失ったのではない、お返ししたのだ

2014年10月19日年間第29主日
・第1朗読:イザヤの預言(イザヤ45・1、4-6)
・第2朗読:使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(一テサロニケ1・1-5b)
・福音朗読:マタイによる福音(マタイ22・15-21)

【晴佐久神父様 説教】

 いつもミサが始まる前、司祭館2階のブラインドの陰から、ミサに集まる皆さんを観察しておりますが、今日みたいなバザーの日は、駐車場が使えないからバスで来られた方も多くって、続々と集まって来る様子はとってもいい眺めなんですが。
 皆さん、危ないですから、あの前の大通りを渡るとき、気を付けてくださいね。分離帯の切れ目の所。横断歩道も信号もないですし、あそこを渡らないと、えらい遠回りになるのは分かります。私もついつい渡っちゃうんですけれども、結構車がスピード出す所ですよね。
 さっきも見てたら、結構大勢の人が、あそこ渡ろうとして車の切れ目を待ってるんですよ。で、一緒に待ってても、勇気のある人はちょっとの切れ目で、トットットって渡っちゃうし、慎重な人は待ってるから、性格で二手(ふたて)に分かれるんですよね。(笑) で、見てると、なぜか、ご高齢の方ほど勇気があるんです。(笑) あれは危険だと思いますよ。
 第一、あそこ、Uターンする車があるでしょ、そのUターンする車が、渡ってる人たちの後ろで待ってるのを、渡ってる人は気づかない。私は上から見てるから、思わず「危ない!」って。まあ、「車にひかれるのも神のみ心よ」って言うんなら別ですけど、神さまからお預かりしている体ですし・・・、やっぱり大事にしたいですよ。結構いつも、自分のことでも他人のことでも、いろんなことを好き勝手に扱ってますからね、私たち。

 今日の福音書で、イエスさまが言ってるのは、「私たちは神からすべて借りている」っていうことでもあるんです(※1)
 『聖書と典礼』の表紙(※2)には、イエスの言葉が1行だけ、書いてあります。
 「神のものは神に返しなさい」(マタイ22:21より)
 ホント、短い1行です。ワンフレーズ、けれど、もう、強烈なワンフレーズですね。
 「神のものは神に返せ」
 そう聞けば、当然思わされるわけです。
 では、何が「神のもの」か。「返す」って、どういうことか。
 そして気づく。なるほど、考えてみればすべて「神のもの」だ。「返す」っていうからには、借りてるってことだ。
 そういうことが、ぜんぶこのワンフレーズに含まれていて、いろいろ思わされます。
 「命、大事にしましょう」「事故に遭わないようにしましょう」っていうのは、これは自分を守るっていうことでもありますし、当然のことのようだけれど、われわれキリスト者は、「これは神のものだから」っていう感覚があるからこそ、そう言うんです。
 自分の体のことだけじゃない。そもそもこの世界のものは、すべて神のものだ。だから、大切にもするし、感謝もするし、そして、神さまからお借りしてるものだから、ぜんぶ返すべきものだし、何の文句もない。返すにあたってね。
 だいたい、こう、借りてる人っていうのは、何だかいつの間にか「自分のもの」みたいな気になっちゃってますよね。本なんか、絶対返さないでしょ、借りても。自分の本箱にず~っと入ってるうちに自分のものみたいになっちゃって、「返してよ」なんて言われると、損したような気がする。(笑)
 もともと何にもないはずなんであって、今あるものは、神から全額お借りしてるんです。無償でお借りしてるんです。私たち、それを好き勝手に使ってますけど、本来「自分のもの」じゃないんです、これが。
 この感覚は、やっぱり、すごく大切な感覚です。・・・最後はお返しするもの。
 しかも、しぶしぶお返しするっていう話じゃない。最後にぜんぶお返しすることが、なにかとても素晴らしいことなんだっていう思いでお返しする。そのような、すべてお返しする日のために、われわれはお借りしているわけですし、それは、最後、返すときの準備をしてるってこと。

