負けるものか

2012年5月13日復活節第6主日
・第1朗読:使徒たちの宣教(使徒10・25-26、34-35、44-48)
・第2朗読:使徒ヨハネの手紙(一ヨハネ4・7-10)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ15・9-17)

【晴佐久神父様 説教】

 こうして「司祭叙階25周年」の記念ミサを捧げることができるっていうのは、本当に信じられないような出来事なんです。・・・皆さんは25年って、どんな数字に感じられるかそれぞれでしょうけども、私にとっては、司祭として25年っていうのは、ある意味「ありえない」っていうのが、実感です。
 そもそも、神学校に入れるわけがない・・・ホントにそう思っていたし、まして神父になれるはずもない、自分なんか絶対無理って思っていたし、何かの間違いで神父になったとしても、ちゃんとやっていけるはずもなく、そんな、25年なんて夢のまた夢。謙遜でも何でもなく、自分については自信ないというか、ホントにそう思っていた。
 でも、神の恵みによって叙階できたし、泣いたり笑ったり、人とぶつかったり乗り越えたり、必死に祈ったり感謝したりなどなどを繰り返して、気がつくと25年。いや〜、「神はホントにおられるな」という以外に言葉はありません。どう考えてもこんな自分の内には、自らが司祭である根拠は何ひとつないわけで、ただただ、すべては神さまがなさっておられることなんだ、と言うしかない。
 神父になるとやっぱり目立ちますから、いろんな人から慕われたり煙たがられたり、いろいろあるわけですけれども、いずれにしても、すべては神のわざだ、この私が「私」として働いてるんじゃなく「神さまが」働いているんだっていう実感は、司祭として一番大切な実感なんだろうとも思います。

 神父になるとですね、よく頼まれるんです・・・私「3点セット」って呼んでるんですけど、「一緒に写真撮らせてください」と、「サインお願いします」と、「握手していいですか」っていう3点セットをあちこちで頼まれて、正直言ってあまりそういうの得意じゃないんで、「え〜・・・」とか言いながら硬い笑顔で写真に写ったり、汗ばんだ手で握手したり・・・。でも、それは確かに苦手ではあるんだけど、同時にですね、それが仕事というか、そういう奉仕だとも思うんですよね。つまり、司祭は神さまが働いておられることの「シンボル」をやってるわけですよ。だから、皆さんがそういうシンボルを大切にしたいって思うのは、人として当然のことだし、そこは司祭として奉仕しないと。
 ですから、実は私と写真を撮ってるんじゃない。イエスさまと写真を撮ってるんです。実は私のサインじゃなくて、イエスさまと出会ったしるしなんです。私と握手したんじゃない。神さまの愛に直接触れたんです。きっとそういうことなんだ・・・司祭たる者、そういう者でなければならないな、と、そんな思いで今日、この25周年のミサを捧げております。
 教会委員さんたちからご親切に、「ぜひ25周年の記念のミサをやりましょう、お祝いの会もやりましょう」って言われて、「いや〜、いいですよ、そんなの」って言うこともできたんですけど、そういうことも実は、私がいいですよと言ったり、断ったりするようなことじゃないんでしょうね。教会のことなんです。シンボルなんだから、私が断ったり、私がやろうと言ったりするようなことでもない。神が25年間働いてくださり、大きな実りを見せてくださったことに、みんなで感謝するってことですから。

