天上のミサに憧れて

2012年11月4日年間第31主日
・第1朗読:申命記(申命記6・2-6)
・第2朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ7・23-28)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ12・28b-34)

【晴佐久神父様 説教】

 11月、死者の月に入りました。
 1日は諸聖人の祭日。2日が死者の日。そして多摩教会では3日に、カトリック五日市霊園へ墓参に行くことになっており、昨日、バスで墓参に向かいました。みんなで、遠足気分で、心ひとつにして楽しく行ってまいりました。
 「墓参を楽しく」はどうかって思うかもしれませんけど、いや、墓参って楽しいことですよ。今は天にある方々と心ひとつにして、天国の入り口としてのお墓で共に祈るっていうのは、これは楽しいことであるはずです。
 ただ、当日朝、教会にみんなが集まった時はどんより曇っていて、前日は「明日は快晴」って聞いていたので何となく気が重いというか、もっとスカッと晴れた墓参ならよかったのに〜って、みんな「神父さん、なんとかして」って言う。で、私もそこは「晴佐久」ですから、「お任せくださいっ!」と。その辺はお手のものですから、墓地につく頃はスカッと晴れてね、「どうだっ!」って感じでしたけれど。
 私、これ、お手のものなんですよ。「晴らす」こと。これには、コツがある。
 そもそも、太陽はいつも光っていて、けれども雲が広がっていて日の光が届かない、それが「曇り」ってことですよね。晴れるっていうのは、その雲がない状態のこと。だけど、曇りの日のみんなのイメージだと、「太陽が見当たらない。だから太陽を出してくれ」っていう感じ。でも実は、太陽はもうそこにあるんであって、むしろ「邪魔な雲を払う」、これが大事なんですよ。太陽を求めるんじゃなくて雲を払う。おんなじことを言ってるようですけど、ここ、決定的に違うんです。
 これは信仰においてもホントに基本的なことであって、私が得意なのは、その「邪魔を取る」ですかねえ。本来救われているのに、もうすでに愛は注がれているのに、何か邪魔があるからそれがわからなくなっている。それなら、その邪魔さえ取り除けば、本来の力がちゃんと届く。・・・ここが肝心なんですよ。
 みんな、勘違いしてると思いますよ。「もっと神に愛されたい」とか「本当の幸せを求める」とか、なんか、これからどこか遠くにそれを探しに行くようなつもりでいる。今はないものを、何らかの方法で得ようとするような感覚。これが、間違いなんです。願っているものは、もうあるんです。惜しみなく神の愛は注いでいるし、たとえあなたの心が塞いでいても、状況がどれほど悪かろうとも、真の幸せである救いの喜びは、もうちゃんとすべての人に注がれているのに、邪魔がある。
 だから私は、「さあ、神さま、愛をください」とは言わない。「邪魔よ去れ」と言う。そうすると愛に満たされる。何かを願うときにも「さあ、それをくれ」って言う前に、まず「何が邪魔してるんだろう」って考える。「太陽よ出ろ!」よりも、まずは「雲よ去れ!」と願う。そこがコツ。水不足で雨乞いっていうんなら、雨宮神父さんに頼んでいただくとして、私に「晴れ」を願うなら、まずは雲を取り除くことを第一にしております。皆さんも、心が晴れない、気持ちが曇ってるっていうんであれば、ただ「晴れ」を求めるんじゃなくて、自分の中で何が曇ってるんだろう、何が邪魔してるんだろうって考えて、それを取り除く。そうすると、スカ〜ッとね、神さまの世界の輝きがもう、目に見えるようですよ。
 そういう意味では、日頃、日常生活でイライラしたり、いろんな邪魔があって神の愛がわからなくなっている私たちが、時にはお墓に行って、もはや天においてなんの邪魔もない、なんの曇りもない世界を生きている方たちと交わって、スカッと天とつながる。それが「墓参」ってことでしょう。「昔は良かった」とか「あの人も亡くなって寂しい」とか、そんな暗い思いに浸る場所じゃないです。あそこはもう天国の入り口ですから、この世の邪魔のない世界です。五日市霊園、山あいで晴れると気持ちいいですもんね。スカ〜ッとこう、天地のつながる場所。墓地の聖堂でミサを捧げましたけど、まさにこの世のさまざまな煩いを超えて、それこそ、第2朗読で読まれたとおり、大祭司イエス・キリストがすべてを天に捧げているっていう、そんな現実を、事実を、真実を、味わう所。
 昨日の11月3日は、まあ実に気持ちのいい墓参でありました。

