこに、あいさつが載っております」
===(参考)===
「東京教区ニュース第348号」2017年12月1日 12月号
 >「新大司教よりメッセージ 愛の奉仕に生きる共同体に向かって タルチシオ 菊地 功
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※12:(参考「新大司教よりメッセージ」抜粋)
===「愛の奉仕に生きる共同体に向かって」(タルチシオ 菊地 功)より ===
 前教皇は「神は愛」の25番に、「神の言葉を告げ知らせることとあかし」、「秘跡を祝うこと」、そして「愛の奉仕を行うこと」の3つが教会の本質的務めであり、それぞれが互いを前提としていると指摘されます。
 わたしにとって教会は、
積極的に福音を告げ知らせ、ふさわしい典礼のうちに祈り、徹底的に愛の奉仕に生きる「共同体」です。
===(カトリック東京大司教区「東京教区ニュース第348号」から抜粋/強調・赤字引用者)===
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2017年12月3日(日) 録音/2018年1月5日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英