どうしても救われちゃう

2012年3月18日 四旬節第4主日
・ 第1朗読:歴代誌(歴代誌下36・14-16,19-23)
・ 第2朗読:使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ2・4-10)
・ 福音朗読:ヨハネによる福音書(ヨハネ3・16)

【晴佐久神父様 説教】

 先週の3月15日に、私、司祭叙階25周年を迎えました。
 そんな日がいつか来るんだろうか、なんて思っていたら、ホントに来ましたよ。25年間、神さまに守られ、導かれ、使われて、司祭として生きてくることができました。神に感謝、そして皆さんにも感謝ってことですね。
 銀祝記念のミサは、復活祭が明けて5月13日、10時の主日ミサで改めてお捧げすることにいたしますが、3月15日が記念の日ということで、今日は特別の思いをこめてミサを捧げますので、皆さんもどうぞお祈りください。
 この神父、おだてて励ますと役に立ちますよ。文句言ったり、くさしたりすると、ふてくされて全然力を発揮できませんので、駄目だなぁと思うところは目をつぶって、お世辞でもいいからおだてて木に登らせておくと結構役に立ちますんで、まあ、これからもどうぞよろしくと。
 その「役に立つ」という、役に立ち方の中でも、やっぱり自分なりに、ここがすごく特徴かなぁと思うのは、今日の福音書で言うならば、この「信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」という神さまの思いを徹底して強調するところじゃないかと。「一人残らず救うイエスを全面的に信じる」という点に集約されるかと。

 私、神学校に入る前から、この「一人残らず救う」という神の思いについて、すごく真剣に考えたというか、取り組んだというか・・・。神さまが「一人残らず救う」ということを、心から信じたいと思ったというか、ひたすら願い続けたというか、・・・ともかく神さまに、そのことをホントに私に示してくださいと、そう願い求めてまいりました。
 というのは、もし一人残らず救われるのでなければ、この自分は救われないと思ったから・・・であります。
 今でこそね、「私は絶対救われます」みたいな顔して話しておりますけど・・・実際、今はホントにそう信じてます。あの、悪いけど私、天国行きますよ。(笑)でも、そういう皆さんは、どう思ってるんですか? 信じてますか? 言うまでもなく、皆さんも天国に入ります。というか、もうイエスさまの救いのみわざにおいて入り始めているし、最終的には神さまが、みんな入れてくださるんです。どなたさまとも、いずれあちらでお会いしましょう、ですよ。
 けれど、神学校に入る前後は、そこを信じることができなかった。自分はホントに救われるんだろうかと、不安だった。・・・で、まあ、愛のない自分を呪ったり、弱い自分をはかなんだりしたもんです。
だから、祈って、もっと頑張ろう、もっと立派な人間になろう、もっといい子になろうってもがいたけれど、これが、なれないんですよ。こう見えて、わりとそういうところ、純粋に頑張ったりするたちなんですけど・・・なれないんですよ。ちっとも。いっつもおんなじ弱さ、おんなじわがまま、おんなじ冷たさ。ああ俺は愛がないなあ、俺は弱い人間だなあと思わされるばかり。・・・当時はそういう自分と日々、向かい合ってました。
 実際、あのころ書いていた日記なんかには、わが身の弱さとか、自分のずるさとか汚さとか、そんなことばかり書きつづられていてですねぇ、まあ、必死にきれいになりたい、立派になりたいと願いながらも、ぜんっぜんそうならない自分というものに、やっぱり、苦しんでたわけですよ。恐れてもいたわけですよ。
 そんな自分でも、神さま、使ってくださるんじゃないかって期待して、ともかくがんばれば少しは進歩するはずと思い込んで神学校に飛び込んで行ったものの、ちっとも成長しない自分にとって、最大のテーマは「一人残らず救われる」っていう、救いの普遍性だったわけです。だってですね、イエスさまが言うところの、この「一人も滅びないで」っていうところを最後の砦にして、そこにすがってないと、自分が救われないから。
 そんな日々が、懐かしいといえば、懐かしい。こんな自分が神学校にホントに入れるだろうかと思った時があり、入ってからはこんな自分がホントに神父になれるだろうかと思ったこともあり、そんな日々の中で、私の信仰のテーマは、ただただこれでした。私も救われるんだろうか、という思い。もし99人が救われて一人が滅びるんであれば、その一人は俺だろうな、という思い。
 しかし、もし100人救われるんであれば、こんな安心なことはないわけで、やがて、神学校にいる間に、ついに私はそれを信じることができました。イエスさまこそは100人全員を救う方、最後の一人をも必ず救う方だ。神はそれを望んでいるからこそ、イエスさまを送ってくださったはずだと、信じることができました。というか、もう信じる以外に何もなくなってしまいました。そのことで思い悩んで格闘して、いろんな体験もして、そして卒業前に・・・間に合いました。私は「一人残らず神が救う」ということを確信できたんですよ。確信して、司祭に叙階されました。以来25年、ず〜っと、「一人残らず救う神」というものを証しし続けてまいりました。みんなにもそう宣言しながら。