 あの墓地には、私の両親の墓もあるんです。私の父は準備のいい人でしたから、墓地が売り出されてすぐの時に、「どうせ使うんだから」って子どもたち連れて下見に行って、斜面を3段上がった所を、「ここがいい。ここは日当たりがいい」って言うんですよ。で、私は心の中で、「父さん、日当たりって言ったって、骨壷には当らないよ;」って思ったんですけど、今思うと「日当たり」って、なかなかシンボリックなことばですね。
 父は「日当たり」が大好きで、マンション選ぶんでもなんでも、「よく日が当たる」っていうのをすごく大事にしてましたけど、その思いっていうのは、期せずして今や、ホントに究極の日当たりのいい所でかなってるわけです。真っすぐに日が当たるという意味では、天国は邪魔な雲が一切ない所ですから、神の愛を100パーセントそのまま受け止められるわけで、まあ、日当たりの良いお墓でそんな天国を思ったらいいでしょう。
 昨日はその両親の墓もお参りしましたけど、この息子はせっかく行ったのに、「ああ、そうだ。花忘れた~;」なんて調子で。でも、先日出版した『天国の窓』っていう詩集がありますでしょう。あれなんかは、冒頭の詩はちょうどそのころ亡くなったばかりの母を思って書いた詩ですから、花の代わりにあの詩集を墓前に捧げてきました。そのままだと雨に濡れてしまうから、ジップロックできちんと包んで置いてまいりました。どうぞ今度五日市霊園に行ったら、3段目の晴佐久家の墓にもお立ち寄りください。誰かが持ってっちゃわなければ、詩集が供えてありますよ。なにしろこの詩集、タイトルが『天国の窓』ですからねえ。お墓って、まさしく「天国の窓」でしょ?
 神さまからの愛が、真っすぐにこの私に届く。墓参とか、今日のような死者のために捧げるミサはそんな恵みのときです。今日は11月の第一主日ですから、亡くなられた方々のお名前を読み上げて特別に祈りますけれど、こういうときは、私たちが何かをするというよりは、天を生きている方々と共に、天から真っすぐに届いてくる神さまの愛を受け止める、そういう恵みのときです。皆さんの心にも、今日のこのミサにおいて真っすぐに日の光が差し込んでいます。

 先ほどイエスさまが、「神を愛し、人を愛せ。これが第一だ」って言いましたでしょ。イエスさまに「第一の掟は何ですか?」って聞いた、この質問は、いい質問です。大事な質問です。いろんな余計なこと、いろんな邪魔なこと、それが私たちの心に溢れてますから、「一番大事なことは何ですか?」っていつも問い直すっていうのは大切なこと。いい質問です。
 それに対して、イエスが「第一は、神を愛せよだ」と答える。これは、「神に愛されていることに気づけ」っていうのと同じことです。だって、愛って一方通行じゃなく、愛されたら愛してしまうものですから。神に愛され、神を愛する。すなわち、「神と愛し合え」ってことでしょ。まあ、これが第一であるのは良くわかる。
 そして「第二は」って言います。これ、「第一の掟は何ですか?」って聞いてるのに、第一を答えた後で「第二は」まで言うのは余計なことのようだけど、そうじゃなくって、この第一と第二っていうのは、一緒のことなんです。だからこそ、イエスさまは「第一の掟は何ですか?」の質問に、第一と第二を一緒に答えている。分けられないことだから。
 神に愛され、神と深く交わり、神と愛し合っていたら、当然のように人とも愛し合う。この第一、第二をひとつにして生きることが、最高の掟。まず、神の愛に溢れて、それでこそ人を愛せるという、その順番という意味では第一、第二ですけどね、でもイコールです。神の愛が溢れちゃったら、必ず隣の人にもその愛が及んでいく。
 この「神を愛し、人を愛する」ということが、私たちにとって、何にも代え難い、この世に生まれてきた意味そのものです。生きていくために、唯一それさえあればという、大切なもの。神と愛し合い、人と愛し合うこと。それをイエスさまは教えました。そう教わったんだけれども、私たちは日々神を忘れ、人に冷たく生きている。だから、墓参や追悼のミサで、亡くなった方たちと交わることが大事なんですよ。なぜなら、亡くなった方々は、この「神を愛し、人を愛せ」っていうことを今は天において100パーセントできてる人たちだから。
 もちろんみんな、生きてる間はできなかったことですよ。神の愛に気づかず、神への愛を忘れ、神の子同士ぶつかって争って、排除して。そういうことを、私たち現にしています。神を忘れちゃってる日々、愛を忘れちゃってる日々が、現にあります。誰もが生きてる間はそうだけれども、天においてはそれができる。地においてそれが完全にできたのは、イエス・キリストだけです。つまり、イエスが完成形なんです。私たちは少しずつ、少しずつ、この「神を愛し、人を愛せ」という完成形、すなわち、キリストに近づいてる途中なんです。イエス・キリストの(わざ)によって、聖霊の働きによって、少しずつキリストに似たものとされる。そして、ついに天という完成形の世界に入っていった人たちは、もう邪魔のない世界ですから、神さまを目の当たりにして、ホントに神と愛し合い、また、お互いにホントに深い交わりをもって愛し合い、そして、まだ生きている私たちのことも、まったくとらわれのない、心残りなことのない思いで愛してくれている。そんな人たちと交わることで、励まされ導かれて、完成形に近づいていく。

