悪霊に連戦連勝の秘訣

2012年5月20日主の昇天
・第1朗読:使徒たちの宣教(使徒1・1-11)
・第二朗読:使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ4・1-13,または4・1-7,11-13)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ16・15-20)

【晴佐久神父様 説教】

 先週は、司祭叙階25周年、銀祝記念のミサを一緒にお祝いくださり、ありがとうございました。
 そして今日は、今度は私からの感謝ということで、午後、パルテノン多摩で「福音コンサート」というクラシックのコンサートを開催いたします。夢に見たコンサートです。どうぞ成功をお祈りください。
 皆さんにお祈りいただいて支えられてきたこの25年を考えて、何か感謝を表したいと思ったわけですが、じゃあどう表すか。母の日なら、赤いカーネーション1本ですけど、この25年を感謝するのに何をどう表したらいいかと考えたときに、それはもう、一番価値のあるものを皆さんにプレゼントするのが何よりの感謝だろうし、じゃあ一番価値あるものは何かっていったら「福音」に決まっているわけで。
 25年間福音を語りまくってまいりましたけれども、今日の午後のパルテノン多摩大ホールで、演奏の合間に福音語りまくってまいりますので、どうぞお祈りください。みんなが素晴らしい音楽に触れて喜び、福音に触れて救われてくれれば、神さまも喜ばれるし、それが何よりの感謝の形なんじゃないかと思いました。「無料」コンサートですけれど、1400席あるから大丈夫だろうと思います。どうぞいらしてください。大ホールで福音を語れるというのは、25周年という節目のひとつのしるしとして、すごくうれしい気持ち。
 福音を語ってる時、私の中に神さまとひとつに結ばれているという喜びというのがあって、それは自分にとってかけがえのないものだし、神さまにとっても、かけがえのないことなんだろうと思う。ともかく来てくださいね、皆さん。午後お忙しいですか? 「ここまでやるか!」っていうようなコンサートですから。(笑)私、そういうことするの、好きなんですよ。「なんか、思ったほどじゃなかったわね〜」とか言われたら、すごい悔しい。(笑)「ここまでやるか!」っていうことをやると、それってなんか、キリスト教っぽいでしょ。「そこまでやるか!」っていう感じが、イエスさまの生き方だし、私もその不肖の弟子として、「福音のために、ここまでやるか」っていうことをやりたい。今日の午後、福音を聞いて「多摩教会に行ってみよう」っていう方が必ず現れるだろうと思うと、ワクワクいたします。

 最近よその教会から転入してこられた方がね、一昨日の集いの時に多摩教会のことを「ただただ、ビックリしております」って言っておられましたけれど、そんなに驚くほどのことじゃないですよ。この教会、いたって普通の教会ですよ。福音を語って仲間を呼んで、福音をみんなで味わって分かち合って、救いの喜びを込めて感謝の祭儀を捧げている、ごくごく当たり前の教会です。あえて言えば、そのごくごく当たり前のことをちゃんとやってる教会ですし、ちゃんとやっていれば、そこに救いを求める人たちが集まってくる。
 その「ただただビックリしている」と言った方、そこにおられますけど、そのお隣の方、初めてのようですけどお友達なんですか?・・・ああ、お友達を連れてこられたんですね。ようこそ、ようこそ。ということは、あなたもすっかり多摩教会に洗脳されてしまいましたね。(笑)ミサにお友達を連れて来るようになった。そんなふうに、ぜひぜひ、みんなで神の子たちを大勢この聖堂に集めて、福音の喜びに胸を熱くする人を一人でも多く増やしましょう。それが神さまの望みです。キリストの教会の姿です。