 先週届いたお手紙にもありましたよ。説教で「神は、すべての人を必ず救う」っていう宣言を聞いて、ホントに救われた、安心した、気持ちが解放されて喜びが溢れた、教えてくれて本当にありがとう、というお手紙をいただきました。今朝の入門講座でも、その手紙を読んで皆さんと分かち合いました。お手紙の方は、「それまで自分は救われないんじゃないかと恐れていた。神の救いは条件付きだと思っていた」そうです。
 しかし、真の愛には条件なんてありえないでしょう。イエスさまは真の愛であって、すべての人を救うためにこられて十字架を背負ったんであって、もう人種とか宗教とか、あるいは良い人とか悪い人とか、どれだけ理解したとかしていないとか、そういうことを、神だけがご存知の愛のわざによって超越しているんです。神は、すべての人を必ず救います。問題は、そのことを信じているかどうかなんです。「イエスを信じる」って、そのことでしょう。イエスは神の愛なんだから。
 私はそのことを、この25年間、ず〜っと皆さんに証しし続けて、多くの人に、その神の愛を、ちゃんと伝える努力をしてまいりました。積み重ねた25年、感謝いたしますと同時にですね、25年たっても最初の頃とおんなじことを言ってるわけで、今日もまた、皆さんにも、そのことはね、分かっていただきたい。あなたたちは、みんな必ず救われるんです。イエスはすべての人の救い主なんです。それを信じることが、救いなんです。
 もしここに信じない人がいるとしたらね、「そうは言っても私は駄目かもしれない」って疑う人がいたら、その疑いがあなた自身を裁いてしまってるんですよっていうことを、今、ヨハネの福音書で読んだところです。その疑い、その恐れが、すでに裁きになっちゃってますよっていうところ。
 分かっていただけますでしょうかねぇ。どれだけそう語ったり宣言したりしても、人の中には恐れの気持ちというのがあって、そうは言っても私は駄目かもとか、でも、あいつはいくらなんでも駄目なんじゃないかとか、みんないろんなこと言い出すんですよ。でも、第2朗読のパウロの言い方でいうならば、「神さまは恵みによって私たちを救う。それは私たちの行いによるのではない」のでありますから、その恵みだけは信じていただかないと。

 さっき、第1朗読の旧約聖書でね、なんか、ちょっと怖いところ読みました。「罪を重ねた民に向かって、神の怒りが燃え上がった」みたいなね。でも、あれ何が書いてあったかっていうと、まずは、神さまが「わたしを信じなさい」と言って預言者を次々送ったのに、その声に耳を傾けず、人々は自分の考えに溺れて神を信じなかったので、神は怒り、結局ユダヤは滅ぼされてバビロンの捕囚になってしまいました、ってことですね。神さまもなかなか厳しい方だっていうふうに思われるかもしれませんけど、でも、これはまだ救いの歴史の途中なんです。途中っていう意味は、しかし、やがて神はそんな民を苦しみから救ってくださった、と。結局すべての苦しみは、救いに向かうプロセスの途中なんだということです。
 そして、そのように預言者の時代には、「神さまは預言者を通して、少しずつ少しずつ、私たちにご自分の愛を語りかけて教育した。それでもなかなか人々は神の愛の本質を分かってくれない。で、そんな民の弱さとそれゆえの苦しみを全面的に救うために、イエス・キリストという決定的な救い主、神の愛のよってのみ私たちを救うという、決定的な救い主を私たちに送ってくれた」っていう話なんです。すべては、最終的な救いの日を準備するプロセスなんであって、つまり、「途中」なんですよ。この途中を「旧約時代」と呼ぶわけです。イエス・キリストと出会う前は、だれもが「旧約時代」ってことですね。
 皆さんも、「旧約時代」、あったはずです。自分の考えにとらわれたり、自分の弱さをはかなんだり、自分の罪深さを呪ってばかりの時代。神さまの愛をちゃんと教えてもらっているのにそれを聞かず、受け入れることができずにいる、この私。疑うことばかり。恐れることばかり。そんな、どんな預言者も拒否してしまうような私たちに、神さまは、これはもう拒否しようがないっていう、イエスさまを送ってくださった。だから私たちはイエスさまに出会って、この方だけは信じる、この方だけについて行く、この方に愛されたのだからもうだいじょうぶだと信じて、恐れと疑いの世界から救われたんじゃないですか。
 この最終兵器ともいうべき神さまの究極の救いをですね、拒否することはできる・・・ようでいて、実際には無理なんです。もし、ホントにイエスさまに出会っちゃったら。いろいろこう、貧しい脳ミソであれこれ考えてね、そんな完全な救いがあるものかとか、あるいは現実のいろんな弱さや恐れに巻き込まれてね、やっぱり自分は駄目かもって思ったりしながらでも、ひとたびイエスに出会っちゃったら、もう救いの道に入っちゃってるんで、大きな意味ではもうそこから逃げ出すことはできないんです。どんなに、その、神さまの救いの業から離れようとしても、もう無理です・・・「新約時代」はそういう時代なんです。