 神さまが25年間、ちゃんと働いてくださって、私は今日ここに立っている。でも、これって、当たり前のことじゃない。これは、神が私を選んでくださった、選び続けてくださったという恩寵(おんちょう)の、目に見えるしるしなんです。今日の福音書のイエスさまの言葉に、「わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)っていうのがありますでしょ。「あなたがたが選んだんじゃない。わたしが選んだ」。・・・もう、これだけが根拠です。司祭としての支えだし、そして洗礼を受けた皆さんの支えでもあるはずですよ。
 「自分で選んだんじゃない。神が選んだんだ」
 「自分の望みじゃない。神の望みなんだ」
 ・・・これはでも・・・すごいでしょ。自分の望みだったら、それはまあ、ちょっと汚れた望みでもあったりするじゃないですか。自分の選択だったら、人間の選択ですから、間違えた選択だったりするじゃないですか。でも、神の望みなら、神が選んだことなら、これは絶対だから、間違いがない。負けがないんです。誰かに「それは違う」と言われても、「だって神さまに選ばれたんだもんね〜」って言ってれば、それで済むわけですよ。これは強い。ただし、それは「信じれば」ですよ、信じれば。
 私はそれを信じて、25年やってきました。それだけを頼りに。たぶん、それだけ頼りにする人っていうのは、自分で言うのもなんですけど、神さま、使いやすいだろうと思うんですよ。他の根拠がないから、もう「神さま、あなたが選んだんだから、どうぞお使いください。私、あなたが言われたとおりに、なんとかやってきます。こんなに怠け者で、こんなにふしだらで、こんなにダメダメだけれども、神さま、あなたが選んだんだから」とか言いながら、できるかできないかに関係なく、ともかくやろうとするし、やめずに続けるし。・・・まあ、でも言わせてもらえば「どうなっても選んだあなたの責任ですよ」っていうことでもある(笑)。こういう信仰は、ある意味楽ですし安心ですし、逆境の時に非常に力になる。
 人はね、もうそれぞれですから、「お前はダメ」だとか、「向いてない」とか、「もうやめろ」とかあれこれ言うけれども、そんなのは、所詮(しょせん)は人それぞれの判断であり、それぞれの趣味みたいなもんだから、実は大したこと言ってないんですよね、人間って。感情的なことだったり、勝手な思い込みだったり、その時代、その環境の中での限界ある判断だったりするにすぎないわけじゃないですか。
 でも「神の選び」っていうのは、これはもう、この世の時間も空間も才能も弱さも全部超えて、「その現実を使って私は働く」っていう選びだから、何をするんでもですよ、「神に選ばれた」と信じてやっていれば、必ず実を結ぶんです。それ、さっきのイエスさまのお言葉ですよ。「わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけていって実を結び、その実が残るように」(ヨハネ15:16)と。
 25年間、いろいろあったけれども、まあ、こんな気質というか、個性というか、そういう者を選んで、ちゃんと実を結んでくださったことに感謝しますし、神さま、これからもどうぞご利用ください。お望みならばあと1年でもあと25年でも、どうぞお使いくださいという気持ちです。洗礼受けた皆さんも、そういう思いであるべきでしょう。

 そういえば、25年前に叙階して、あのころはああだったなとか今朝思い出していて、そうだ、神父になったときの初説教の記録がどっかにあったなと思って、探し出して読んだんですけど、愕然としたのは、「まったく」おんなじなんですよ、いつも話してることと。(笑)そりゃそうですよね、同じ人なんだから、変わるはずもない。でもあまりにも同じ。1987年の5月の何日かの記録でしたけども、あの頃、「初ミサ旅行」とか言って、新司祭が各地でミサして回るっていうのがあって、私は全国にお世話になった教会があるので、北は北海道から南は奄美大島までミサして回ったんです。それで当時の柏教会にちゃんと赴任したのが、もう5月に入った三位一体の主日だったんですね。で、その日の説教の記録が残ってるんですよ。晴佐久神父の初説教。
 いや〜、読んでて、思わず笑いました。おんっなじことなんです、言ってることが。「神さまが選んでくださった」「父である神が子であるこの私を親心で愛してくださっている」「神との深い交わりがあれば、人とも愛し合うことができる」「三位一体の主日に十字を切りましょう、『父と子と聖霊のみ名によってアーメン』と、十字をちゃんと切り、父である神にこの私が愛されていることに目覚めれば、互いに愛し合うこともできるでしょう」・・・ってどっかで聞いたような話が延々と。(笑)
 な〜んだって感じですけれど、まあ、そういう者を神さまが選んで使ってるんだから、別にそのままでいいわけです。なんかわざわざ新しい特別なことを始めたり、回心して立派になって、みんなから尊敬されたりとかじゃなくって、まずは自分の個性、自分の与えられたものを、「神の選び」として、そのまんま使ってけばいいんじゃないですか。だって、他にないんだもん。これが私。こういう性格、こういう弱さ。よく考えたら、それは神が与えたものですし、「これからも、こんなんでまたやってきますんで、よろしくね」というようなことですね。

