天の国は0シーベルト

2012年5月27日聖霊降臨の主日
・第1朗読:使徒たちの宣教(使徒2・1-11)
・第2朗読:使徒パウロのガラテヤの教会への手紙(ガラテヤ5・16-25)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ15・26-27、16・12-15)

【晴佐久神父様 説教】

 今、ご一緒に「聖霊の続唱」を歌っていて、神学校に入る前のことを思い出してました。美しい合唱曲でもある高田三郎の名曲ですけれど、当時、青少年活動を手伝っていた親しい神学生の司祭叙階式があって、その中でこの曲が歌われたんです。美しい合唱でね、その叙階式のテープを仲間たちで何度も一緒に聞いたもんですけど、みんなこの曲が大好きで、ある夜、友人宅に仲間たちが集まっていた時、エンドレスでこの「聖霊の続唱」を繰り返し聞いたのを思い出します。あの頃はカセットテープですから、こう、シュルシュルと巻き戻してはもう1回、巻き戻してはもう1回ってね、何度も、何度も。今、ここに、聖霊が働いているって実感しながら。
 「聖霊来てください、あなたの光の輝きで私たちを照らしてください。貧しい人の父、心の光、証しの力を注ぐ方。優しい心の友、さわやかな憩い、揺るぐことのないよりどころ・・・あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、だれも清く生きてはゆけない。汚れたものを清め、(すさ)みを潤し、受けた痛手を癒やす方・・・」
 親しい神学生が現実に神父になっていくっていうことで、二十歳そこそこのみんな、自分の将来を考えたし、人を召す神の働きのリアリティーをすごく感じたんですよ。信仰って、どこか抽象的なことだと思ってたけれど、ひとりの人間が生涯をかけて司祭になっていく姿はとても現実的で、聖霊が働いているっていうしるしだった。「本当に神さまがおられて、この私たちを出会わせてくれているんだ」「本当に神さまがおられて、この私の心に働きかけているんだ」「本当に神さまがおられて、この私の人生を導いて、守って、使ってくださっているんだ」っていうリアリティー。そういうリアリティーがなかったら、宗教なんて、ホント飾りものっていうか、ただの幻というか。やっぱり、あの日のリアリティーがあって、今があるんだなって思い出してました。あの夜は、確かに聖霊降臨だった。
 あの夜、繰り返し「聖霊の続唱」を聞きながら、聖霊の働き、目には見えない神の愛の働きが、私たちを現実に清めて、癒やして、導いてくださってるんだっていう、そのリアリティーを感じたし、それは「それなら、俺でも司祭職を生きていけるかも」というリアリティーにつながって、突然(ひらめ)いてしまうわけです。「もしかして自分も神父になっちゃったりして・・・いやそんなの絶対無理、もう全然ありえない・・・いやでも、もしかしてあり得るかも・・・いやいや、そんなのナイナイ・・・でも、神が望むなら・・・」。突然閃いて、戸惑ってっていうその思いは、初々しかったね。今でこそ、なんかもう、神父やってることが当たり前になっちゃっていて、こうして福音を語ってミサを捧げて、信じる仲間たちと一緒に神の救いの歴史に参与しているのがリアルだけど、あの時はまだそういう思いの曙でね、自分の人生に聖霊の働きを感じ始めたときで、ドキドキしてた。懐かしいですねえ。
 確かにあのとき、あれは、だからもう40年近く前に特別に働き始めたその聖なる霊は、それからもず〜っと働いてきたし、1分1秒欠けることなく働き続けてきたし、今も、私がこうやって一生懸命しゃべってる時もちゃ~んと働いている。聖霊がそうやって、常に私たちの教会を祝福して導いて、今後もいつまでも、人を救うために私たちを用いてくださるっていうそのリアリティーを、この聖霊降臨の日は特に感じてほしいです。
 いつも来てるんですよ、聖霊は。リアルに働いているんです。なにしろ神の愛ですから、もう世の初めからず~っと降り注いでいるし、その聖なる霊の働きの中で、すべては創造され、すべては導かれ、私たちも生まれ、育ち・・・今日こうやって息をしてここに存在しているのも、聖なる霊の働きが私たちの細胞の隅々にまで及んでいるからでしょう。でもそれに、普段は気づかない。だから、年に一度、聖霊降臨の日くらいは気づきましょう。今この聖堂に聖霊が燦々(さんさん)と降り注ぎ、滔々(とうとう)と流れている。それを受け止めてほしい。
 さっき「聖霊の続唱」歌ってる時、手を開いてお祈りしてる人がいましたけど、そういう習慣ありますね。手のひらを天に向けて、何かを受け止めるように、開いて祈る。言うなれば聖霊の中に手を開いて、聖霊を受けてるわけです。まあ、イメージですけど、聖霊は上から来るわけでしょ。天から地へ、滔々と注がれる聖霊を、受け止める。
 普段から注がれているんだけど、私たちは気づいていない。だから、その聖霊の流れの中に自分を開いて、受け止めるわけです。ちょうど、川の流れをただ見てても水の流れが何だか分からないけれど、ひとたび手を開いて入れれば「おお、こんなに強い流れか」って分かるように、聖なる霊の働きの中で自らを開いて、全身全霊、人生全体で、聖なる霊の働きを受け止めます。

