イエスさまって、優しいんです

2013年2月3日 年間第4主日
・第1朗読:エレミヤの預言(エレミヤ1・4-5,17-19)
・第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント12・31-13・13)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ4・21-30)

【晴佐久神父様 説教】

 イエスさまって、優しいんです。ホンットに優しいんです。どんな人にも、優しい。どんな場合でも、優しい。絶対に優しい。・・・これは、キリスト教の基本中の基本。
 もしも「キリスト教憲法」なんてのがあるんだったら、その第一条に、「イエスさまは優しい。あなたに優しい。どんな罪びとにも優しい。どれほど自分は救われないと思っていても、イエスさまは優しい。優しいイエスさまこそが、救い主である」。そう書いてあるはず。・・・これは、キリスト教の基本中の基本です。
 何でこんな当たり前のことを改めて言っているかというと、これと同じ説教を、1年以上前ですか、この説教壇でお話したんですね。覚えている方もおられるかもしれない。「イエスさまって優しいんです」っていうその日の説教は、ちょうど放送収録の日だったので、録音されて、そのままFEBCのラジオ番組で放送されました。
 たまたま、それを聞いていたプロテスタント教会のある牧師先生が、この、開口一番「イエスさまって優しいんです」っていう説教を聞いて、びっくりして、衝撃を受けたそうです。そしてそれ以降、ラジオ放送で私の説教を聞き続け、講演会などのCDを聞きまくり、「晴佐久(ぼん)」を読み、ホームページ(「福音の村」)で多摩教会の説教を読み続け、やがて昨年の春ごろでしたか、どうしても(なま)を聞きたいといってこの教会のミサに現れ、それから毎週通うようになったんですよ。
 ちなみに、日曜日のミサに来られている皆さんは、たぶんその先生に会ってません。彼はいつも土曜夜のミサに来ていたので。なぜだかわかりますか? 教会の牧師だからです。(笑)日曜日は当然、自分の教会の礼拝がありますから、土曜の夜のミサに通っておられ、毎週の入門講座にも出席されていました。
 実はそのころ、私はその方が牧師先生だとは知らなかったんですよ。よく見かけるなあと思っている程度でした。ですから、先週、彼が面談したいと言ってやって来られ、初めてゆっくりとお話をして、ビックリしました。「え? 牧師先生だったんですか・・・」と。ここから、ほど遠くない、ある教会の牧師をしている方でした。
 彼は話してくれました。
 「『イエスさまって優しいんです』っていう、あの説教で、私の人生は変わりました。それまでの信仰と、まったく変わりました。ホントに感謝しております。以来、私もそのような説教をし、そのように福音を語るようになり、そして、毎週のミサに生かされたことを思って、私の教会でも、毎週聖餐式(せいさんしき)をするようになりました」と。プロテスタントの多くの教会では、聖餐式は月一度くらいが普通だと聞いたことがあります。
 「今日は、ホントにそのことを感謝申し上げて、きちんと自分の信仰を神父さまにお話したくてまいりました」という、その話を聞いて、今度は逆に、私がびっくり。だってですよ、皆さんも不思議に思うでしょう? 「『イエスさまって優しいんです』っていう説教を聞いて衝撃を受けた」って、「ちょっとどういうこと?」って感じじゃないですか? これが、開口一番、「イエスさまって冷たいんです」(笑)、「ホントに意地悪なんです」(笑)って言ったら、そりゃ衝撃を受けてもしょうがないでしょうけど、「イエスさまって優しいんです」って、そんなこと当たり前じゃないですか。
 ところがですね、これは私たちもホントに気をつけなきゃならないことですけど、カトリックであれプロテスタントであれ、キリスト教みんなが気をつけなきゃならない問題が、そこに(はら)まれているんですよ。つまり、「イエスさまって厳しいんです」って思ってる人が非常に多いっていう現実ですね。