 さっきマルコ福音書の最後のところ読みましたでしょう? 最後って、ホントにマルコ福音書の最後の結びのところなんですけど、その最後の一行にこう書いてある。
 「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」(マルコ16:20)
 この一行はこれで終わったわけじゃなく、この後ず〜っと2千年間続いている一行なんです。今日に至るまで。そして今後も、ずっと続いていく。実際、弟子たちは至るところで宣教しています。主は私たちと共に働いておられます。そして、キリスト者の語る言葉が本物だってことを、それに伴うしるしによって、はっきりと見せてくれています。
 私、そのしるし、いっぱい見てきましたよ。一番は何といっても「福音で救われる人がいる」というしるし。それ以上のしるしなんてないですよ。逆に言えば、「救われないんだったら、それは本物の福音じゃないんじゃないの?」ってことでしょう。
 今週一週間だって、ホントにいろんなことがありましたけれども、福音語りまくれば、救われる人が次々と出てくる。これは当たり前のことです。主は共に働いているんだから。何も不思議なことじゃないし、それを(あか)しするのが、われわれ弟子の仕事です。25年間ず〜っと福音語りまくって、ず〜っと人が救われまくってきたのを目の当たりにしてきました。一つひとつ例に出したいけど、忘れっぽいのでどんどん消えていっちゃいますが、覚えている限り証ししたいですよ。それこそが説教の一番の目的でしょう。

 今週で言えば、つい数日前・・・、あれは「おやつの会」だから木曜日ですね。おやつの会に初めて来られたお母さんと娘さんが涙浮かべて喜んでました。お話伺ったら、去年のクリスマス前、12月23日にここで「祈りと聖劇の夕べ」っていうの、やりましたでしょ? あれは近隣の人たちにも、ぜひ福音を聞かせたいと、キャンドルサービスして聖劇やって、合間に福音を語るっていう集まりで、一人でも二人でも実りがあればと一生懸命準備しましたけど、そこに、そのお母さんと娘さん、来られてたんですよ。初めて教会に来たわけですけど、そのとき神父が出てきて、こう言ったんですね。「今日初めて来られた方いますか〜?」・・・で、お母さんと娘さん、恐る恐る手を挙げた。あの日・・・うっすら覚えてますけど、確かそれでも結構、手、挙がったと思うんです。で、私がこう言ったそうです。
 「よかった〜♪ ようこそ! もうあなたは救われました!」
 まあ、私がいつも言うことですけれど、でもそれはキリスト教の本質です。イエスさまが語りかける。イエスさまが神の愛を神の子にちゃんと語りかける。そこに救いが実現する。
 キリスト教なんてそれだけですから、私たちはまあ、当たり前のことをしてるだけです。「今日初めてここに来られた方、ホントによかった! もうだいじょうぶです。ここに神の愛がある。神さまは今、ご自分の愛をあなたに語りかけている。安心してください。あなたは救われてますよ!」と宣言する・・・そのとき娘さんはすごくつらい思いをしていて、いろいろ苦しんでいるのを見かねてお母さんが連れてきたわけですけれど、そっと座ったら、「もうだいじょうぶです。救われました!」って、福音の宣言を聞く。そのとき、お二人、号泣したんですって。で、あまりに感情が高ぶって、聖劇見ないで帰っちゃった。(笑)まあ、残念といえば残念ですけれど、でもそれは、別に悲しくて泣いているわけじゃない。感動して安心して、ある意味生まれて初めての体験だからびっくりもしたんでしょう。お家に帰ってから、「またあの教会に行こうね」って、いつも話してたそうです。
 そうして「またこの教会にまいりました。先週の日曜日のミサに来たら、『おやつの会』も紹介されたので、まいりました」・・・と。だから私は、そこでまた福音を語りました。「もうだいじょうぶ。あなたのうちに、神さまが働き始めています。イエスさまが今あなたに言ってます『あなたは愛されているよ。心配しないで。あなたは素晴らしい人間、素晴らしい存在、神さまの子どもなんだ。胸張って生きていこうね』って。こういう福音を聞きに、これからも教会に来てください!」。
 きっとまた来られるでしょうし、福音を聞きに通ってくれることを信じてますし、そうしていつか、「あなたはホントに神さまから愛されているって聞いたあの時、心が軽くなり嬉しくなったとき、もう私、洗礼を受けていたに等しいんだ」って気づいて、この聖堂でお水をかけていただく洗礼式も願うことでしょう。
 洗礼ってそういうことですよ。福音を信じて受け入れるとき、もうそれは洗礼を受けたも同然です。それを、水をかけるという形に表わすのが洗礼式でしょう。先ほどイエスさまが「信じて洗礼を受ける者は救われる」って言ってましたけど、そういうことですね。福音を聞いて救われることが、広い意味で洗礼なんです。逆に「信じない者は滅びの宣告を受ける」とも言ってますけど、これは「洗礼台帳に名前が記されないと地獄に行くぞ」っていうようなことじゃないですよ。
 いうなれば、私たちは日頃もうすでに、滅びの宣告の中を生きている・・・そうでしょ? 「現代社会では、誰もが『死ねばそれまでよ教』を信じてるんですよ」って、先日の説教でもお話しました。「『見えるものがすべて教』に洗脳されているんですよ」って。「私は無宗教です」とか言いながら、「やがてみんな滅びる教」を信じてる。・・・「それって、宗教ですよ」と。
 「祈りと聖劇の夕べ」といえば、今年の12月23日はマヤの暦で「地球滅亡の日」だとかね。いや、そんな大げさなこと言わなくっても、病院で「あと6カ月です」なんて言われたら、「滅びの宣告」じゃないですか。大地震が来る、放射能でガンになる、そんなものばかり恐れて永遠なるものを見失っていたら、この世だけを生きてそれを自分のすべてにしていたら、まさに「滅び」でしょう。この世のことだけ生きているなら、すでに滅びの宣告を受けている。
 しかし、そんな中、教会に来ると、「あなたは神に愛されている。この愛を信じるならもう救われている。あなたは永遠なる神さまの子どもとして、決して滅びない」っていう祝福を受ける。そこには喜びがあり、安心がある・・・それが「洗礼」ってことでしょ。