 先週の私の銀祝記念コンサート、皆さんへの感謝のしるしとして開いたものですけれど、来てくださってありがとうございました。素晴らしいコンサートだった。あれが、聖霊のリアルな働きです。100パーセント聖霊の働きを信頼して計画し、100パーセント聖霊の働きに従って準備をし、100パーセント聖霊の働きを受け止める場として、あの「パルテノン多摩」でのコンサートをしたんであって、それはもう商売でやってる音楽会や、音楽を楽しむだけのコンサートとは全然違う。「聖なる霊の働きをしっかりと受け止めて、聖なる霊の働きに促されて、神の愛をちゃんとみんなに伝えよう」という目的をはっきりと持ってやったわけですから。
 晴佐久神父、出演者が替わるたびに出てきては福音をしゃべりまくってたでしょう? もう嬉しそうにね〜。ホント幸せでしたよ、あの時間は。前半せっせとしゃべってたら、どんどん長くなっちゃって、「後半は短く」と言われ(笑)、少しはしょりましたけど、あそこで福音を語って語って、語りまくって。・・・幸せでした。
 聞けばその後、多摩教会のホームページや「福音の村」のホームページのアクセス数が急増したそうですから、きっとあのコンサートに来た人が、福音をもっと聞くにはどうしたらいいのかとか、神父がそこまで言う教会ってどんなとこだろう、一度訪ねてみようかと、アクセスしてくれたんじゃないですか・・・。もしかして、今ここにいません?(笑)いませんよね・・・あのコンサートがきっかけで、さっそく今日教会に来てみたって言う人がひとりでもいたら、うれしいんですけど・・・。すいません、今日、あのコンサートの紹介のおかげでここに来ましたっていう方、もしいたら、手を挙げていただけませんか? ・・・あっいた! ありがとうございます! いやいやいや、こういう瞬間はもう、ホントにね、聖霊がちゃんと働いていることが、目に見える瞬間。
 コンサートひとつやって、そして合間に神父が「神の愛を信じてくれ!」と語る。まあ、ホントに大変なコンサートでしたけれども、もう福音をひと言でも語れたなら、そしてそれが実るなら、すべてが報われるし、そのためにこそキリスト者は生きている。そのために互いに出会ってる。そもそもそのために音楽ってあるんだし、そのためにコンサートがあり、ホールもあるって、私は言いたい。福音を語る時にこそ特別に聖霊が働くし、福音においてこそ聖霊が実る。
 900人集まったっていうじゃないですか。うれしかったね〜。聖霊の働きですよ。多摩市に何人住んでるか知らないけれども、みんなつらい思いをして、寂しい思いをしてる。一人ひとりバラバラで、神も仏もあるものかみたいな、つらい気持ちで生きてる人たちが大勢いる。そんな多摩市に教会が建っていて、その教会から仲間たちがホールに打って出て、歌を歌ったりピアノを弾いたりして、神父が現れて福音を語る。これはもう全部、聖霊の働きです。二千年間、聖霊はその働きを続けてきたし、これからも聖霊は働いていきます。どんな時代、環境になろうとも、聖霊はちゃんと働いて、いろんな人をとらえ、導いて、神の愛の福音を広めていくでしょう。私たちは、それに協力できるんです。選ばれている私たちは、そんな素晴らしいわざに協力できる。それをやっていれば、もう気分爽快。誰に何言われようと、一見実りがないように見えようと、爽快なんです。ストレスがない。

