福音を伝える熱い心

2012年10月21日年間第29主日
・第1朗読:イザヤの預言(イザヤ53・10-11)
・第2朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ4・14-16)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ10・35-45)

【晴佐久神父様 説教】

 先週、私、走り始めたって言ったじゃないですか。続いてると思いますか?(笑)もうやめたと思ってるでしょう?(笑) これが、ちゃ~んと走ってるんですよ。昨日も前の並木道をトットコ、トットコ。先週お話したとおり、福音のためですから。やっぱり、どこに行っても福音を語り、いつでも福音を語り続けるためにはね、体力もある程度必要ですから、足腰を鍛えなくっちゃ。先週の高円寺教会での感動がまたひとつ力になって、「さあ、いっそう福音を語るぞ、語りまくるぞ!」と。
 「仕えるものになりなさい」って、今イエスさまに言われましたけど、じゃあ、一番仕えることって何かって言ったら、それは人を喜ばせることじゃないですか。相手がホントに必要なことをしてあげることでしょう? もちろん、まずは「おなか空いた」って言う人にご飯を出すわけですけれど、でも、実は人が一番必要としているのは、優しさでしょう? 希望でしょう? たとえ不運にも食べるものがなくても「私は愛されている」と感じ、「自分が生きてることは素晴らしい」って思える、神からいただいた大いなる恵みの世界を知って信じることですよ。ですから、「あなたは神に愛されている」「あなたは素晴らしい存在なんだ」「何も恐れることはない」って伝えることこそ、最高の奉仕。命がけで福音を伝えたイエスと共に仕える者になるっていうことは、そういうことだと思いますよ。
 だから、み旨ならば、体調を整えて、心も鍛えて、出会う人、出会う人に「あなたは愛されている」「あなたは救われている」って、ちゃんと伝えて回りたい。私たち、そういう仲間として、一緒にやっていきましょう。

 今日はバザーですから、ここにも大勢の人が来ますよ。このミサに出た人は、バザーに来たご近所の方とぜひ関わっていただきたい。ただ、いきなり「神はあなたを愛している!」じゃ、ちょっとね。(笑)引かれますからね。まずは声をかけ、親切にし、信頼関係をつくって友達になり、そしてもしも、その人が本当に寂しい思い、怖い思いをしてるなら、「だいじょうぶ。神さまが守ってくださる」って言ってあげる。
 私は今日のバザーの間、この聖堂のエントランスホールで、「晴佐久神父のおしゃべりコーナー」っていうのをやります。何年か前から始めたんですけど、バザーに来た人に福音を語る機会です。まさに「仕える」ためですけど、聖堂じゃ堅苦しいし、バザー会場は騒がしいってことで、エントランスホールの、それも外からも見えるあたりに椅子並べて、花飾ってお茶用意して、神父がそこに座ってて、初めて教会に来た人とか、神父さんにいろいろ質問してみたいなんていう人に答えるコーナーです。

 これが結構実り多くって、去年この「おしゃべりコーナー」に来られた方で、それもきっかけとなってこの春洗礼を受けた方もおられるんですよ。ちょうど1年前、懐かしいですねえ。そのとき初めて教会に来たんですけど、暗〜い顔して、神父とそこに居合わせた人たちに、今の自分のつらい気持ち、家族とうまくいかない苦しみを打ち明けてくれました。私はそのとき、「だいじょうぶです。神さまがあなたを本当に愛してくださっている。あなたが心を開いて、神さまの愛と恵みを受け止めたら、家族も変わっていきますよ」。そう申し上げた。
 それから教会に通い始めたその方は、神の愛を信じて今年の春洗礼を受けたんですけど、最近はその家族ともうまくいくようになり、さらにはその家族も少しずつ信仰に心を開き始めてる様子なんですよ。それまでは教会とは縁のなかったそのご家族が、つい最近、その方と一緒に十字を切ったそうです。ね、もうすぐ、そのご家族も教会に来るかもしれない。もしかしたら、今日の「おしゃべりコーナー」に来るかもしれない。そうして復活祭には洗礼を受け、来年のバザーにはその方のお友達が来るかもしれない。
 福音は広まります。福音自体に力があるので、どんどん広まります。それを私たちは信じて、「だいじょうぶだよ」ってね、言ってあげてください。私たちの、そんな福音への熱い思いが世界を変える。そういう希望を新たにしてください。