 私は、そのような滅びの宣告を受けている人たちに、福音を語りまくってまいりましたけれども、その秘訣をね、ちょっと今日は皆さんと分かち合いたい。福音を語って救いをもたらす人として、新たに出発してもらいたい。まあ、25周年ということで、「そろそろ準備期間は終わり。ここからは本腰入れてやるぞ!」みたいな気持ちでいるので、みんなで一緒にやっていきましょうってことで、この秘訣を覚えといてください。その秘訣というのは、今日のこのイエスさまの言葉です。
 「彼らはわたしの名によって悪霊を追い出す」(cf.マルコ16:17)
 これですね。「イエスの名によって、悪霊を追い出す」。・・・「名によって」っていう日本語はピンとこないなら、本来の意味で言うと、「彼らはわたしに成り代わって悪霊を追い出す」そんな感じですね。もっと言えば、「イエスとひとつになって」「イエスと一緒になって」、そして「イエスを前面に出して」、悪霊を追い出す。
 それができるし、イエス自身が「私が追い出す」って言ってるんだから、後は信じてそれをやってください。驚くべき実りが山のように実現しますよ。ホントに実現します。それをぜひ体験してほしいんです。・・・「イエスの名によって悪霊を追い出す」。
 「悪霊」っていうのはホントにいますよ。シッポ生やしてウロウロしてるってわけじゃないですけど、人の心に恐れを忍び込ませる悪しき霊として、確かに働いてます。私も、毎日その悪霊と戦って、悪霊を追い出してます。
 悪霊って、だいたいこんな感じ。・・・たとえば、私が何か福音を語ろうとすると、スルスルッとやって来て心の中に語り掛けるんですね。
 「
おまえにそんなこと言う資格はないだろう
 ・・・まあこれ、ある意味自分の心の声でもあるんだけど、いつも忍び込んできて攻撃してくるって意味では、間違いなく悪霊の働きです。
 「
偉そうなこと言ってるけれど、おまえ、昨日の夜、結構高級なワイン開けておいしい、おいしいって飲みながら、くだらない深夜番組をへらへら見てただろう。そんなおまえに、今、ホントに苦しい立場でつらい思いをして、精いっぱい生きているこの人に、福音を語る資格なんかあるものか。俺はおまえの正体知ってるぞ。ただの偽善者だ・・・ダメな神父だ!
 ・・・これ、ホントにそういう心が、もう毎回必ずささやきかけてくるんですよ。一度だってですね、胸張って、100パーセント何の恐れもなく、「ハイ、これが福音です」なんて語ったためしがない。そんなことあり得ない。毎回必ず、悪霊が来て(ささや)くんです。
 「
信仰薄いおまえには無理だ。決して救えない。イエスとか持ち出すと誤解されるぞ。神の愛とか宗教の話すると引かれるぞ。やめとけ、やめとけ
 ・・・もう毎回それは聞くし、当然、一瞬ひるむ。
 ところが、さすがに晴佐久神父。毎回勝つんです。私、連戦連勝ですよ。(笑)ホントに勝ちます。なぜか。イエスの名によって追い出すから。私が追い出すんじゃない。私を通してイエスが追い出しちゃう。私自身は全然ダメですよ。でも、「そうだよね〜、ぼくなんかじゃダメだよね〜」とか、正直に認めて、悪霊に負けたふりをしながら、むこうが油断した隙に「イエスの名によって命ずる!」と福音を語る。「あなたは救われた」と。すると悪霊はもうどこにもいない・・・これが、連戦連勝の秘訣です。
 「イエスの名によって」という言葉自体は使わないでいいです。イエスとひとつになっているという心で宣言すればいいだけです。
 「だいじょうぶ。もうだいじょうぶ。あなたは救われたよ。だって、こんな私だけど、今イエスさまとひとつなんだから、私のこの言葉はイエスさまの言葉。イエスさまが言ってます。『神はあなたを愛している。あなたは必ず救われる』。・・・だいじょうぶ。信じてね」、
