信じます!

2016年4月3日復活節第2主日(神のいつくしみの主日)
・第1朗読:使徒たちの宣教:(使徒言行録5・12-16)
・第2朗読:ヨハネの黙示(黙示録1・9-11a、12-13、17-19)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ20・19-31)

【晴佐久神父様 説教】(多摩教会から異動前、最終説教)

 いつもよりも、ちょっと力のこもった朗読を、まごころ込めて、させていただきました(※1)
 ・・・今日の説教、長いですよ。(笑) 覚悟していただきたい。昨日の土曜日の説教も、終わったのが、ミサが始まってから1時間近くになってましたからね。途中でトイレに立ちたい方はどうぞ。(笑)質問まで出ましたからね、昨日は。(笑)今日も、どうぞ、よろしかったら、質問のある方、お答えいたしますよ。

 やっぱり私、・・・しゃべりたいんですね。(笑) 本当は人前で話すの、苦手なんですよ。ホントにそう。でも、福音を語ると、人が救われちゃうんですよ。「ちゃう」っていうのも変ですけど。もうこれは、「1分余計にしゃべると、1人救われる」っていうんであれば、10分でも100分でも、しゃべりたくなりますよ。・・・これ、事実なんです。
 また、みんなそれぞれツボが違うんですね、「どこで福音を感じるか」っていうのが。だから、ああも言い、こうも言いして、いろいろしゃべっているうちに、いろ〜んな人が救われていく。これはでも、一司祭の話じゃなく、キリスト者はみんなそうあるべきなんです。
 やっぱり、「福音を語る」っていうのは、素晴らしいつとめ、・・・奉仕です。

 この説教壇で7年間、しゃべりまくってきました。私の説教は、カトリックにしては多少長い。20分から25分くらい。20分としても、1年間、およそ50週聴くと、千分になる。7年間聴き続けた人は七千分。つまり、7年で100時間以上、丸四日間、福音を聴いたことになります。「福音シャワー」みたいに、
 「あなたはもう、救われてるんだ!」
 「神さまは、あなたをホントに愛してるんだ!」
 「恐れるな!」
 ・・・そう、ず〜っと言い続けてきましたし、まあ、「もう、いいでしょう」っていうくらいね、皆さんには、福音を語り続けてまいりました。
 「晴佐久(ぶし)」とでもいうんでしょうか、徹底して語り続けたその福音の語り口は、皆さんの心のどこかに(とど)めていてほしいです。そして、七千分の果てにですね、最後の最後に、どうしても「言いたいことを言え」というなら、もうまさに、今日の福音書の箇所(※2)でしょう。
 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)
 ・・・イエスさまが、そうおっしゃった。それを皆さんに、きちんと最後に申し上げて、この説教の締めくくりとしたいです。
 「信じる者になりなさい
 最後の最後は、そこです。・・・「最後の最後」は。
 まあ、元気で暮らしてるときはね、「今日は教会にでも行こうかな」程度で済むんですけど、ホントに人生、山あり谷あり。試練のときがあるじゃないですか。病のときがある。死別のときがある。それこそもう、「神なんかいない」と、そう思いたくなるようなときが、必ずあるんですよ。そしてやがて、人生の最終コーナー、総決算のときが来るわけですよね。そういうときに、ホントに私たちを救うのは信仰なんです。
 もちろん、正確にいうと、救うのは「神」です。でも、神は、私がいつも言ってるとおり、すでに私たちを救ってるんですから、・・・もう、神さまは、今までも愛してきたし、今も救っているし、必要なことは、「ぜんぶ」しておられる。だから、最後の最後は、私たちの(がわ)で、魂の世界で、「信じます!」っていう、そのひと言なんですよ。その瞬間こそが、皆さんが生きている意味そのものですし、その信仰によって、他の人を救うこともできる。
 「私は信じます」・・・「あなたも信じましょう」と。