 今日は「世界宣教の日」です。この日、私たちは、「み~んなに福音を伝えよう!」っていう思いを新たにするわけですけども、この日にあたって、ベネディクト16世教皇がメッセージを出しました。今週のカトリック新聞に全文載っております。内容はいうまでもなく、「いっそう福音を告げ知らせていきましょう」っていう励ましですけれども、たいして長くないそのメッセージを読んでいくと、「情熱」や「熱意」って言葉が何度も出てくるのに気が付きました。なんだか目につくなって数えてみたら、6回出てきた。たいして長くない文書の中に、「神の国を広める情熱」とか、「宣教に対する熱意」「キリストを告げ知らせる情熱」などなど、6回も。
 私、ピンときました。やっぱり、福音を語るって「熱意」なんです。実は、伝わってるのって、それなんですよ。内容も大事だけれど、それ以上に大事なのは、熱い心。「あなたを助けてあげたい」「あなたの笑顔を見たい」「みんなを喜ばせるために、どうやったらいいだろう」。工夫して、手間暇かけて、「あなたのために何かしてあげたい」という、その「熱意」が伝わるんです。内容より先にね。伝える動機っていうんですか? 福音こそが人を助け、笑顔にし、喜ばせることなんだから、まさに何よりも情熱を注ぐべきことだし、その熱さがなかったら伝わらない。「あっ、この人、本当に信じてることを言ってるな」とか「あっ、この人、ホントに私のために伝えてくれてるな」っていう、その熱いもの。教会の中に、その熱い炎が燃え上がることを神さま願っていますし、今日もまたここに聖霊がいっぱい降って、みんなの上に、熱い炎が燃えているんですよ。聖霊降臨って、そういうことでしょ? その熱いものが、今の教会の中で、少~し冷めかけてるんじゃないですか。