 だから皆さん、自分に信仰があるとかないとか、どう思ってもいいんですけども、皆さんに信仰があろうとなかろうと、イエスさまに出会ってるわけですから、皆さんは間違いなく救われます。出会ったのに救えないような方は救い主ではありません。そんな半端なね、せっかく生ける神の愛に出会ったのに、「人間の側で完全に拒否して、結局救われませんでした」なんていうことが起こるような救い主を神さま送ってませんから。そんな半端な救い主なんて、救い主とすら呼べない。確かに、旧約の預言者はまだちょっと半端だったから、そうは言ってもね、受け入れないでいる人たちもいたけれど、イエスさまはもう、人間には拒否しようがないんですよ。信じていないつもりでも、信じちゃってるし、その信仰によって救いは実現しているんです。
 さっきの「一人も滅びないで」っていうところに、条件節がありましたでしょ。「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るため」ってあります。その2行後にも「独り子を信じる者が一人も滅びないで」とあります。ここには、神さまは私たちを愛してイエスさまを送りました、すべての人を救うためです、イエスを信じたら救われます、ということが書いてあるわけだけど、じゃあね、信じるって何かって問題が出てくるじゃないですか。
 「信じる」とは何か。何でしょうねえ。今、一生懸命、入門講座に通っている人たちがいますけど、みんな信じたいと願って、祈って、でも「信じる」ってよく分からなかったりしてます。なんかこう、晴佐久神父さまも一生懸命話してくださるけど、分かったような、分かんないようなところもある。それでいいんです。100パーセント分かるなんていうことあり得ない。あり得るはずがない。なぜなら話している方も分かってないから。(笑)・・・そんなようなもんですよ。そんなようなもんでいい。信じたいと思ってれば、それで十分。
 イエス・キリストっていう方が来られて、確かに来られて、そのしるし(・ ・ ・)として、教会もあります、聖書もあります、ミサもあります、キリスト者もいます、救いの業が現実に起こっています、それらすべてにおいて、ホントに素晴らしいかたちでイエスさまが現れています、それに触れて、ああ、これは神さまから遣わされた方だ、ここに必ず救いがあるはずだ、この方を信じよう、この方の言葉を信じたい・・・って、ちらりとでも思ったら、もう信じることになってると思いますよ、私は。だって、ここまでが信じるっていうことで、ここからはもう信じてることにはならないなんていう線、引きようがないじゃないですか。学校の試験だったら、60点以下は落第とか、きっちり線引けるけど、神の救いのみ業に、一本の線なんか引きようがないでしょ。