 もちろん、人間の信仰は不完全な信仰ですから、疑ったり恐れたりするこはあります。
 おとといの初金のミサ(※3)に、牧師先生が来られてました。その後、みんな一緒にお鍋を食べて信仰の話をしてたんですけど、牧師先生が「私、なかなか信じられないんです」とか言うんで、(笑) 隣に座ってた信者さんがびっくりして、「正直な方ですねえ・・・」って。(笑)
 でも、「正直」、そうでしょう。本当に正直に言うならば、「信じられない」。
 ・・・私もそう、皆さんもそう。信じてないでしょ? いや、もちろん、「信じよう」とは思っているし、信じた顔もしていますけど、じゃあ、「100パーセント信じてるか?」って言われて、迷いなく「はい」って言えますか? その牧師先生は正直で、私たちはあんまり正直じゃないだけで、同じでしょう。信じたような顔していながら、最後の最後は、信じ切れない私たち。
 だから、だからこそ、面白い言い方になりますけど、「信じてない」から、信仰が必要なんです。信じてない私たちが最後により頼み、勝負するのは、「信じます」のひと言。
 これをね、勝負どころで、きちんと、もうこうなったら(うそ)でもいい、清水の舞台から飛び降りる気持ちでもいい、「信じます!」ってね、最後の最後は、そう言えばいいんです。・・・まあ実は、それもまた、神さまが言わせてくださってるんですけどね。いつも共にいる復活のイエスさまが言わせてくださってるんですけどね。
 今日もイエスさまがここに来て、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)と、言ってくださいました。・・・今日の、私の説教だって、イエスさまが言ってくださってるんですよ。私たちのことを本当に愛しておられるから。
 皆さんが、いよいよ勝負のとき、ホントにつらいとき、「神さま、助けて!」って言う瞬間に、イエスさまが、必ずそこにおられる。鍵かけてたって、やって来るんだから。(cf.ヨハネ20:19,26) そして、目の前で、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい!」って言ってくださるんです。それは、目に見える姿、形じゃないでしょうけれども、皆さんの危機のとき、必ずイエスさまが、「信じる者になりなさい」って言ってくださる。
 そう言っていただいて、私たちは答えます。
 「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)
 ・・・これで、もういいんじゃないですか。これでもう、危機から救われます。
 そして、それを見ている人たちも、自分たちも「信じよう!」って思うようになる。
 皆さんの心の中の、「信じます!」っていうひと言が、どれほどすごいことか分かりますか。まあ、いうなれば、それをひとこと言うために生まれてきたようなもんですし、「これを言えば、死ぬに死ねる」っていうひと言ですし、「信じます」のひと言で、世界をつくっていけるんですよね。
 この教会家族も、そうして、「信じます!」って言って集まりましたし、また信じられなくなっても、それでも、「信じます!」って言って、・・・再び集まってくる。そういう家族でしょ?

 昨日の、最後の土曜日のミサにも、私が数年前に洗礼を授けた何人かが来てました。久しぶりにね。・・・せっかく洗礼を受けても、次第に来なくなっちゃう人もいるんですよ。でも、そうは言っても、昨日は私の最後の土曜日ミサだったので、もう一度「信じます!」って言いにやって来たようなもんですね。
 だって、こう言いましたもん、ミサのあと。
 「ミサから離れていてごめんなさい。今日、久しぶりにやって来ました。実を言うと、信仰が揺らいじゃっていて、こんな半端な気持ちでミサに行っちゃいけないのかなって思ってたんです」って。
 ・・・でもこれ、逆じゃないですか。
 「こんな信仰じゃあ、行っちゃいけない」じゃなくて、「こんな信仰だからこそ、行かなきゃなんない」でしょう。そして、ミサでみんなと声を合わせて、「天地の創造主、全能の父である神を信じます!」(「使徒信条」より)って言うしかないんじゃないですか。
 皆さん、教会から離れないでくださいね。私の、多摩教会での最後のミサに集まってくれた皆さんは、この教会家族から絶対離れてほしくない、大切な人たちです。
 私、今日は特に、大切な皆さんに申し上げたい。
 「信じます!」「信じます!!」ってね、これからも、毎週言い続けてほしい。
 繰り返し集まって、福音を聴き続けて、「信じます!」「信じます!!」、「信じてます!」「信じてます!!」って、人々にも言い続けて、みんなを招き続けてほしい。