 カトリック、プロテスタント、いろんな教会に呼ばれて講演にいくことが多いんだけれども、何で私なんかを呼ぶのかってよくよく考えてみたら、私の話すことなんて「神は愛だ」とか、ごく当たり前のことですし、学者でもないので難しいこともしゃべれないけれど、きっと、なにか「熱いもの」があるからじゃないですか。その意味では、私はささやかではあっても、自分の中に福音を伝えたいという熱い火が燃えていることを知っていますし、みんな、その「火」を求めているんだと思うんですよ。「私の教会、なんだか火が消えかけてるんです。いや、もう消えちゃいました。もしも、まだ種火が残っているなら、その火を分けてください」。そういうことなのかもしれない。
 けれど、その火さえつければ、必ずまた燃え上がっていく。キリストの教会は、「世界宣教の日」とか「教皇メッセージ」とか、こういうミサの聖書と説教とか、聖体の秘跡とか、さまざまな伝統や入れ物を工夫して、その種火をしっかりと守っています。「聖霊の火を消してはなりません」って聖書にありますでしょ? 今日もこのミサで神さまはその火を私たちのうちに燃やしてくださっている。皆さんの心の中にですよ。「わたしはその火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と、イエスさまはおっしゃった。・・・その火を、今日もゴンゴンと燃やしていただきましょう。聖なる霊の炎を。
 先ほどの教皇メッセージの中に「初期キリスト教共同体のような使徒的情熱」という言葉もありました。「初期キリスト教共同体」っていうのは、イエスさまが復活なさった後、霊の炎に燃え上がった弟子たちが世界に散っていった、あの頃のことです。あれからまだ、たった二千年。昨日のことのようにそれを感じて、私たちもまた宣言しましょう。それが、「使徒的情熱」です。「十字架を背負った主は、今も生きておられる」「私たちも死なないんだ」「私たちは愛されている」「私たちのすべての(・ ・ ・ ・)罪と闇は、もう吹き払われた」「だいじょうぶだ、あなたはもう救われている」って告げ知らせましょう。復活の主に出会った弟子たちは、それを伝える情熱に突き動かされて、全世界に散っていった。彼らはもう、殉教しても構わないんですよ。この世で殺されたって構わない。いや、殺せっこないんだから。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と、イエスさまは言った。神さまが魂を生かしているんだから。
 あの日、エマオに向かう二人の弟子なんか、絶望して、もう死んだも同然だったわけでしょう? イエスさまが殺されて、「もう、俺の人生は終わった」と。「ユダも自殺した。俺たちもあとは死ぬしかないね」と思ってたに違いない。ガッカリして、暗~い顔をして、エマオに下る道を下りてったんですよ。私も以前、そこを歩きましたよ、「この道かぁ・・・」って。下っていくんですよね、どんどん。まるで地獄に向かうかのような道。
 そこに、イエスさまが現れる。復活の主が。そして一緒に歩いて、福音を語り、励ましてくれた。だんだん心が燃えてきて、そして「イエスさまだ!」って気がついたとき、見えなくなった。そのとき、二人が、何と言ったか。「主が道で話しておられるとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。「恐れるな! さあ、もう一度エルサレムに帰ろう!」と帰ってみたら、同じように主に会って燃えた人たちがみんな集まっていた。「私も主に会った」「私も心が燃えた」と。・・・教会が始まった日です。
 ついにこの地上で燃え上がったその最初の火は、永遠に消えることがありません。たとえ消えかけたか見えても、種火は教会の真ん中にちゃんと残っているし、その火から分けてもらえばいつでも再び燃え上がることができる。「もう終わりだ」というようなまっ暗い顔をしてバザーに来た人にでも、簡単に火をともすことができる。火って、つければすぐ燃えるでしょう? もし、自分の中に火がないって言うんであれば、ちゃんともらってください。み言葉で燃え上がってください。ご聖体なんて、熱~い炎ですよ。いただいて、燃え上がって、その火をみんなに分けてあげる。神さまから溢れてくるその炎こそが、教会の「熱」です。それは二千年たってもまったく冷めていない。その熱を、次の世代にもちゃんと伝えるために、私たちの心の内なる火を、しっかりと燃やしましょう。