 イエスさまが、ファリサイ派の人たちに、「お金を持って来い」って言うでしょ(cf.マタイ22:18)。 これ、神殿の中の出来事なんですけど、神殿の中にローマ皇帝の顔と名前が彫ってある貨幣を持ち込むなんていうのは、偶像崇拝というか、神殿を汚すというか、まあ、ともかく、律法に背くことなんですよ、本来は。
 でもまあ、みんな、「律法を守ってます」みたいな顔をしながら、結局、ローマには逆らえないし、ローマの貨幣を使うしかないっていうことで、神殿の中に、お金を持ち込んでいるんですよね。まあ、二枚舌なんですよ。イエスはそれをよく知ってる。だからこの、イエスを(わな)にかけようとする人たちに、彼は言いたいわけです、「お前たち、そう言うけど、じゃあ、その貨幣を持って来てみろ。これ、誰の顔だ。誰の名前だ」と(cf.マタイ22:20)
 そう言われるとね、彼らは答えたくないんですね、ホントは。で、しぶしぶ、「まあ、その、・・・ローマ皇帝です」って言うと、イエスがひと言、「じゃあ、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」と(cf.マタイ22:21)
 「神のものは神に返せ」と言われれば、この人たちも黙らざるを得ない。だって、すべては神のものなんだから。
 われわれが「皇帝」、つまり「この世のこと」で頭がいっぱいのときに、イエスさまは、「私たちはぜんぶ神さまのものだ」っていうその存在の原点に、私たちを引き戻します。

 今日、わが教会はバザーやってますけど、なぜかこのお金巡るやり取りの箇所って、よく、バザーの日に当たるんですよ。(笑) これ、A年(※3)の、マタイ福音書の最後の方で、だいたい10月頃に回ってくるもんですから。
 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」ってね、お金をいっぱい教会に持ち込んできて売り買いしてるバザーの日に読まれるんです。(笑)
 もちろん、いいんですよ、貨幣、紙幣、どんどん聖堂に持ち込んでくださって構いません。福沢諭吉でも、野口英世でも、どんな顔でも名前でも、別に構わない。
 しかし、われわれキリスト者は、「この福沢諭吉も、野口英世も、実は神のもの。どんな皇帝であろうが、実は神のもの」って、これだけは、ちゃんと知ってなくちゃならない。
 この世のことで頭いっぱいにして、これは俺のもの、これは皇帝のもの、じゃなくて、実はぜんぶ神のものだ、お借りしてるもの、返すべきものだって、知らなきゃならない。
 もともとゼロであるにもかかわらず、神さまから貸し与えられているという、そういう喜びを大切にしながら、いずれぜんぶお返しする日というのを、恐れるのではなく、楽しみに待ちましょう。なぜなら、すべてお返ししたときこそが、神さまのみ心が完成するときだからですね。神にしてみたら、その日のために、ずーっと貸してあったっていうようなことなんです。もう、それが神のみ心なんだから、あとはお任せするだけ。