 数日前、親しい友人の神父に会って「どう? 元気?」って言ったら、ここのとこ、あまり元気じゃなかったようで。彼は、私が以前いた教会で神学生として手伝ってくれていて、入門講座のお手伝いから何から、大勢の洗礼式の準備とかね、求道者のお世話まで全部一緒にやっていたので、「ともかく聖霊の働きを信じて福音を語っていれば、神さまが素晴らしい実りをくださる。それが教会の使命であり、キリスト者の生きる意味のすべてだ」っていうような、救いのみわざのリアリティーを一緒に分かち合った仲なんですよ。
 だから、「どう? 元気?」って聞いたら「いや〜、最近いろいろあって、あんまり元気じゃなかった」と、少し精神的にまいっていたようなことを言いながら、ちゃんとこう言ってくれた。「でも、先日、入門講座で福音を語ったら、すべて晴れた。福音を語っていたら、いろいろな思いが晴れて、元気になれた」と。ホンモノのキリスト者の言うことです。やっぱり、「福音を語る」っていうことにこそ教会の本質があるんだから、その使命を生きているときにこそ、自分自身のあらゆる問題もクリアになっていくし、解決していく。そんなことは分かってたはずなんだけども、やっぱりいつの間にかこの世の煩いに巻き込まれて、迷ったり恐れたり、とらわれたりして元気がなくなっていく。けれど、福音を語ると、相手が救われるのはもちろん、語った本人も救われる。なにしろ、福音って、いくら語っても絶対ストレスがないんです。聖霊の流れに従ってることだから。ストレスっていうのは、やっぱり流れが悪いわけでしょ? 聖霊の働きと共に福音を語れば、ストレスも流れ去る。
 これは皆さんもね、ぜひ体験していただきたいことです。「福音語る」ったって、何か立派な話しろって言ってるんじゃない。もう、ホントにシンプルなこと。たとえば、勇気を出して「私も以前は悩んでたけど、教会に行って神さまの話聞いたら、ホントに元気になれた。あなたもつらいんだったら、今度一緒に教会に来てみない?」ってひとこと言う。これ、すごい福音宣言ですよ。その瞬間、とてつもないことが、そこで行われてる。もちろん、普段は勇気がなくて、「宗教の話はまずいかな・・・」とか怯えてるところがあるんだけれども、でも、もしそこで本当に勇気を持って、聖霊の働きに助けられて福音をちょっとでも語れたら、そのとき実は、語ってる方も救われるんです。

 私、25年間、そうやって勇気を出して福音を語っては、結果、自分も救われてきた。この25年は、そういう歴史でもある。神父はありとあらゆる面倒なことをしなきゃならないし、ありとあらゆることを言われて傷つかなきゃならないわけですけれど、福音を語っていれば平気だし、福音を語るチャンスにすごく恵まれているし。まあ、肉体的には疲れることもあるけれども、精神的にはホントに満たされてきたし、時に精神的にまいっても、結局は福音を語ることで癒されてきた。そうして福音の実りにワクワクして25年過ごして、今日もまたそうであれるっていうのは、福音の流れの中にいるからです。いいですよ、ストレスが溜まらないんだもん。もうすべて聖霊の働きで流しちゃう。
 お金の流れって、そういうとこありますよね。よく似てる。今回のコンサートなんかもすごく費用かかってて、みんな「どうしてこれが無料なの?」って不思議に思ったっていうけど、これ、「神父さま、どうぞお役立てください」って右から入ってくるものを、「それじゃ福音のために」って左に流すだけの話なんです。(笑)お金でも情報でも恵みでも、右から入ってくるものをためるから、ストレスになる。腐り始める。もうこれは、左に流すにかぎる。で、流してると「あそこは流れがいいから」って、また持ってくる人がいる。(笑)これ、遠まわしに「持ってこい」って言ってるんじゃないですよ。(笑)福音の話、聖霊の話です。みんなでどんどん流しましょうって話。流せば流れて来る。で、また流す。そこに、流れのほとりの木のように実が実る。いいことがいっぱい起こる。宗教学で、聖霊の働きとお金の働きを類比して語る学者がいますけど、分かる気がする。経済って、流れですから。
 みんな、神に救いを求めて、「私を癒してください」「私に与えてください」「私を幸せにしてください」って、「私」の話ばっかりする。神さま、もう与えているのに。何で救われないかっていうと、流してないから救いに気づいてないだけなんですよ。・・・流してあげればいい。そうすると、なんと、自分も救われてるっていうことが、よ〜く分かる。「自分を癒やしてくれ」っていうんじゃなくて、「あの人を癒やそう」と思えば、気づいたら自分が癒やされてる。「自分を救おう」と思うんじゃなくて、「あの人を救おう」と思っていると、気づいたら自分が救われてる。聖なる霊は救いの流れですから、その流れで救われるんです。