 その「次の世代」が、今日、ライブやりますよ。この前「サプライズ・ライブ」の話したでしょう? 島のキャンプで、結婚記念の二人を喜ばせるために「サプライズ・バンド」を作って、「サプライズ・ライブ」をやった。と~っても盛り上がって楽しかった。でも来られない仲間たちもいたので、「東京凱旋ライブ」をやろうっていうことになり、それが今日の夜なんです。
 彼ら、毎日練習に来てるんですけど、つきあって一緒にいると、いろいろ変化があり、成長がある。おととい、バンドのドラマーの21歳が「ぜひ話したいことがある。今日、ついに神がわかった!」みたいなことを、目を輝かせて話してくれたんで、それについて二人で熱く語り合いました。彼は今キリスト教の大学に通ってるんですけど、そこの授業で先生が言ったひと言が心に響いて、目が開かれたそうです。そのひと言っていうのが、何でもないような短い言葉なんですけど、こういう言葉です。
 「神は何も求めておられない」
 本質的に、神は与える側であって、私たちは受ける側だということを表す言い方です。親子に例えるならば、親はただただ愛を与える側で、求めるのは子どもの方。・・・おおまかにはそういうイメージでいいと思う。
 神学のひとつの基本ですね。神さまは完全な方だから、何かが足りないってことがない。もし「あなたから何かをしてもらわない限り、私は満ち足りることができません」なんていう神だったら、不完全な神ってことになり、神でなくなる。神の本質は満ち足りていて、愛そのもので、そこからすべてが溢れてくるんです。われわれ被造物、神の子、人間、すなわちこの私はそこから溢れてきたものであり、そこから溢れてきたものをいただく側。・・・ただもう「ありがとう」「嬉しい」「ホントに心から感謝!」という側。
 天の父は、与える側で、私たちは受ける側。なのに、いつの間にか私たちは、神さまがこの私に何かを要求しているように思い込むことがある。「私はもっといい人にならなきゃならない」「神さまのためにこれを捧げなきゃいけない」「こんな自分じゃ神さまに認めていただけない」「私のように罪深い人間は神の裁きによって滅びるんじゃないか」。・・・そんなこと、神さまは、ひとっかけらも思ってないのに。
 もちろん、「いい人」になるように神さまは上手に育ててるんでしょうし、その意味でなら「神は私たちの回心を求めておられる」という言い方もできなくはないけど、だからと言って「回心しないならもう愛さない」、そんなことはありえない。むしろ、回心せざるを得ないまでに愛し続け、与え続ける方です。
 神はただただ命を与え、ただただ愛を与え、ただただ親心で包んで生かしている。・・・普段、われわれはそれに気づいていない。だから、それにピンとくる瞬間って、すごく大事。今、この説教でピンとくる人がいてほしいですよ。21歳の彼にとっては、おとといがそうだった。今まで自分は、「神は自分に何を求めてるんだろう」って、一生懸命考えて、「神さまのために生きていこう、神さまに自分の生き方を捧げなければ。でも、自分にそんなことできるだろうか」、そんな思いで、いろいろ悩んだり、探し求めていたりしたけれど、ハタと「与える神」に気がついて、感謝と喜びにあふれた。
 親は与える側。子どもはただもらうだけ。・・・それでいい。
 皆さんだって、もしも自分の子供が「親のために生きて行こう」「親に自分の生き方を捧げよう」「でもそんなことできるだろうか」なんて悩んでたら、「やめてくれ」って言うんじゃないですか。神は、ただただ与えることを喜びとしている。わが子の求めるものを与えようとしているのです。
 今日の福音書で、イエスさまが最後に「わたしはみんなに仕えるために来た。みんなの身代金になるんだ」って言ってますでしょ? みんなが罪の闇の中でひどい状況であるときに、「このわたしが身代わりになって、身代金になってあなたを救う」と。そうして一方的に払われた身代金は、もう返ってこないし、捨てたも同然なわけですよ。でも「わたしはそうなりたい」ってイエスさまが言っている。これは神ご自身の思いなんです。神は私のためにすべてを与えてくださる方だっていうことを、弟子たちはイエスの十字架と復活で知ったんです。
 「ホントにそうだったんだ。イエスさまはこの私を命がけで愛してくれたんだ。私、なんにもしてないのに。こんなダメな私なのに。それどころか裏切ったのに。神は私を、こんなにも愛してくれている」。・・・復活の主に会って、ゆるされて、弟子たちは目からうろこ。
 21歳が、「ああ、神は愛そのものなんだ」と目覚めたように、その愛を知ることが、熱い炎になる。そして「神は愛だ」と他の人にも伝えに行こうとする。復活の主から託された使命として「伝えに行こう!」。そうして教会が始まったんです。この情熱は、今日このバザーの日にも、消えずに燃えているはず。今晩のライブの中でも燃えているはず。そうでなかったら、教会とは呼べない。
 私のために命を捨ててくれた、皆さんの真の親である神。「父よ、あなたを信じます」って、このミサの中で祈ってください。そして、その愛を人々にも宣言してください。「それは義務(・ ・ )だ」って、ベネディクト16世がパウロ6世の言葉を借りて言ってました。「してもしなくてもいいことではありません。義務(・ ・ )です」と。しかし、その義務は、なんとうれしい義務か。熱い火に促され、やりたくてやりたくて、たまらない義務なんですよ。