 先週、奄美大島に行ってたんですけど、まあ、怖い思いしたというか、ちょっと報告です。
 ご存じのとおり、台風が来てたんですよ。前の週の沖縄のときも台風でね、前後いろいろ大変だったんですけど、先週月曜日は、次の台風が奄美大島を過ぎて、九州付近にいたんですね。で、そんな中、LCC(格安航空会社)ですから、成田から奄美に飛んで行く予定だったんです。5人の仲間とね。
 奄美の加計呂麻島(かけろまじま)に、今、心の癒やしの合宿所を造ってるとこですけど、もう1棟増やすっていう話を現地と相談して、それから、来年の夏の企画をどうするかを仲間たちと地元と相談してって、まあ、そんな感じですけど、飛行機が飛ぶかどうか分からなくて、結構心配したんです。
 今、大きな台風が九州に上陸してるっていう時に、成田を出て奄美大島へ。つまり、台風の上を飛び越してくわけですよね。
 だから、出掛ける前、みんなが、
 「だいじょうぶかねえ、行けるかねえ」って感じだったんで、私、こう言ったんです。
 「これはもう、ぼくらは神さまのために働いているんだし、神さまのための企画なんだから、もし奄美大島に飛行機がちゃんと着いたら、これは神さまが、『さあ行け、この企画、どんどん進めろ!』っておっしゃってるってことだし、飛ばなかったら、これはもう神さまが、『今回はちょっと待て、時が来ればわたしが導くから、今回は諦めろ』と、まあ、そうおしゃってるってことだから、どっちにしたって、いいことなんだよ」って。
 で、その朝、成田から飛行機、飛んだんですけど、・・・結果はどうだったと思います?
 これが、どっちでもないというか、思ってもみないことになったんです。
 飛行機は無事台風の上を飛び越したんですけど。・・・飛行機から見えるんですよ、台風。雲が渦になってるのが見えるんです。台風の上は風がない。不思議ですね、あれも。下は轟々と吹いてるんでしょうけどね。
 で、もう台風は奄美大島を過ぎているんだけれども、まだ強風域にかかってた。だから、降りていくと、だんだん揺れ始めるんですよ。そうすると、機内は全員、「何とか降りてくれ! まさか成田に引き返さないだろうな・・・。頼む、降りてくれ、がんばれ機長!」みたいな、祈るような思いになる。ところが、どんどん揺れが強くなって、さあ、空港が見えました、飛行機の車輪がゴンッと出ました、前のめりにゴ~~~ッて降りていきます、っていう時に、こんなに揺れた経験は珍しいっていうくらい揺れたんです。ドンッ!と落ちたり、左右に振れたりで、もう飛行機の中、悲鳴ですよ、「キャ~ッ!」って。
 そうして木の葉のように揺れ始めると、さっきまでは機内全員、「頼むから降りてくれ!」って思ってたんです、また帰るなんて、絶対にヤですから。それが、滑走路のすぐ上で、ここまで揺れるとね、機内全員、同じこと思った。・・・「頼むから降りないでくれ!」って。(笑)
 「これ、降りれっこないでしょう。無理でしょ、頼むから降りないで!」って、もう、私も気持ちが一瞬で切り替わりました。おもしろかったですよ。機内全員そうだったはず。
 で、どうなるかと息をのんでたら、なんと、タッチ・アンド・ゴーしたんですよ。いきなりエンジンの音がグォ~~~ッと鳴って、また上に向かって飛び上った。地表から何十メートルって所から。
 もう、機内沈黙のまま、上空に戻って、飛行機が安定したところで、機長が、
 「え~、当機は、台風のため着陸できませんでしたので、成田に戻ります」(笑)
 でも、だ~れも文句言わない。「え~っ!?」とも言わない。(笑)
 「はい、帰りましょう、もう結構です。空港見たし、十分です」って感じ。
 さてこれ、その日は私、奄美に行ったんですかね、行かなかったんですかね。(笑)
 成田に戻って、みんなに言ったんです。
 「これは、『さあ、どんどん、この企画進めろ』っていうんでも、『今はまだ待て』っていうんでもない。『簡単にはいかず、いろいろ大変だけれども、諦めずに頑張れ!』と、神さまはそうおっしゃっておられる」(笑)
 そう言って、ツアーを中止せずに、成田に1泊し、翌日は今度、台風が東京を過ぎた直後で、成田から飛ぶか飛ばないか分からなかったんですけど、なんとか飛び始めたのに乗って、結果的には奄美まで行ってまいりました。
 神さまには、「諦めずに頑張れ!」と、「私がついてるぞ」と、まあ、そう言っていただいたと思うんですけど、いや、命からがらでした。行くも行かぬも、神のみ心次第。こっちはどうあがいても、お任せするしかない。あそこで飛行機が落っこっちゃっても、私の存在自体がそもそも神さまからお借りしてるものですからね、「ぜんぶお返しします」って言うべきなんでしょう。

 奄美大島に降りても、これが台風の爪痕で大変なんですよ。レンタカー借りて、南の端の港まで行ってフェリーに乗る予定だったわけですけど、途中でなぜか、自衛隊の車が何台か走っていて、私たち、その後ろにくっついて、ず~っと走ってたんですね。くっついて行ったからいけなかったんでしょうね。コーンが立ってて、「この先土砂崩れ 通行禁止」ていうのが見えずに、現場を視察する自衛隊の車について、入ってっちゃったんですよ。そしたら、自衛隊が先に行けって合図するから、追い越して行った途端、目の前の道が、見事に土砂崩れで、通れなくなってる。自衛隊の人が、「すいません、後をついてくるから、工事関係の人かと思いました」って。(笑)
 で、フェリーの乗り場まで、グルーッと奄美大島の南側を回って、なんとかフェリーに間に合って加計呂麻に渡りましたけど、まあ、ともかく、すべて、人間の計画通りにはいかない。よりによって崖崩れですよ。びっくりしました。
 でも、忍耐してあきらめず、信じて行ったおかげで、今回のように、地元でいい出会いがあり、交流があり、発見があり、浜辺でみんなで、またミサをして、祈りあって、「来年、いやしと救いを求めている若い人たちのために、この企画をがんばって続けていこう。まずは、夏だけの企画じゃなく、毎月集まるチームを育てていこう」と、そういうことを話し合って、帰ってまいりました。うまく行くも行かないも、み心のままに、です。
 神さまからお借りしているすべて、すなわち、自分の人生、与えられた環境、様々なできごと、すべては自分のものではないし、コントロールできるものでもない。いずれは神さまにお返しするものであり、それまでの間、預かっているものをどう使うか。・・・これでしょうね、ぼくらが生きている意味は。
 借りてるんですよ、「私のもの」じゃない。だから、それをどう使うか。そして自分の体も含め、命も含め、やがては神さまにぜんぶ、そっくり、お返しする。
 イエスさま、他のたとえで、「その預かってるもの、ちょっと増やせよ」っていう言い方をする所もありますけど(※4)、「神のものは神に返す」、それを受け入れる。しかも、私たちの「すべて」です、「神のもの」というならば。