 大勢来られても大変だから、申し訳ないけれど、あまりよそには知らせないようにして、この25周年のミサをやったんですけども、それでも遠くから来られた方が大勢おられて。私が洗礼を授けた方もたくさん来てますね。ありがとうございます。いろんなご縁でこうして皆さんに支えられて25年やってこれたことは、これはやっぱり神さまの愛の目に見えるしるしなんでしょうし、皆さんの存在そのものがまた、しるしなんです。
 この25年間一番大事にしてきた、この「こんな自分を通して神が働く」という信仰の一番美しい実りは受洗者だろうと、私は思ってるんです。25年間ミサを大切に、洗礼を大切にとずっと言い続け、奉仕してまいりましたけれども、多摩教会でも実りがいっぱいあって、この3年間で、多摩教会で洗礼を受けた方は113名おられます。ここに来た時は900人くらいの教会でしたけれども、この復活祭で1,000人を超えました。
 普通に考えたらあと3年はまだこの教会でお世話になるでしょうから、これからさらに工夫して福音宣教の心を熱く燃やして、教会家族みんなで協力して、今までの3年で113というならばこれからの3年で140くらい、大体そんな感じじゃないかな、と。そうすると6年で250と。それくらいは目に見える実りをもたらして、聖堂をもっといっぱいにしましょうね。「ああ、これじゃあもう建て直さなきゃならないね」・・・とか、そんなことは言い出しませんけれども、(笑)・・・そういうくらいに頑張りたいな、と。
 でもどうでしょう。ここに「私の名によって父に願うものは何でも与えられる」(ヨハネ15:16)って書いてある(笑)ので、何望んでもいいんだけど、私はやっぱりもっともっと、神の愛を知らない人に神の愛に目覚めてほしい。それがこの宇宙の目的なんだから。受洗者増やしましょうよ。それをみんなでやってきましょうって、ここで改めて言いたいです。

 木曜日に、今年の受洗者のひとりが、すごくうれしい報告をしてくれて。その彼女は、なんと、「教会に出会うまで本当に笑ったことがなかった」って言うんですよ。
 「自分はいつも、人に合わせて生きてきた。周りの人の目を気にして気に入られようとしたり、叱られるんじゃないかって怯えて従ったり。もっと人から愛されたいと思って変に頑張っちゃったり。ともかくいつも、私は周りの人の中にしかいなかった。私の真ん中には私っていうものがなかった。小さい頃からそうだったから、それが当たり前だと思いこんでいた。だから苦しかったし、不安だった。でも、教会に来て、福音を聴いて、
 『あなたは、神に望まれて生まれてきたんだ』
 『あなたは、神に愛されてそこにいるんだ』
 『あなたが、いなけばこの宇宙の意味はないんだ。なぜならこの宇宙はあなたを生むために存在しているんだから』
 ・・・そういう福音をたくさん聴いた。
 『イエスさまが、あなたのために命を捧げてくださったんだし、あなたはそれほどの神の愛を受けるにふさわしい存在なんだ。だからあなたはそこにいていいんだよ。あなた自身として何の問題もなく輝いていていいんだよ』と、
 そういう福音を延々と聴いた。その福音を信じて洗礼を受けたんだ」と。
 で、今、洗礼を受けてまだひと月ちょっとですけれども、私に報告してくれたんですよ。「神父さま、私生まれて初めて自分で笑えました」。・・・ちょっとビックリですよね。逆に言いうと、それまで本当に笑ったことがなかったってことでしょ。なんとなく私も、気ぃつかい人間だから、周りの人に合わせてばっかりいるっていうのは分かる気もするけど、でも自分で笑ったことがないなんていう、そこまでの空虚を経験したことはないので、ちょっとビックリもしたし、また、彼女だけじゃない、そんな闇を抱えている人もまだまだいっぱいいるんだろうなとも思うし、笑えてホントによかったと思ってます。
 彼女の言い方だと、自分の「センター」がね、・・・センター、真ん中ですよね、まさに十字を切る真ん中ですけど、洗礼を受けたら自分のセンターが生まれたと。すごいことじゃないですか。空っぽの自分がイエス・キリストに出会って、神さまの愛を受け入れて、空っぽだった自分の真ん中に「愛されている私」という現実が誕生して、人の笑顔に合わせてヘラヘラ笑ってるんじゃなく、私自身として堂々と喜んで、笑える。これはまさに新しい誕生ですよね。洗礼ってそういう恵みなんですよ。
 そういうのを聞くと、多摩市の人みんなに、洗礼授けたくなるじゃないですか。当然のことですよ。だって神の愛に目覚めなかったら、空っぽなんだもん。人間って、そういうふうに造られているんで、神に選ばれて、神の愛を満たされて、初めて生きるものとなる。
 ぜひまあ、これからもこの教会にいる間、精いっぱいミサのため、洗礼のために奉仕いたしますから、協力していただきたい。多摩教会が、まさに倍になるように、10倍になるように、大きな実を結ぶように、協力していただきたい。もっと楽しい教会にしましょうよ、どんどん。できるはずですし、また、神さまはそれをお望みだと思う。