 今晩のライブのもとになった「サプライズ・ライブ」のこと、「福音の村」っていうホームページで、全国に広まりましたでしょう? 結構大勢の方、読んでるんですよ。全世界にも広まってます。インターネットですから。
 実は最近、韓国からもお便りが届きました。英語のお便りです。私は英語ダメなんで、翻訳してもらって読んだんですけど、韓国のシスターからのお便りでした。
 「毎週あなたの説教を、読んでいます。心に触れる言葉に感動し、信仰を深めてくれる説教を楽しみにしています。私の説教でも、よく引き合いに出すようになりました。とりわけ、最新の『サプライズライブ』『サプライズバトル』の二つのお話には深い感動を覚えました。この感謝の気持ちをどうにか表したくて、お便りいたしました。あなたとはずっと前から知り合いだったような親しみを感じています。多摩教会はとても幸いな共同体であると思います。この手紙もサプライズでしょうか。あなたと多摩教会に祈りを捧げます」
 ・・・というような内容なんですけど、このシスター、どうして日本語の「福音の村」を読むことができるかというと、こう書いてありました。
 「実は私の81歳になる父が、2年前にがんの手術をしました。彼は日本語が非常に上手で、日本人が驚くほどです。その父はホームページ『福音の村』で、晴佐久神父の説教を毎週熱心に読んでいます。最近の彼の幸いな日課は、その説教を韓国語に翻訳して、自分のブログで公開することです。翻訳が終わるとすぐに私にも同じ内容のものを送信してくれます」ということでした。それだけでも私、感動したんですけど、さらにこう書いてありました。
 「ひとつだけお願いをかなえてくださるのであれば、私の父に手紙を書いていただけないでしょうか。彼はがんを患っていたようには思えないほどですが、今も薬を服用して治療中です。もうすぐ彼の誕生日がやってきますので、神父さまのお手紙は、きっと最高のプレゼントになるでしょう」と、そういうお便りでした。
 で、私も当然、お父さまにサプライズな手紙を書こうと思ったんですが、考えてみれば、彼はこれを毎週読んでるわけですから、手紙よりもこの説教で話した方が話が早いというか、もっとサプライズになるじゃないですか。(笑)この話を世界中の人と共有できますし。この説教は、今週中には「福音の村」に載りますから、お父さまも読み始めるわけですよね。先ほどの「おしゃべりコーナー」の話を読んで、「おお、多摩教会はバザーか・・・」とか思うわけです。でも読み進めるうちに、「韓国のシスターから手紙?・・・、父は81歳?・・・、『福音の村』をブログに翻訳してるって・・・これ、オレじゃないか!」ってビックリ。(笑)・・・目に浮かぶようでしょう? 楽しいですね、インターネット。
 というわけで、この説教で直接、お父さま、あなたにお話しします。
 シスターのお父さま、あなたの、まさに「使徒的情熱」は素晴らしい! あなたがそうして、病気を背負いながらも、福音をみんなに伝えたいと願って、大変な翻訳を続けていることを神さまはどれほど喜んでおられるか。晴佐久神父の話は長いのに、それを韓国語に翻訳して、毎週ブログにアップするのは簡単なことではないでしょうが、それでどれほど多くの人が救われているか。あなたの心の中に燃えている、その熱い聖霊の火がどれほど尊いものかを、あなたはよくご存じのはず。あなたの尊いお働き、福音を伝える熱い心に、神さまが特別の祝福を与えてくださいますように。そして、あなたのその努力で救われた人が、他のつらい思いをしている人にも福音を語り始め、福音の炎が燃え広がりますように。
 今日のミサを、あなたのためにお捧げいたします。

2012年10月21日 (日) 録音/10月26日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英