 神さまの息吹が、吹いてきます。五旬祭の日に弟子たちの上にゴ〜ッと音がして、天地創造の初めから吹いている神さまの息吹が、特別に弟子たちに吹きかけられます。熱〜いみ言葉の炎が宿り、弟子たちは語り始める。ガリラヤの口下手な漁師たちも、熱い炎の舌で、「神は私たちを愛している、救い主であるイエスは生きている、私たちは今救われている」って、必死に語り始めます。もちろんガリラヤの言葉で話したんだろうけど、聞いてる人たちは、みんな自分の国の言葉に聞こえる。どんな障害も超えて流れる、福音の流れです。
 「こんなつらい気持ちは誰も分かってくれないだろう、もう希望がない」と思っていたら、「こんな暗い現実は誰も理解してくれないだろう、もう救いがない」って思っていたら、それをちゃんと分かってくれる聖なる霊のみ言葉が、心の奥底にまで響き渡って、その人はビックリする。「愛のみ言葉が、この私に届いた!」・・・この世の言語の限界を超える、聖霊の働きです。聖霊はみ言葉の霊です。福音宣言の霊です。
 弟子たちは、ユダヤ人を恐れて閉じこもっている時は救われない。しかし、聖霊を受けて語り始めると、彼ら自身が救われる。そうして彼らは、復活の主と共に福音を語りまくって殉教していったわけですけれど、そんな彼らの福音宣言のうちに教会が誕生しました。聖霊降臨の日が「教会の誕生日」って言われているのはそのためです。今日って、私たちの教会の誕生日なんですよ。この世に「福音を語る教会」が生まれたんです。
 その日、ペトロの説教を聞いて三千人が洗礼を受けたって、そう書いてある。日本はまだ初代教会ですから、ほとんどの人が福音をちゃんと聴いてないので、きちんと聖霊に満たされて宣言をしていけば、三千人、三万人は、ごくごく当たり前のことになっていくはずです。・・・もしそうならないのなら、聖霊の働きに逆らってるってことですよ。
 どうぞ皆さん、聖霊の働きに身を委ねて、福音を語ってください。み言葉の霊である聖なる霊に促されて、熱〜い「炎の舌」で語ってください。たどたどしくてもいい。言葉足りなくてもいい。たとえばもし今日、このミサで少しでも元気になれたなら、その事実を語るだけでもいい。「私はイエスに出会って救われたんです。ついこの前のミサでも、神の働きを感じて元気になれたし、とっても救われたんです。あなたにもぜひ、そんな体験をしてほしい。お願いだから、信じて来てみてください」。そう、ひと言誘うだけでもいい。
 ま、できればね、そうしてミサに誘う前に、神の愛の福音を語って、その場でその人を聖霊で満たしてあげれれば一番いいんでしょうけれど、なかなかそうもいかないなら、ただもう連れて来るだけでもいい。

 明日の日曜日は、福島市の野田町教会にまいります。震災後にお訪ねしたとき、何かお困りのことないですかって伺ったら、聖母像が倒れて粉々になってしまったけど、もうこんな状況だからそれどころじゃなくて・・・と、寂しそうだったので、「こんな状況だからこそシンボルが必要でしょう」と、多摩教会がプレゼントした聖母像が、このたび聖堂に安置されたということです。明日、そのご像の「祝福式」に招かれたので、何人かの信者さんと一緒に行ってまいります。
 福島の人たちがどんな閉塞状況にあるか、どれほどのストレスを抱えているか、もう私たちは分かっていないどころか、忘れかけてすらいますけれども、それは、今ここにあるリアルです。フクシマは、もはや毒扱いで除染は進まないし、教会幼稚園は閉鎖になっちゃうし、信者さんたちも「この先どうなっちゃうんだろう」っていうような不安を抱えている。ちょうどこの、弟子たちが福音を語っていた時代と同じですよ。ユダヤはローマに滅ぼされる寸前で、この先私たちの国はなくなっちゃうんじゃないか、もう故郷には戻れないんじゃないか、この先どうなっちゃうんだろうと怯えていた時に、弟子たちが聖霊に満たされて福音を語ったんです。「主は生きている。私たちは救われた!」って。
 福島に行って、聖霊に促されて、希望を語ってまいります。「汚れたものを清め、(すさ)みを潤し、受けた痛手を癒やす方」の働きに協力してまいります。
 「神の愛を信じよう。聖なる霊が、すべてを清めてくれる。この世は除染できなくても、聖なる霊の働きがすべてを清めてくれる。恐れるな。私たちは聖霊の神殿であって、聖霊の宿るこの魂は決して汚されない。目指す天の国は0(ゼロ)シーベルト。この世でどれほどの苦難があろうとも、それはすべて生みの苦しみであって、キリストを信じている私たちのうちには永遠の希望がある。今、この困難な時だからこそ、試練の十字架を背負っている時だからこそ、神は私たちに清い霊を注いで、清い愛で満たしてくださっている。だいじょうぶだ。信じよう。これは何かが終わっていくプロセスじゃない。今、ここから、始まっていくんだ」と、炎の舌で語ってまいります。

2012年5月26日 (土)録音/5月30日掲載
Copyright(C) 2012 晴佐久昌英