 第1朗読(※5)では、「わたしのほかは、むなしいものだ。わたしが主、ほかにはいない」(cf.イザヤ45:6)と、神さまがそう言います。
 「わたしのほかは、むなしいものだ」と。自分のものとか、皇帝のものとか、そういうものは、ホントに「むなしいもの」。
 実はぜんぶ「神のもの」だと気づいて、ホント言うと、神が言うところの「わたしのほか」なんていうものは無いんだっていうことに気づくこと、これを求められてると思う。
 今日もバザーでね、たくさん、いろんな方が来られますから、皆さん、教会もまた「神のもの」だっていう思いで、出会いを大切に育ててください。ぜんぶやっぱり、神さまのご計画なんですよ。それを利用して、何かステキなことを自分の命ある間にやって、それをぜんぶ神さまにお捧げして、そっくりお返しする日を待つ。

 昨日、いやしのミサ(※6)で、毎月来ている方を前に、この「お返しする」話をしながら、しみじみ思い出してたんです。
 15年くらい前、いやしのミサを始めた時から、毎月、遠~い所から、新幹線に乗って来ている方がおられます。毎月です。その方に最初に会った時は、私の講演会でボロボロ泣いてました。話を伺うと、その直前に、大切な娘さんを亡くしてるんですね。
 で、私は確か、ちょうどあの、「日めくりカレンダー」の二行詩のような話をしたんですよ。私が書いた、二行詩の日めくりカレンダーがありますでしょ(※7)。その中に、こういうのがあるんです。
 「失ったのではない
  お返ししたのだ」 (『きっといい日』/「20日」のページ
 っていう二行詩。
 その方は、福音に触れて、つらい中で福音を信じ、「すべて神さまに委ねます」と言ってくださった。
 神さまから頂いたもの、お預かりしたもの、それはぜんぶ、神さまからお借りしているものです。やがてお返しするべきもの。それはときに、大変つらいことですけど、返すことは何かとっても素晴らしいことの始まりなんだと信じます。この私自身もまた、神さまにお返しすべきものであり、いつの日か、返したはずのものがすべて結ばれる日が来ると信じます。
 そのような福音によって救われて、以来、その方は毎月、このいやしのミサに来て、そうはいってもつらい心、そうはいっても思い出しちゃういろんなこと、そんなことを、「いいや、でも、ただ失ったんじゃない。神の尽きせぬ愛のみ心のうちに、お返ししたんだ」という尊い信仰を捧げものとして、日々新たにしているのです。
 私、その方を前に、この箇所をお話していて、「ああ神さま、ホントにいずれは、・・・いずれは、お返ししたことが素晴らしいことだったと知り、永遠の喜びを味わう日をお与えください」と、そう祈る気持ちでいっぱいになりました。
 返していいんです。だいじょうぶです。
 だって、なぜお返しするかっていうと、もう、借りないですむ世界が待ってるからですよ。・・・もう、借りないですむ。そこに、ぜんぶある。何一つ欠けたところがない。だから、もはや何もお借りする必要がない。そういう世界を信じている。そういう神の国が確かに待っているからこそ、私たちは、お返しすることを、むしろ、楽しみにすらする。そのときには、きっと、お借りしていた時のこと、そしてお返ししたすべてのことが神さまのみ心のうちにあったと、そういう目覚めた思いで、ホントの意味で神さまに感謝できるんでしょうね。
 やがて、この私も、それが教会の目の前の道路でなのか、飛行機の中でなのか知りませんけど、ぜ~んぶお返しする日が来ます。
 「神さま、お借りしたこの身、ご存じのとおり、罪深いながらも精いっぱい生きました。こんな私ですが、すべてお返しいたします。お受け取りください」、そういう気持ちで、最後のときを迎えます。
 神さまは必ず言ってくださいますよ、「よくやった。さあお入り。ここに全部あるよ」って。