 そう言えばいいんです。それって、私の言葉じゃないんで、変な言い方、私には責任がない。責任はイエスさまがとってくれます。問題は、イエスさまとひとつになって語れるかどうかってこと。それは、難しい話じゃない。連戦連勝の身としては、皆さんも必ず連戦連勝できるって証ししますから、やってみてください。救いの現場に奉仕するのって、気持ちいいですよ、やっぱり。
 でね、悪霊とね、変な言い方ですけど、これはぼくの実感なんですけど、だんだん親しくなっちゃうんですね、やっぱり。いつも付き合ってると。向こうはいつも、「
おまえなんかに俺を追い出せるか」みたいなことを毒づく。「おまえはきっと失敗するぞ〜」みたいな恐れを持ち込んでくる。そうすると私、最近ではもうこんな感じです。「お前ねえ、またその攻撃? もうそのワンパターンやめたらどう? それで勝ったためしないじゃん」。そうするとね、悪霊の方も、なんかちょっと苦笑いって感じでね、「いや〜、分かってるけどさ、でもこれ、俺の仕事だからねぇ・・・」みたいな感じ(笑)。
 悪霊にしてみれば、それしかないからね。人を恐れさせて、悩ませて、疑わせるしかやり方がないので、まあ、心に忍び込んで来ては、「
おまえはダメだ。きっと失敗するぞ」みたいなことを、ちょこちょこ言うわけですよ。「ほら見ろ、あいつもあんな悪い目にあった。おまえのせいじゃないのか」とか、「こんな悲しい出来事があった。神なんかいるものか」とかね、なんか人を恐れさせるようなこと言ってくる。こっちは、「もうそういうのいいよ、いいかげん諦めたら?」って思うんだけど、向こうも仕事だからね、しょうがない。神学的に言えば、あらゆる悪は善に奉仕しているってことだから、やつらも奉仕活動の一環なわけで。
 悪霊とは親しくしといたほうがいいですよ。敵を知らないと、時に負けちゃいますから。親しくしとけば、悪霊が何言ってももうほとんど時候のあいさつみないな感じになって(笑)、「はいはい、これからイエスさまが語りますから、ちょっと黙っててね」って、イエスさまを前面に出してその陰に隠れる。これ秘訣ですよ。覚えといてくださいね。イエスさまが前に出れば皆さん、全然心配ないです。
 イエスさま、言ってましたでしょ。「蛇つかんでも平気ですよ。毒飲んでも何の心配もないですよ」って(cf.マルコ16:18)。それは、「わたしの名によって悪霊を追い出す」、つまり「わたしが(・ ・ ・ ・)働いてるんだから、あなたはだいじょうぶだ、いいからわたしに働かせてくれ」ってイエスは言ってるわけです。
 悪霊が支配しているかのような恐ろしい現場は、いっぱいある。悩んでいる人もいっぱいいる。つらい出来事なんて、山ほどある。だからこそ、恐れずに向かい合って、イエスさまを前に出して、イエスさまを働かせてください。それができるのは、そこにいるあなた(・ ・ ・)だけ。これがキリスト者っていうことです。
 単純な、聞けば当たり前の秘訣だけれど、キリストの教会は2千年間それをやって来ましたし、私もこの25年間、ず〜っとそれをやり続けて山のような実りを目の当たりにしてまいりましたし、今日の午後も福音を語り、その実りを目の当たりにして、「そうか、やっぱり、この言葉はイエスの言葉で、真実なんだなあ。これほどの実りがあれば、もう疑うことはできないなあ」って思うことでしょう。「彼らは新しい言葉を語る」って、そのこと。イエスに語らせる言葉のことです。その実りの一番美しいのがやっぱり洗礼式に極まるわけですから、来年の洗礼式目指して、一緒にやってきましょう。