 昨日の説教の最後に、「質問!!」って言った人がいてね、実は先唱をしている方(※4)でしたけど、・・・たぶん目の前にマイクがあるもんだから、(笑) つい、聞きたくなっちゃったんでしょう。
 「晴佐久神父さんもいずれ、天国に行くと思うんですけど、イエスさまにお会いしたとき、イエスさまから、『晴佐久神父、あなたが多摩教会で過ごした7年間で、一番うれしかったことは何ですか?』って聞かれたら、なんて答えますか」(笑) ・・・これ、巧妙な質問ですよね。(大笑) 絶対に嘘はつけない。
 な・る・ほ・ど、うまい質問の仕方があるもんだなと感心しましたけど、 私、「きっと、こう答えると思います」と、即答いたしました。
 「イエスさま、多摩教会のあの7年間で、何が一番うれしかったかは、あなたが一番よくご存じです」(大笑)
 ・・・まあでも、それだけじゃあんまりだと思ったので、一応、付け加えておきました。
 「イエスさま、言うまでもなく、あの7年間、あなたがこの私と一緒にいてくださったことです。あなたと働けたこと、あなたの(わざ)に協力できたこと、あなたに甘え、あなたに救われ、あなたと共に生きた、あの日々。・・・あなたが共にいた! それが、何よりもうれしかった。そんなこと、聞かなくったって、分かってるはずじゃないですか」
 もちろん今までずっと、イエスさまは共におられましたけど、私にしてみたら、この多摩教会での7年間は、本当に、・・・本当に一緒に働けたという実感があり、一層、「教会家族」という喜びを深く味わえた7年間だったんですよ。それは、皆さんもお感じになっているはず。
 ・・・だから、寂しいもんですよ。「教会家族」「教会家族」なんて言ってね、大勢みんなを集めて、みんなで一つの家族の喜びを分かち合って、「ああ、ホントに家族になったな〜♪」って思ったら、「パパ、さようなら〜!」って。(笑)・・・で、「別のパパが来るの!」(笑)
 ・・・寂しいもんですよ、そりゃあ。去っていくパパの気持ち、たぶん皆さん、分からないと思う。まあ、私は私で、「新しい家庭をつくります」って、(大笑)話ですけど。
 でも、この7年間は、やっぱりホントに「イエスさまと共にあった」っていう日々でした。
 その安心、信頼、喜び、それこそ、「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)と信頼し、感謝し続けたこの日々は、かけがえがない。これはだって、今もこうして目の前に、イエスさまのその働きの実りが現実に集まってるわけですから。

 だってねえ、この面々を見ていると、・・・ちなみに、この7年間にここで受洗した、あるいは転会した方、ちょっとお立ちいただけますか?(※5) (大勢の方が立ち上がる。聖歌奉仕グループはほとんど全員) ・・・これ、この7年間がなかったら、この聖歌奉仕グループ、壊滅ですね。(笑) 皆さんのお顔を見ていると、一人ひとりのいきさつを思い出しますよ。・・・素晴らしい。まさに、主のみ業。
 この人たちがそっくりいなかったら、今日、どんなに寂しい教会か。いなければいないで、「そういう教会なんだ」と思えばそれでもいいんですけれども、こうして皆さんがいるんですから。・・・さらなる仲間たちを集めましょうよと私は言いたい。
 特に立っている皆さん、ノルマがありますよ、ノルマが。(笑) 一昨日お話しした通り、3パーセントですよ、3パーセント。(笑) ・・・ありがとうございます。おかけください。
 一昨日、初金のミサで、私、説教したんです。
 「今年の復活祭に、大司教さまから、『各教会、所属信徒数の3パーセントの受洗者を出すべし』と、そういうお触れが出ましたよ」
 ・・・みんな「え〜!?」っていう顔をしてね。そこで、続けて申し上げました。
 「今日は4月1日、(笑) エイプリルフールです」と。(笑)・・・いつか説教でやりたかったんです。まあ、大司教さまがそんなこと言うわけないですよね。
 でもね、なんでそんなことを言ったかといえば、みんなの脳裏に、この「3パーセント」を刻み付けてほしかったから。やっぱり、それくらいは増えていかないと。
 これ、不思議なんですよ。どの教会でも、私、精いっぱい福音を語って、人々をお迎えしてますけれど、受洗者が、信徒数の3パーセントを超えないんですね。一度だけ、五日市教会で10パーセントだったことがある。ただし、五日市教会、そのころ70人の教会だったんで、(笑)その時、7人洗礼を受けたから、「10パーセント増えた」っていうのはありましたけど。他はどこでも、「3パーセント」なんです。千人の教会で、30人。
 多摩教会は今、1,200人ですから、3パーセントっていうと、36人。この前の復活祭、ここに並んだのが38名。・・・セーフ!(笑)
 この「3パーセント」を達成するためには、教会全体が本気にならないと、なかなか難しい。でも、みんながちょっとでも本気になったら、ガラリと変わる。3パーセントどころか、5パーセント、10パーセントだって、おかしくない。「数字のことをあんまり言うのは変だ」って思うかもしれないけど、今、日本のカトリック教会で、数字まで挙げて受洗者の話をしている教会は、まずないと思う。「3パーセント、がんばりましょう!」なんて言ってる所。
 ・・・しかし、多摩教会には、その可能性がある。今、立った人たちは、今は特に熱いからね、「自分もだれかを招こう!」って思うじゃないですか。また、立たなかった人たちも、この立っている人たちを迎えたっていう誇りを持ってね、「もっともっと迎えようじゃないか!」と、そう思ってほしいんですよ。それが、多摩教会の誇りというか、伝統というか、多摩教会の一番のアイデンティティーとして、「人々をどんどんと招き入れて、受洗者をどんどん増やす教会」、これをあくまでも追及してほしいと、心からそう思う。