 神さまって厳しい方、人を裁く方。イエスさまって厳しい方、人を縛る方。キリストの教会って厳しい教会、人を掟で苦しめる教会。キリスト者って厳しい人たち、互いに裁き合って相手を責める人たち。そう思い込んでいる人たちが、現実にいる。しまいに、自分に対してまで厳しくなっちゃって、自らを裁いたり、責めたりするような、そういう傾向のキリスト教ってのが、確かにこの世にはある。でもそれは、「キリスト教」か。
 まあ確かにね、厳しい側面も必要ですよ、少しはね。でもそれは、「少しは」です。教育もそうでしょう。「体罰が必要」なんていうのはおかしいでしょう? あまりにも厳しすぎる。厳しさっていうのにも、程があるわけじゃないですか。そりゃあ、おいしさを引き立てるために、ピリッとした辛みも役に立つっていうのはわかりますよ。お寿司なんか食べたって、ちょっとわさびが入っているとおいしい。でもそれは、あくまでも、お寿司のおいしさを引き立てるためでしょ? 優しいイエスさまを引き立てるために、時には少々の厳しさが役に立つこともあるかもしれないけど、だからといってわさびだけ食べる人いますか?(笑)そんなの、涙出るだけですよ。みんなで仲良くおいしいお寿司を食べてるんでしょ? 厳しさだけだなんて、それこそイエスが最も批判した律法主義でしょう。
 イエスさまって、優しいんです。それは、キリストの教会の本質です。イエスさまは、優しい。そんなあなたに優しい。そんな罪びとに優しい。みんなから「お前はだめだ」と言われてる人にこそ、一番優しい。だから「救い主」なんじゃないですか。
 話を聞けば、その牧師先生も、厳しい神、裁くイエス、責め合う信者たち、そういう現場で非常に苦しんで、ずっと重〜い気持ちで生きていたから、「イエスさまって優しいんです」っていう、そのひと言に救われたんです。「ホントに嬉しかった」って言ってましたし。
 今やですね、「そのような愛の神の福音を語って、毎週聖餐式をして、みんなに優しいイエスを伝えていると、信者さんがだんだん元気になって、訪れる人も増えてきて、受洗者も増え、この前は十数人の洗礼式をした」って言ってました。「これはもう本当に、うちの教会としては嬉しい出来事でした」と。
 なんと晴佐久神父、プロテスタントの信者増やしてるんですよ。(笑)いいことでしょ? 素晴らしいことですよ。いや〜、先週の彼との面談は嬉しかったね。
 ちょうど昨日、その先生から面談のお礼の手紙が来てね、面談で私が「よかったですね、そういうことはすべて神のみ心であり、聖霊の導きであって、あなたは今、聖霊体験をしているんですよ」って言ったことも嬉しかったらしくて、「そう言われたときに、私の霊が感動で震えておりました」って書いてあった。そうして「これからも福音宣言をしてまいります!」という、そんな嬉しい手紙を昨日いただいたので、今日、「イエスさまって優しいんです」と、改めてお話したくなったというわけです。

 皆さんの中にも、「怖い神さま」って思ってる人、いませんか? 「裁くイエス」に(おび)えてませんか? 厳しい信者同士、責め合ったりはしてないでしょうね? まあ、この教会には、そういうことはないと信じますけれども、時々、自分に厳しい人っていうのもいますからね。そういう方は、優しいイエスさまに助けてもらってください。・・・それが、信仰。
 今日の福音書で読まれた、このナザレの人たち、厳しいですね〜。すごいでしょ、イエスさまを崖から突き落とそうとしたんですよ。こんな厳しい裁き、ありますか? 私もナザレに行ったとき、この崖を下から見上げましたけどね、これは突き落とされたら死ぬわっていう崖でしたよ。今でも、ナザレの町はずれに、ちゃんとその崖があって、イエスが突き落とされそうになったのは、確かにそこでしょう。町はずれの崖はそこしかないからね。その崖を見ながら、そうか、ここにイエスさまを連れて来て、突き落とそうとしたのかって・・・。
 じゃあ、人々がなぜそこまでするかっていうと、やっぱりこれ、当時のユダヤの普通の感覚なんでしょうけど、「身内意識」っていうやつですよね。身内には優しくして、よそ者には厳しい。なのに、イエスさまが、よそ者に優しくして、身内だけをひいきしてくれないから、それでみんなキレてるわけですよ。