 スカーッとした、まっすぐな愛が天には溢れていて、私たちはそこに向かっているっていう、そのプロセスを信じることが大事です。「神を愛し、人を愛せ」って言われて、「ああ、私、そんなことできません」って、ちょっとがっかりするのは当然です。「そんなことはやってますよ、ハハハ」って胸張れる人は誰もいないでしょう。けれども同時に、そこに向かって私たちは生きているし、いつか完成して皆ひとつになる。今はそのプロセスを生きているという希望は持ち続けてほしい。そういう希望に支えられて歩んでいけるのだから。
 だんだん皆集められて、最後はひとつになるっていうのは、とても教会的なイメージです。昨日もミサで参加者に、「自分もここのお墓に入る人は?」って聞いたら、ほとんどの人が手を上げましたから、「じゃあ、いずれここでみんな一緒に暮らせますね」と申し上げたら皆さん笑ってましたけど、考えてみると、そうして最初はバラバラだったのが段々集められて最後はひとつっていうのは、とても教会的というか、神の国の本質です。生まれた時はみんなひとりですし、それぞれバラバラですけど、親と出会い、兄弟と出会い、友達と出会い、パートナーと出会い、そして教会と出会い、少しずつひとつになっていくのが天国への旅路ってことで、最後は本当にキリストのもとでひとつになる。共同墓地って、そんな一致のシンボルなんでしょうね。
 今日のミサでは、後ほど追悼する方々のお名前を奉献文の中でお呼びしますけれども、その方々は、何の邪魔もない、汚れのない、天の一致を味わっている方々です。第2朗読では大祭司であるイエスが「聖なる方、汚れのない方」って言われてましたけれども、そのキリストとひとつになって、聖なる、汚れのない存在として天を生きてる。亡くなったご主人とかね、先に逝った友人とかね、まあ確かに、生きてる時はあの人もこんな悪いところがあったとか、こんな欠点を抱えてたっていう人でも、今は天で清められ、聖なる存在として、「神を愛し、人を愛する」っていう最高の境地を生きてる。永遠の命を生きるその方と、今日深く心を通わせて、私もそこに向かっていくと信じる、これは希望です。