 おととい、『キリスト教のリアル』っていう新刊書(※6)の出版記念感謝礼拝とトークイベント(※7)を、「日本福音ルーテル東京教会」っていう所でやって、大勢の人が集まったんですけど、私が礼拝でメッセージをしたんです。
 そこで、はっきり言いました。「『キリスト教のリアル』なんて本をつくってね、神父の暮らしがどうとか、牧師の生活がこうとかっていう、そんなことがね、キリスト教のリアルだと思ったら、それは違うでしょう」と。・・・まあ、自分が本の中で対談をしておいてそんなこと言うのも、編集者もそこにいるわけですから、申し訳なかったんですけど。
 でも、真の「キリスト教のリアル」っていうのは、人が実際に救われている現場のこと。それが一番の、「キリスト教」の「リアル」。そして、それは、あまりにも知られていない。
 ・・・さっき、立っていただいた人たちが、なぜここにいるのか。どのように苦しみ、どのように出会い、そのように救われたか。それが、本当の「キリスト教のリアル」。
 ですから、それを隠しちゃいけない。それこそ、イエスさまがなさった業ですから、そのリアルをみんなに語る、見せる、そして、みんなを救う。キリスト教の核心部分を、隠しちゃいけない。
 「あなたがたは世の光だ。ともし火をともして、(ます)の下に置くやつがいるか。それは、燭台の上に置くもんだ。そうすれば、部屋の中、ぜんぶを照らす」 (cf.マタイ5:14-15)
 特に、さっき立った人たち、そして、その人たちを迎え入れた人たち、・・・皆さん、輝かせてくださいよ、自分のリアルを。「信じます!」って叫んだその日のことを、そして、「救われた!」って涙を流したその日の喜びを、ちゃ〜んと語ってくださいな。みんなに明らかにしてください。・・・これはもう、ノルマですよ、ノルマ。
 3パーセントですから、信者33人のうち誰かが、年に一人、受洗者を連れてくれば達成できます。実際に、もう「今日からスタート!」っていうような気持ちで、ぜひ来年、多摩教会の最高記録を打ち立ててください。・・・ぎゃふんと言わせてくださいよ、ホントに。楽しみにしてますから。・・・ちゃんと見てますよ。「数字」って、調べりゃすぐ分かることですから。(笑)