 だけどイエスさまの教えは、「身内だの、よそ者だの、そんな区別はない!」っていう教えですね。「あなたたちが排除している罪びとも神の子だろう? あなたたちが救われないと言っている異邦人も、み〜んな神の子だろう? だったらみんな身内じゃないか。なぜ線を引いて、よそ者に厳しく、身内に優しくするのか。そんなこと、神さまはお望みではない」と。「わたしたちの神さまは、善人にも悪人にも優しい神さまじゃないか。自分の身内にだけ挨拶したところで、何の得があるか」。と、これこそが、優しいイエスさまの教えの基本でしょ? でもそれが、この身内意識で固まっている人たちには受け入れられなかった。崖から突き落とそうとするほどに、受け入れられなかった。そこに優しさは、かけらもない。
 でもこれ、私たちの中にも、そういう心ありますよ。カッとしたり、身内で盛り上がったりしてね、何かこう身内意識で固まっちゃって、地元のチームを夢中になって応援するファンみたいに、時に自制心を失うほどに興奮する。
 あのエジプトの暴動なんか、昨年すごかったですよね。あれ、同じエジプト人ですよ。サッカーチームの互いのファン同士、サポーター同士が、試合の後で、ピッチになだれ込んで殺し合った。70人以上死んだんですよ。ちょうど先週、そのときの首謀者たち20数人に、死刑判決が出ましたよね。これもまたすごいね、死刑判決。
 こういうことになっちゃうのは、でも、私はわかりますよ。身内意識で盛り上がって興奮していると、「敵をせん滅しろ!」になるんですよ。日本の戦争も、かつてそんな戦争でした。アメリカとイラクの対テロ戦争なんてのも、そんな感じだった。もう身内意識だけになって、「危険なよそ者は消せ!」ですよ。
 イエスはそんな私たちに、「よそ者なんていないよ」って言ってるんです。「みんな身内だろ」と。「優しくしようよ。身内には優しくするんだろ?」と。「だったら、みんな身内なんだから、お互いに優しくしようよ」っていう、ひじょ〜にシンプルな当たり前のこの福音で、私たちは救われる。
 裁き合っているような現場で一番大切なのは、イエス・キリストの教えです。「敵を愛せ」です。いや、イエスの言いたかったのは、正確に言えば「そもそも敵なんていない。み〜んな神の子だ。みんな身内だ」でしょ? これで世界は救われるはずじゃないですか。イエスさまは優しいんです。誰にでも。どんな相手にでも。どんな場合にでも。一番つらいときにこそ。一番見捨てられて、誰ももはや一緒にいないような、そんな孤独の底で、イエスさまが一番優しい。私たちもそうありたい・・・それが信仰です。

 先ほどの答唱詩編で一生懸命歌ってくださった方、実は先週、彼女のご主人が亡くなりました。今週お通夜とご葬儀です。もちろん皆さんご存じですよね、ご主人。奥さまが押す車椅子で、いつも来られていた。
 重いご病気で、一時はもう医者もあきらめていたのに、昨年、奇跡的に良くなって、そのときは、立ちましたよね。あれには、私、感動しました。歩いてご自分で聖体拝領に来られて。初めて立ったのを見たら、結構背が高いんですよね。とっても優しくって、一途(いちず)なところがあって、才能があって。有名な作曲家なんですよ、ご存じですよね。本当に才能のある音楽家で、人格者で、そして信仰があった。つらい現実の中で、祈って、耐えて、自分のすべてを捧げていた。そういう方でしたが、先週突然、亡くなられました。
 私は、彼のお世話にもなりましたし、教会の仲間でありましたから、非常につらい気持ちもありますが、まあ、苦しみから解放されて、今は天で、大好きな美しい音楽を奏でているかと思うと癒やされます。彼の苦しみは相当でしたからね。足の壊疽(えそ)は痛かったでしょう。だんだん壊疽が進んで、指を次々切断していくんです。私たち、ささくれひとつでもあんなに痛いのに、切断はどれほど痛かったでしょう。最後の頃は、手もやられて、最後は全身に耐性菌が回って、手の施しようがなく、非常につらい様子だった。