【 参照 】

※1:「今日の福音書で、イエスさまが言ってるのは・・・」
本日(2014年10月19日〈年間第29主日〉)の福音朗読箇所
「マタイによる福音書」
  22章15〜21節
   〈小見出し:「皇帝への税金」〉(小見出しは、新共同訳聖書による)
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※2:「『聖書と典礼』の表紙」
『聖書と典礼』(発行:オリエンス宗教研究所)は日本のカトリック教会共通の小冊子で、主日のミサ、また、一部の祝日のミサのときに用いられる。
 B6版のものと、少し大きめのB5版のものがあり、通常は8ページ程度から成る。
 ミサは典礼書に従って進められるが、聖書の朗読箇所や、答唱詩編、アレルヤ唱、共同祈願などは、ミサのたびに異なるので、この小冊子が会衆(参加者)に配布され、それに添って進んでいく。
 表紙には、その日の典礼に合わせた、美しい絵画やイコンなどが載っている。
 なお、この説教のあった日の表紙と、その解説は、
  >>> 『聖書と典礼』表紙絵解説 2014年10月19日年間第29主日 参照。
(参考)
・ 「オリエンス宗教研究所
・ 「聖書と典礼」(オリエンス宗教研究所)〈美しい表紙絵の解説は、過去の分も載っています〉
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※3:「A年」
 カトリック教会には、特有の暦(「典礼暦」または「教会暦」)があり、キリストの神秘を、1年を通して思い起こしていく。教会の「1年」は、1月1日から12月31日でくくられるのではなく、「待降節(☆)第1主日」に始まり、「王であるキリスト」の祭日で終わる。
 たとえば、今年(2014年の大半)の1年は、その教会暦によると、2013年12月1日の「待降節第1主日」〜2014年11月23日の「王であるキリスト」の祭日となる。
 1年間、主日、祭日のミサを、ふさわしく捧げることができるよう、聖書の朗読箇所も定められている。できるだけ、聖書全体に渡って親しむことができるよう、主日のミサの朗読箇所は、A年、B年、C年の3年周期で繰り返され、週日のミサは、奇数年、偶数年の2年周期で繰り返されている。
 現在の1年間は、主日はA年にあたり、主に「マタイによる福音書」が朗読される。また、週日は偶数年(第1周年)にあたっている。
(☆待降節・・・降誕祭<クリスマス>に向かい、この世にいらしたキリストの降誕を思い起こし、また、終末のキリスト再臨への待望に心を向ける季節)
(参考)
・ 『カトリック教会情報ハンドブック2014』(2013年 p.93 カトリック中央協議会)
・ 「教会暦」(ウィキペディア) など
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※4:「イエスさま、他のたとえで、「その預かってるもの、ちょっと増やせよ」っていう言い方をする所もありますけど」
(参考)
*マタイによる福音書25章14〜30節
 →「『タラントン』のたとえ」(新共同訳聖書による小見出し)
*ルカによる福音書19章11〜27節
 →「『ムナ』のたとえ」(新共同訳聖書による小見出し)
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※5:「第1朗読」
本日(2014年10月19日〈年間第29主日〉)の福音朗読箇所
「イザヤの預言」
  45章1節、4〜6節
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※6:「癒やしのミサ」
いやしのためのミサ「おかえりミサ」
東京、信濃町の援助修道会で、2001年から続いている、晴佐久神父司式のミサ。
誰でも参加可能だが、特に、事情があって教会に行けない方、体や心の病などで癒やしを必要とする方、キリスト教に興味のある未受洗の方などを主な対象とし、癒やしの恵みを祈り求める。
***** Information *****
・日時 : 毎月第3土曜日(8月はお休み) 
       15時〜(途中参加可): 祈り
       16時〜 : ミサ
・場所 : 援助修道会 聖堂
・住所 : 東京都新宿区市谷田町2-24
・電話 : 03-3269-2405 (問い合わせは17時まで)
・メール: auxijapon@live.jp (件名に「おかえりミサ問い合わせ」と入れてください)
・HP : 援助修道会
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※7:「2行詩の日めくりカレンダー」
晴佐久神父の2行詩の日めくりカレンダーは、2種類出版されている。
☆ 『きっといい日』
  出版社: 女子パウロ会
  価 格: 864円(税込)
  ご購入: 「女子パウロ会オンラインショップ」「Amazon」「パウルスショップ」他、お近くのキリスト教書店などでお買い求めください。
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☆ 『あなたに会えて』
  出版社: 女子パウロ会
  価 格: 864円(税込)
  ご購入: 「女子パウロ会オンラインショップ」「パウルスショップ」他、お近くのキリスト教書店などでお買い求めください。(2014/10/26現在、Amazonでは在庫切れです)
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 また、カトリック多摩教会のホームページや、晴佐久神父@「福音の村」(ツイッター)でも、毎日午前0時、上記のカレンダーから日めくりを更新しています。
 よろしければ、お付き合いください。
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2014年10月19日 (日) 録音/2014年10月26日掲載
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