 昨日、もう一つの質問が出てきました。
 「神父さまは、マリアさまのことを、どう思っていらっしゃいますか?」
 ・・・そういう質問でした。
 大変、聖母への信頼、崇敬の厚い方からの質問です。・・・私、こうお答えしました。
 「私にとっては、聖母はものすごくプライベートな分野で、なかなか聖母について語るのは、難しいです。まあ、公式の聖母の話は、入門講座なんかでもいたしますけれども、私個人としてどう思っているかは、実はすごくプライベートなことで、話しづらいんです」
 そう前置きをした上で、でも、昨日は打ち明けました。
 私にとって、「聖母」っていうのは、言ってしまえば実の母なんですね。・・・ほとんど重なってるんですよ。まあ、そう言える母を持てたのも幸いだなあと思いますけれども、10年前に亡くなった私の母は、私にとっての「聖母」でありましたし、亡くなってからは一層「聖母マリア」と重なりました。
 ひとことで言って、「聖母」っていうのは、甘える対象なんですね、私にとって。
 「甘える」っていうのは、全部受け止めてもらえるってことです。自分の一番弱いところ、一番情けないところ、誰にも言えない自分の一番悲しいところ、・・・それを母は分かっていて、受け入れてくれて、そして、そっと助けてくれて、見守ってくれて、いざというときは、完全に、自分のもとに受け入れてくれる。
 まあ、天の父がそのような存在であるっていうのが、イエスさまの教えですから、公式には天の父に祈る。でも、心の中ではですね、私はまあ、せっせと、いつも天にいる実母にですね、天の父への取り次ぎを願って祈ってるんですよ。だから、私にとって「聖母マリアに祈る」っていうことは、「自分の母に甘えて祈る」っていうことであり、「その取り次ぎによって天の父に祈る」ってことでもある。
 高円寺教会時代に母を亡くして、その2年半後にこの教会に来たわけですけども、それから丸7年の間、私はず〜っと、この母に助けられていた。ですから、私にとっての聖母の「リアル」は、自分の母を通して天の父に祈り続け、母に助けられて教会生活を送ってきた、そういうリアルなんです。
 ふと気づいたら、そうお答えした昨日、4月2日は私の母の誕生日でした。
 まあ、いつもいつも、母にはお世話になりっぱなしで、この7年間ず〜っと私、助けてもらってきたし、その意味では、「もしも私に感謝する気持ちがあるんであれば、私よりも、私の母に感謝してくださいよ」って言いたいくらい。母を亡くしてから来た初めての教会ですから、最初っから天の母に助けられていたわけで、あの母が、この教会を教会家族として育ててくれたんじゃないですか。
 実は数日前も、夜中に、母に、「ちょっと、これ何とかしてよ〜!」ってね、あることを一生懸命お祈りしてたんですよ。まあ働き者で、何でもちゃんとやってくれるんで。なんでも頼んじゃいます。きちんと感謝もしてないんですけどね・・・。まあ、天国に行ったら、感謝しますよ。・・・「母さん、ありがとねっ」(笑) 「あ〜ら、いいのよ〜」って言うんでしょうけど。
 聖母マリアは、私たちの信仰の模範。
 私の母、晏子(やすこ)も、私の信仰の模範。忍耐強く、「信じます!」と言い続けたキリスト者。
 特に試練の日々に、一番つらいときにこそ、「信じます!」と言って信じ続け、自分の家族のために働き、自分を犠牲にして奉仕し、そして、最後の最後、祈りのうちに微笑んで天に召されていったその母の「おかげ」という気持ちをね、まあ、7年間の総仕上げの日にね、ひとこと言っておきたかったです。