 「名前を呼ぶ」っていうのはとっても大切なことです。奉献文の中で、一人ひとりの方をちゃんと思い起こして、そのお名前をきちんと読み上げます。先ほどミサの前に、あらかじめ奉名帳に目を通してお名前を読み上げる練習をしましたけど、何で名前を呼ぶんだと思いますか? 名前を読み上げて、この方たちが天国に行けますようにってお祈りするっていうイメージでもいいんですけど、むしろ、この方たちが、もうすでに神さまの愛のうちに天に招き入れられ、神のみ手によって天に生まれ出て、今、天で神さまの栄光の世界に(あずか)って、「神を愛し人を愛する」っていう究極の境地に入りましたっていうことを宣言する。・・・そんなイメージでもいいんじゃないでしょうか。
 それに近いのは、洗礼式のときですね。洗礼式のとき、今年も30人くらい、この祭壇前で洗礼を受けましたけれども、式の初めにお名前を呼びましたでしょ? 最初に「呼名(こめい)」っていうのをやりましたよね。私が「誰々さん」っていうと、「ハイッ」と言ってその場で立ち上がる。
 何でわざわざ名前を呼んで立たせるかっていうと、教会が洗礼志願者に「あなたは洗礼を受ける決意を持ったものとして、今確かにそこにいますか」と確認しているのであり、また、志願者が教会に「はい、確かに私はここにおります。私は救いを信じて、洗礼を望んでいます」ということを「ハイッ」と返事をして表すためです。ですから、教会は名前を呼ぶ。まあ、あえて言えば、「教会は」というより「神が」呼んでるんですけどね。神が名前を呼んで、「わたしの愛を信じ、キリストの救いを受け入れてくれるか」と尋ねる。志願者は生涯最高の返事として、「はい」と言って立ち上がる。
 それは、実は、天国に生まれ出ていく予習みたいなもんなんですよ。先取りなんです。洗礼を受けて、私たちはもう天に入ったも同然っていう恵みの世界を生き始めるんだから。教会があなたの名前を呼んで、あなたが「ハイッ」と答えて立ち上がり、続いて祭壇前で司祭があなたの名前を言ってから、「私はあなたに父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けます」って宣言するとき、すでに、父と子と聖霊の交わりそのものである天国に入るときの呼名が始まってるんです。
 天国での呼名って、まあちょっとファンタジーな想像ですけど、私たち、天の国に生まれ出て行ったとき、名前を呼んでいただけるんじゃないですか? 神さまから。
 「何々さん」
 「ハイッ!」
 「ようこそ、天の国へ」
 それは、この世の名前じゃないかもしれませんね。この世の名前は人間が付けた名前ですから、それ以前に神さまが私を呼んでいる名前があるはず。だって、名前付ける前から、もう私はいるわけでしょ? おなかの中にいるときから。いや、それこそ天地創造の始めから、神さまは私を呼んでくださってるし、神さまに呼ばれて生まれてくるんだから。
 そんな、神さまがお付けになった名前で呼ばれ、しっかりと、この世界にただひとりの存在として、神から愛されて生まれた存在として、「ハイッ!」と答えて顔をあげ、まことの親と相まみえる。死者の月の第1主日にこうして追悼のミサをして、亡くなられた方々の呼名をするっていうのは、そんな天国の交わり、天の宴の喜びを、地上においても表してるってことじゃないですか。そんな天国の交わりは、どれほど幸いなことか。

 昨日の墓参では、ミサをして、墓前でお祈りをして、それから墓前にブルーシートを敷いて、みんな座ってお弁当広げて食べました。楽しかったですよ。ブルーシートの上だけじゃ座りきれないので、隣の「○○家」とか、(笑)ご近所の縁側にも座らせていただいて(笑)和気あいあいと食事をいたしました。
 お墓の前で、みんなで食事なんて変だって思うとしたら、逆じゃないですかねえ。あの墓地に入った方々は、いまはもう天の宴で、神の御前で永遠の命の喜びを共にしているわけでしょう? 「天の宴」ですよ。どうぞ皆さん、楽しみにしてくださいね。皆さん健康のため、長寿のためにいろいろ工夫なさっておられるようで、それはそれでいいんですけれども、その先を忘れないでくださいね。その先・・・「天の宴」が私たちを待っています。
 だから、天国の窓である、天上の世界への入り口であるお墓で、永遠の命を信じる教会家族が共に食事をしているひとときは、何となく神秘的な、大変本来的な、キリストの仲間たちが共にする、幸いな食事でありました。

 こうして私たち、ミサを捧げていますけれども、いつかこの聖なるミサを、天でも捧げることができるっていうイメージを、皆さんもってますか? 本当に天で、本来のミサがあるんですよ。聖なるミサ。司式しているのは、大祭司イエス・キリストです。イエスさまが司式するミサ。この地上でミサを捧げる私たちは、そんな天上のミサに憧れながら、天を仰ぎ見ます。そうして、天に向かう仲間として愛し合います。
 いつの日か、天で、本当にイエスさまが司式するミサに与る。・・・イエスさまの司式ですよ。もう、涙止まらないでしょう。

2012年11月4日 (日) 録音/11月8日掲載
Copyright(C) 晴佐久昌英