 あの〜、わたしこの25年間で、おおよそですけど、850人洗礼授けてるんですよ。あとこの教会に何年いるか分かりませんけども、ぜひここにいる間に1000人超したいね。・・・普通に考えたら、「ぜひ1000人超したいね」なんて、なかなか聞けませんよね。4桁ですからね・・・そんなことを、この日本の教会で普通に発言できるって驚くべきことって思われるかもしれないけど、これが、キリスト教です。これが新しい言葉です。
 初代教会、まだ続いてます。日本なんかは、まだまだ、これから。99パーセント信者じゃない救いの曙の国なんだから。この国でイエスさまと共に福音を語りまくると何が起こるのかと思ったら、ワックワクします。日本におけるキリストの教会、ここからですよ。今まだちゃんと始まってもいないくらい。私には、それがすごくよく分かる。
 今日「昇天の主日」ですけれど、さっきパウロが言ってましたよね。イエスさまが天に上げられたっていうのは、人々に賜物を分け与えるため、すべてのものを満たすためというようなことを(cf.エフェ4:8-10)。つまり、イエスさまがこの世の時間、空間、法則を超えて、「いつでも」「どこでも」「誰の内にでも」ちゃんと働けるようになったってこと。そうして、イエスさまがみんなの中で働き始めたら、驚くべきことが起こる。「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされた。こうして聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体をつくり上げていく」(cf.エフェソ4:11-12)とも。
 皆さんの、どんなにささやかでも、福音への奉仕こそが、キリストの体、神の国を造ります。それがどれほど美しく素晴らしいものか、想像もつかないような世界ですよ。楽しみにして、この一年、福音を宣言する教会にしていきましょう。私たちはそれができるし、神さまはそれを望んでおられる。日本一の教会をやろうじゃないですか。

 先週のお祝いで、「教会から」と携帯用ミサセットをプレゼントしていただきました。ありがとうございます。買いに行ったのは私なんですけど。(笑)嬉しかったです。
 でも実は、「神父さん、お祝いに何欲しいですか?」って聞かれた時、ホントは喉まで出かかった言葉があるんです・・・「受洗者10人!」(笑)「来年の復活祭に、受洗者10人、上積み!」と。上積みですよ。(笑)今年だって30人いたんだから。
 まあ、数字のこと言うのも変かもしれないけれど、そんなこと言える教会があるってのもステキでしょ? 来年、40、50いきたいね。今日の午後は「パルテノン多摩」で、まっ、「3人」頑張ってきます。(笑)

2012年5月20日 (日)録音/5月25日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英