 え〜、もういいですかね。(笑) 教会委員長、何か質問は? (笑)
 (教会委員長ではなく、後方に座っておられた別の方が)「昨日は、今飼ってるセキセイインコの誕生日!」
 「インコの誕生日がいつだって?」
 「4月の2日!」
 「ああ、私の母と同じ4月2日が、セキセイインコの誕生日なんですね?」
 「かわいいです〜♪」
 「そう、記念日ですね。記念日っていうのは、ホントに大切にしましょうね。そのセキセイインコがこの世に生まれた日、それは神さまの喜びの日ですし、そして、あなたの喜びとなった。あなたを、励まし続け、今日も、生きる支えになってるんでしょ?」
 「なってます! かわいいです♪」
 「神さまが、4月2日に特別なことをしてくださったんです」
 ・・・「誕生日」って、そういう特別な日でしょう。私が最初にここに来た日、私は皆さんの顔を、ぜんぜん知らなかった。私にとって、まさに、まっさらに誕生したような日です。それは、神さまのみ業の始まりの日。そして、その後7年間、一人ひとりと、こうして時間を重ねてきて、今はもう、どの顔見ても分かる。そして今日が、最後の記念日。新しいみ業の始まる日。
 神さまがなさっておられる業は、本当に偉大です。節目節目に、必ず、尊いことをしてくださる。私はそう信じて、いろんなイベントもしてまいりましたし、今日も、この最後のミサで、神さまが特別の祝福をくださっていると、固く、そう信じます。
 今日の祝福、霊験あらたかですよ。(笑) ミサの最後に派遣の祝福をしますからね、最後ですから、閉店セールみたいにドーンと、(笑)与えられた力をぜんぶ出し切ってね、そして、さわやかに、「あとは、本当に神さまが働いてくださいますよ」と申し上げて、ここを去っていくことにいたしましょう。
 皆さんには、心から感謝しております。・・・そして、心からお詫びしております。
 でも、もうゆるしてあげてくださいね、あれやこれや、ぜんぶ。
 先ほどイエスさまも言ってました。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」(ヨハネ20:23) (笑) 晴佐久の罪も、あなたがたが赦せば、赦される。
 「赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハネ20:23) ・・・赦し合いましょうね。赦せない人がいる人、赦しましょうね。
 「あなたがたに平和」(cf.ヨハネ20:19,21,26)っていう、このイエスさまの平和が、この教会に満ち満ちるようにお祈りいたします。

 さて、晴佐久神父最後のひと言を、よく覚えといてください。・・・最初にも言ったことです。
 「信じます!」っていうひと言です。
 いざっていうときに、・・・それ、必ず来ますから、そのときに、思い出してください。
 「どうしよう、ああもう、おしまいだ〜!!」って思ったとき、思い出してください。
 「なんか方法があったな、・・・なんだっけ?・・・そうだ、晴佐久神父が教えてくれたじゃないか。『信じます!』って言えばいいんだ。・・・信じます!」
 ・・・信仰って、すごいんですって。
 「救われていることを信じます!」と言えたとき、救いを知るんです。
 ふだん、信じられてなくてもいいです。それは、みんな一緒。牧師も神父も一緒。でも、いざっていうとき、「最後はそれしかない!」っていう身構えをしてるっていう意味では、私はいつも、怠らないようにしてるつもりです。
 「今は迷ってるけど、いざっていうときは、命がけで、『信じます!』って言うぞ」
 ・・・身構えていれば、出てきますから。一番つらいとき、神さまが、そのとき、
 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)って言ってくださいます。
 私たちは答えます。
 「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)
 ・・・そこが天国の始まりですよ。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「ちょっと力のこもった朗読を、まごころ込めて、させていただきました」
 この「朗読」は、
福音書の朗読のこと。
 カトリックのミサは、1.開祭 
2.ことばの典礼 3.感謝の典礼 4.閉祭 の順に進められる。
 「2.ことばの典礼」では、聖書朗読(第1朗読、第2朗読、
福音朗読)、説教、歌や信仰宣言、祈りなどを行うが、中心は、助祭(または司祭が行う)福音書の朗読(福音朗読)で、イエスの生涯のさまざまな出来事を、一年かけて記念していく。通常、この朗読の後、司式司祭の説教が行われる。
(参考)
・ 「ことばの典礼」p.20-23(2006年『ともにささげるミサ-ミサ式次第 会衆用-改訂版』オリエンス宗教研究所)
・ 「ミサについて」(カトリック東京大司教区>ようこそカトリック教会へ)
・ 「ミサの式次第-ことばの典礼」(ウィキペディア)など
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※2:「今日の福音書の箇所」
2016年4月3日(復活節第2主日〈神のいつくしみの主日〉)の福音朗読箇所
 ヨハネによる福音書 20章19〜31節
  〈小見出し:「イエス、弟子たちに現れる」20章19〜23節、「イエスとトマス」24〜29節、「本書の目的」30〜31節〉
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※3:「初金のミサ」
◎初金曜日 [英]first Friday
 「初金」とは、月の第1金曜日のことを指す。
 イエスが十字架上で、ご自分をあますところなく奉献してくださった聖なる金曜日を記念し、また、示してくださった神の愛に賛美と感謝を捧げることは、初代教会から大切にされてきた。
 特に月の第1金曜日には、聖体の前で祈ったり、ミサに与って聖体拝領をしたり、また、犠牲を捧げたりすることは、「初金」の信心として、カトリック教会の伝統にもなっている。(文中へ戻る
===(もうちょっと詳しく)===
 さらに、以下のような伝承もある。
 「初金」の信心は、聖女マルガリタ・マリア・アラコックが、1675年の聖体の祝日後の日曜日にイエスの出現を受け、その際の「12の約束」に基づくとされる。いわく、毎月第1金曜日のミサで、9回連続して償いのために聖体拝領をすることにより、もし、秘跡を受けられなくても、罪の中で死ぬことはなく、聖心(みこころ)に受け入れられるというもの。
********
 カトリック多摩教会では、「初金のミサ」は、月の第1金曜日の午前10時から。
 また、ミサ後には、「初金家族の会」という集いも行っている。毎月さまざまな企画のもとに集まっているが、この日は、参加者それぞれが具材を持ち寄って、お鍋を囲んだ。
(参考)
・ 『カトリック大辞典』(研究社)
・ 『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2008)
・ 「初金曜日」(ラウダーテ)
・ 「初金(はつきん)の祈りの集いとは」(聖イグナチオ教会の「初金の祈りの集い」)
・ 「初金家族の会」(カトリック多摩教会)
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※4:「先唱をしている方」
◎先唱者(せんしょうしゃ)
 ミサをはじめ、その他の祈りや儀式においては、会衆が全員で祈りを唱えるだけでなく、一人が祈りの導き手として、祈りを「先」に「唱」えるというかたちをとることも多い。その役目の人を、「先唱者」という。
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※5:「この7年間にここで受洗した、あるいは転会した方、ちょっとお立ちいただけますか?」
 