 小さな子どもが教会の幼稚園で「イエスさまを信じます♪」って言ってるのは、「それは子どもだから言わせられて言ってるんだ」、「こんな信仰じゃ地獄行きだ」って言いますか? ちゃんと聖書を勉強して、使徒信条を告白して、教会の掟を守って献金も怠らないと、信じてることになりませんって、だれが断言できますか? 「イエスさまを信じます」って、たったひと言。むしろ、われわれがごちゃごちゃ言ってるのよりも、天国に近いような感じがありますよねえ。もちろん、言わせられて言ってるんですよ、「イエスさまを信じます」。でも、もうそこに、ホントに神さまの救いのわざが始まっているし、そこに救いの現実がちゃんと実現しているんだから、それ以上のものは必要ありませんよっていうくらい、純粋な信仰。非常に素朴な信仰。たったひと言でいい信仰。私はそれで救われると、そう信じます。そうじゃなかったら、誰も救われないんじゃないの?
 皆さん、ミサで信仰宣言しますでしょ? 今日もこの後しますよ。「主イエス・キリストを信じます」って口にするじゃないですか。あれひと言言ったらもう、それで私たちのうちに救いは実現してると。まさにそのような純粋な信仰、持ってください。そのためにイエスさまは十字架背負って、すべての人の罪を滅ぼして、どんな小さな子どもでも、どんな悪党でも、「イエスさま、信じます」っていう気持ちをちらりとでも持てば救われるんだっていう道を開いてくれた。その意味では、と〜ってもハードルが低いんですよ。非常に甘い。誰でも必ず救われざるを得ないようなしくみ。私たちは、どうしても救われちゃうんです。そんな救いの道を、神さまはイエスさまのうちに、教会において、お始めになった。その教会がね、ハードルを高くしちゃったら、もう教会でなくなっちゃうわけでしょ。
 どうかどうか、神さまの救いを信じていただきたい。私には信仰がないなんて、心配しないでいただきたい。ありますよ。もう、言わせられて、ひと言口にするだけでもいい。
 だいたい、さっきパウロが、「恵みによって救われる」って言うときに、「恵みによって、信仰によって」ってこう言ってますでしょ。これ、別のことじゃないから並べてるんですよ。「恵みによって」と「信仰によって」って、同じこと。一見、「恵み」は神さまからくるもの、「信仰」は私たちが捧げるもので、フィフティ・フィフティみたいに思えますけど、恵みのうちに信仰が育てられるんだから、考えてみたら100パーセント神の恵みのうちに、われわれは生かされて、そんな中で「信仰」というものすら芽生えさせてもらって、言わせられて言う子どものように、「イエスさまを信じます」って言ってるのが、われわれの信仰であり、それ以外のことを「行いによって」って言うんです。

 洗礼式を準備している前列の皆さんだって、それじゃあ今、ここで自分の信仰を語ってくださいって言ったら、何話しますか? じゃあ今、この説教に代わって、ここに立って信仰を証ししてくださいって言ったら、どんな話しますか? 何も言えないでしょう? もし、何か言えるとしたら、おそらくは何も語るべき言葉が見つからずに、「ごめんなさい、私は何にも分かってません。何も準備できていません。けれども、神さまがきっとこんな私にも洗礼授けてくださると信じます。こんな私を救ってくださると信じます」とか言うしかないんじゃないですか? で、それを信仰って言うんです。
 どうぞ皆さん、罪深いまま、洗礼受けてください。迷ったまま、弱いまま、恐れたまま、「主イエスを信じます」と宣言してください。そこにもう信仰が始まってますし、私は、それで十分神さまのみ業に(あずか)れると、そう申し上げたい。それくらいハードル低くして、「あなたも必ず」って言わないと、少なくともこの私は、決して救われない。
 考えてみたら、一生懸命神学を勉強して、神父にまでなって、25年間必死に「みんな救われるんだ、みんな救われるんだ」って言い続けてきたのは、この自分が救われるためだったって、振り返ればそうも思います。でも神さまは、そんな弱い私において(・ ・ ・)多くの人たちを救うという、そんなスペシャルな恵みを与えてくださいました。その意味では、自分の弱さにすら感謝、です。もう後は、主イエスにつながっているしか、つかまっているしか、引き上げてもらうしかないと思っている、そんな弱さに・・・感謝・・・とすら思う。
 これからの新しい25年を、神がお望みなら生きていくことができます。どうか、弱い司祭のためにお祈りください。ご縁があれば、金祝の時もご一緒に(笑)。

 あの〜、ちなみに、明日、私のかわいい、かわいいわが子が、助祭叙階するんですよ。故郷を出て上京し、私のいた教会に現れた時は、神学校に入るなんて夢にも思わなかった青年ですけど、教会でイエスに出会い、福音に出会い、こんな自分でも救われると信じ、神学校に入り、こんな自分を通して神が働くと信じて7年間、ついに助祭叙階です。明日の助祭叙階式に、私は参列します。どうぞ彼のためにもお祈りください。彼もまた、神がお望みなら、25年でも、50年でも、「一人残らず神は救う」と、「だからあなたも救われる」と、宣言していくことでしょう。

2012年3月17日 (土)録音/3月22日掲載
Copyright(C) 晴佐久昌英