 先月、復活祭明けにディズニーランドに行ったんですけど、初めてのアトラクションに乗ったりして、すごく楽しかった。でも私、嫉妬深いんで、「クソッ、負けるものか!」って思ったんですよ。(笑)だって、こんなに大勢の人がみんな笑顔になって、幸せそうに遊んで、癒されて元気もらって、夢と魔法の国で、自分の夢、救いの魔法を信じてるわけだから、羨ましいし、「クソッ、負けるものか!」と思う。本来は、教会がこれをやらなきゃならないんだから。
 ディズニーランドは確かに楽しいけれど、門の外に出たらまたつらい現実でしょ。でも教会が与えているのは、そのつらい現実のどこに行っても、自分のセンターにはホントの笑顔があるんだと知って、神の愛の中を生きていくっていう、究極の夢と魔法であるはずじゃないですか。神の国は永遠なんだから。神の国はもうその「外」に出なくていいんだから。教会はその夢の国の目に見えるしるしであるはず。教会がディズニーランドよりも楽しくなかったら、私は負けだと思う。
 先週は「ONE PIECE展」に行ったんですけど、・・・ワンピース、ご存じですね、今日本で一番売れてるマンガです。六本木ヒルズのてっぺんのギャラリーで今、原画と映像と体感の「ONE PIECE展」っていうのやってて、6月17日まで。・・・って、宣伝する義理はないですけど、(笑)これにも感動しました。すごいですよ。まさに体感。
 でもね、みんなが感動の涙流したり、元気取り戻したり、お互いに喜びを分かち合って仲良くなったりしているのを見ると、私、嫉妬深いので、(笑)「クソッ、負けるものか!」って思っちゃうんですよ。(笑)
 「ONE PIECE」が何であんなに流行(はや)るのかといえば、真の冒険、本物の友情の話だからですよね。「自分を犠牲にしてでも仲間を守る」っていう、そういうめちゃめちゃカッコいい愛の話だからじゃないですか。実はみんな愛し合う本当の仲間が欲しいわけですし、その心の奥にはお互いのために身を捧げて生きたいっていう、熱い思いを秘めているんだけど、現代社会はひたすら自分の利益を追求するばかりで、そういうときめくものがなくなっちゃったから、せめてマンガの中で味わいたいってことでしょ。
 でも実際には、『ONE PIECE』を読み終わったらまた愛のない社会、「ONE PIECE展」の外に出たら、またこんな小さな自分ってのが現実じゃないですか。しかし、そんな中、教会に来ると、ちゃんと2千年前のイエスの言葉が読まれる。
 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」
 「私が愛したように互いに愛し合いなさい」
 そう言って、本当に友のために命を捨てたイエス・キリストが、「あなたがたはわたしの友である」って言ってくれる。最高でしょう? 「お前がホントのダチだ。お前のために死んでやる!」そう言って死んでくれたなんて、どんな漫画よりカッコよくないですか。だから、俺たちも本気で、互いに身を削って愛し合おうと、真剣にそれにチャレンジしている仲間が現実の社会にいる。主人公のルフィーは「海賊王になる!」っていうけど、キリスト者はみんな「キリストになる!」って叫ぶんです。なぜなら、キリストこそが宇宙の王だから。それって、海賊王になるのよりずっとワクワクする冒険じゃないですか。それは永遠の国に向かう、愛の航海なんだから。
 「クソッ、負けるものか!」って思う。25周年にあたり、イエスの名によって父に願いたい。「信じる仲間を増やしてください」と。私たち、こうして神さまから集められて、すでに最高の恵みの場を生きているんだから、もっと教会を誇りに思ってどんどん願いましょう。望むものは必ず与えられると信じましょう。大勢の人を私たちの「夢と福音の国」にお招きしましょう。そうして、いっそう素晴らしい教会をめざして船出しようじゃないですか。信仰の旅こそは、最高に楽しい冒険の旅なんです。

2012年5月13日 (日)録音/5月18日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英