① 立ち上がった大勢の方々(都合によりモザイクをかけています)
② 聖歌奉仕グループは、ほぼ全員が起立
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※6:「『キリスト教のリアル』っていう新刊書」再掲
◎ 『キリスト教のリアル』
出版社: ポプラ社(ポプラ新書 081)
発売日: 2016年3月1日
単行本: 221ページ
定 価: 842円(税込)
編 著: 松谷信司
〔1976年福島県生まれ。厳格なクリスチャン(改革・長老派)のもとで育つ。キリスト新聞社取締役。「キリスト新聞」編集長。季刊「Ministry」編集長。「いのり☆フェスティバル」実行委員会代表〕
(参考)
ポプラ社(ポプラ新書「081」)
Amazon
イーショップ 教文館
クリスチャントゥデイ(書評)
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※7:「出版記念感謝礼拝とトークイベント」
◎『キリスト教のリアル』出版記念感謝礼拝
開催: 2016年4月1日19:00〜20:00
場所: 日本福音ルーテル東京教会(東京都新宿区大久保1-14-14)
主催: 松谷信司(同書籍の編著者)
※『キリスト教のリアル』(ポプラ社)の出版を記念し、本の中でも、座談会をしている3人の牧師と1人の神父が招かれ、感謝礼拝とトークイベントが行われた。
 感謝礼拝の司式は、関野和寛牧師(日本福音ルーテル東京教会)、聖書朗読は、川上咲野牧師(日本基督教団原宿教会)、賛美独唱は、森直樹牧師(牧会塾ディレクター)、メッセージは、晴佐久昌英神父(カトリック東京教区司祭)。
 トークショーには、上記の4人に、編著者の松谷信司氏と、ポプラ社の大塩大(まさる)氏が加わった。
(参考)
・ 「牧師と神父が『キリスト教のリアル』語る 『今の教会、このままで良いのか?』」(クリスチャントゥデイ)
・ 「キリスト教のリアル」(個人ブログ:「新佃島・映画ジャーナル」)
・ 「松谷信司『キリスト教のリアル』を読んだ」()()()()()()(個人ブログ:「一キリスト者からのメッセージ」)
松谷信司『キリスト教のリアル』ポプラ社 (ツイッター:松谷信司氏) 他
*******
・ 「『キリスト教のリアル』 出版記念感謝礼拝&トークイベント」(YouTube)
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【 特別付録 】
この日のミサと、その後、引き続き、聖堂内で行われた晴佐久神父を送る会の写真をご紹介します。

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2016年4月3日 (日) 録音/2016年4月14日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英