 先週、彼の病院に行ったときのこと、お話しました。私の声を聞いて、聞き覚えがあるという看護士さんとの出会いの話ですけど、その後すぐに亡くなったんですよ。ただ、その彼が、今本当に、まさにお優しい神さまに抱かれて、お優しいイエスさまに褒められているかと思うと、とっても、私自身も励まされる気がいたします。仲間だったから。
 彼とは仲間だという意味は、福音を伝える仲間という意味です。昨年のクリスマス、一緒に素晴らしいクリスマス会をやったのは、まさに福音を伝えるためでしたから。24日のミサを挟んで、23日には救いを求める近隣の方たちのために、「祈りと聖劇の集い」をやりましたし、25日には心の問題を抱えている方たちのために、「心の病で苦しんでいる人のためのクリスマス会」をやりましたが、「そこでみんなに素晴らしい聖歌を聞かせよう、そして、みんなの心に信仰を伝えよう、ホントの福音を感じてもらおう」そう呼びかけたら、彼はそれに応えてくれたんです。ふたつのクリスマス会で、合唱団の指導者として、当日の指揮者として、一生懸命手伝ってくれました。
 「みんなに美しいアヴェ・マリアを聞かせたい」っていう思いで、彼が練習を指導し、彼が指揮をして、「アヴェ・マリア」を歌ったじゃないですか。合唱団といってもこの教会の仲間ですし、みんな素人ですから大変だったと思いますよ。人数も少ないし、パートも偏っているので、彼がわざわざ今回だけのための編曲をしてくれたんです。車椅子で10回近く練習に来られて、一生懸命指導してくれました。厳しかったみたいですよ。「そこっ! 音が違う!」とかですね。でも、その厳しさは、福音を引き立てるための、キリリと辛いわさびでしょ? 愛のある厳しさで、それによって美しい「アヴェ・マリア」が、本当に福音としてここで歌われた。この祭壇に合唱団が並んで。
 特に、「心の病で苦しんでいる人のためのクリスマス会」は、昨年が初めてですし、心の病は本当につらいですし、なんとか美しい音楽で安らぎを感じてほしかったので、合唱団を「手伝ってほしい」って言ったら、彼、本当に一生懸命指導して、歌の練習をして、指揮をして。私、歌もさることながら、指揮に感動しました。車椅子からの指揮は本当に胸を打つものがありました。病気も進んでいましたから苦しかったでしょうし、体も大変だったでしょう。今からほんのひと月ちょっと前の話ですよ。
 車椅子の指揮で歌われた、カッチーニの「アヴェ・マリア」、美しい曲だった。歌詞は「アヴェ・マリア、アヴェ・マリア」の繰り返しですけど、その心はいうまでもなく「天使祝詞」そのものです。
 「アヴェ・マリア」の歌詞、知ってますよね? 「聖母マリア、罪深い私たちのために、今も、死を迎える時もお祈りください」でしょ?
 「罪深い私たち、弱い私たち、自分で自分を救うことのできない私たち、苦しんでいる私たち、痛い私たち、病気で、困難の中で、孤独の底で、もうどうすることもできずに、ただただ救いを求めなければならない私たちのために、教会の母マリア、病める者の母マリア、お祈りください」。それが、「アヴェ・マリア」でしょう?
 「アヴェ・マリア」を指揮して、その歌声に包まれている彼は、まさに聖母マリアに祈られたんですよ。なにしろ、そのひと月後に、彼はその「死を迎えるとき」を迎えたんだから。彼が死を迎えるときに、聖母マリアが祈らないはずがない。まさにその、一番つらいときにこそ、優しいイエスさまに「ぜひ、救ってあげてください!」って、聖母マリアが取り次いで祈ってくれる、これが母の祈りじゃないですか。
 神の子が一番つらいとき、一番弱っているときにこそ、なんとか祈りをもって支えようとする。それこそがキリスト者の祈りですし、キリスト者の中でも最高の模範である聖母マリアの祈りです。そんな祈りに支えられ、主キリストの優しい愛に見守られて、天の父の慈しみを信じて、天に召されたならば、そこではもう天上の美しい音楽が鳴り響いている。
 マリアさまって、優しいんですよ。キリスト教って、優しいんです。教会って、ホントに優しい。それは、イエスさまが優しいからです。
 イエスさまが優しいのは、・・・神が愛だからです。

2013年2月3日 (日) 録音/2013年2月8日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英