大切なものは「ここ」にある

【カトリック上野教会】

2016年9月11日 年間第24主日
・ 第1朗読:出エジプト記(出エジプト32:7-11、13-14)
・ 第2朗読:使徒パウロのテモテへの手紙(テモテ1-12-17)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ15・1-10)(または15・1-32)

【晴佐久神父様 説教】

 「無くした銀貨のたとえ」っていうのを(※1)読んでいて、つい先日、BSで見たテレビ番組を思い出しちゃいました。皆さんはもうご存じでしょうけど、当教会に有名なコインのお店をやってる方がおられて、いつもテレビにも出ていらっしゃるんですね。コインの専門家、鑑定家です。その方が出演しておられました。
 番組では、コインの収集家が、ご自慢のお宝を披露するわけですが、それをこの鑑定家が、これはどんなに素晴らしいものかって解説したりする、そんなような番組でした。
 それにしても、あの、コインを収集している人の、何ていうんでしょう、・・・うれしそうなこと! まあ、世界中の珍しい貨幣を集めていて、それがご自慢なわけです。で、仮にですね、もしも、自分の一番大切にしている一番貴重なコインがなくなったとするならば、真っ青になって、そりゃあもう、必死に捜すでしょう。それは容易に想像できます。その人にとって、それがどれほど価値があるかっていうことによって、捜すモチベーションも変わってくるんじゃないですか。

 イエスさまのたとえ話の中の「銀貨」って、これ、この人にとっては、相当価値あるもののはずです。この女性が持っていたのは、「ドラクメ銀貨10枚」(ルカ15:8)ですから、どうでしょう、1枚、1万円くらいですかね(※2)。その「銀貨10枚」っていうんだから、まあ、10万円ってとこです。・・・これは普通の家庭にとっては相当貴重でしょう。皆さんも、どうですか? 引き出しに10万円入れておいて、1万円がなくなってたら、どんな感じですか? 「まあ、1万円くらいなくなっても、別になんてことはないわ」って、ろくに捜さない。・・・そんなこと、あり得ないですよね。おそらく、引き出しぜんぶ引き抜いてでも捜すんじゃないですかね、裏に落ちてないかって。
 この「必死さ」です。イエスさまのたとえの中心は、その「必死さ」です。捜す側が、どれほど真剣か。モチベーション高く、必死に捜すか。それは、逆にいえば、どれほど、その失ったものの価値が高いか。あるいは、なくした人が、どれほど、その価値が高いと思っているか。
 ・・・言うまでもなく、「神さまが、どれほど私たち一人ひとりを『価値あるもの』と思っているか」と、そのことですね。
 「いいや、私はそんな価値がない。私には銀貨一枚の価値もない」って、もしそう思ってるとしたら、それは間違いです。仮にあなたはそう思ったとしても、所有者の(ほう)にしてみたら、それを大切に守ってきた方にしてみたら、「いいや、一枚くらい」とは、絶対言わない。
 ・・・守ってきた方にしてみたら、どれほど価値があるか。
 それでいうなら、「10枚と1枚」じゃなくて、この「99匹と1匹」の方が(※3)、余計に分かりやすいわけですね。だって、「99匹いれば、もういいじゃん」って思っちゃいがちですから。・・・ものによってはね。だけど、羊飼いにしてみたら、1匹がわが子同然ですから、わが子がいなくなって、「まあ、一人くらいなら、いなくていいや」っていう親はいない。・・・必ず捜し出すわけでしょ。
 なんか、いうこと聞かないわが子を、お仕置きで、山の中に置いてきちゃったって話がありましたね(※4)。夏の前でしたか。・・・親はすぐに戻ったんだけど、いなくなっちゃった。当然、必死に捜し回り、騒動になりました。結果的には見つかってよかったんですけど、親はどれだけ心配し、後悔したことでしょう。「まあいいや、あんな子は。言うこと聞かないんだから、いなくなったってしょうがない」、そうは言わない。・・・決して言わない。
 「もうこの家、出ていきなさい!」とか、「そんな子、うちの子じゃありません!」とかって、怒った親が言ったりするのは、これは建前ですね。本音は違う。本音は、そうは言っても、「ホントにいなくなったら困る」って思ってるわけで、「出ていきなさい!」って言ってる親は、本音じゃないですよね、建前です。

 神さまにも実は、「本音」と「建前」があるってご存じですかね。第1朗読(※5)なんか、そんなような話ですよ。
 第1朗読を読んで、「なんか変だな」って思いませんか?
 神さまが大切に育てている民なのに、まあ、民の方はその神を忘れているわけですね。いうことを聞かないわがままっ子みたいなもんです。道からそれて、神を忘れている。で、神が、
 「いやもう、この民はどうしようもない。おれは怒った。滅ぼそう」って言う。
 そうするとモーセっていう預言者が、
 「いやいや神さま、あなたが生んで、大切に守り育てた民じゃないですか。あなたが、この民を救いに導くと約束したじゃないですか。滅ぼし尽くすなんて、そんなこと言わないで、思い直してくださいよ」ってなだめる。
 すると神さまは、
 「そうか。じゃあ、やめておこうか」って思い直した。と、まあ、そういう話ですよね。 (cf.出エジプト32:7-14)
 ・・・変な話ですよね。全能の、愛である神さまがですよ、怒って、「滅ぼし尽くそう!」って言うのも変だし、「いやいや、そうはおっしゃらずに・・・」って言われただけで、「そうかぁ? じゃあまあ、今回はやめとこうか」って思い直したってのも変。
 これはやっぱり、「本音」と「建て前」の話ですね。
 「なんて恩知らずな民なんだ! このわたしを忘れてるのか。わたしがどれほど愛しているのか、思い出してくれよ」
 ・・・これが、本音。
 「わたしを忘れるんだったら、どうなっても知らないぞ! 滅ぼしちゃうぞ!」
 ・・・と、これは、建前。決して、本音ではそんなこと思ってない。われわれは、それに気づいていくべきなんですよ。・・・成長してかなきゃ。いろいろ言われることで育てられながら、「神さまの本音」を知ってかなきゃ。
 そりゃ、親は、小さい子どもには建前を言いますよ。私だって小さいころ、父親から、「言うこと聞かないなら、もう出ていけっ!」って言われて家をほっぽり出された。でも、子ども心にも、ちゃんと親の本音は知ってますから、本気で言ってるとは思わない。「どうせ、すぐにゆるしてもらえるに決まってる」って分かってるから、「出ていきなさいっ!」って言われても、「は~い♪」って出てって、遊び回ってるわけですよ。
 だから、そこはだんだん父親も分かってきて、「出ていきなさいっ!」って言って、私の服をぜんぶ脱がして放り出すんです。(笑) ・・・ホントですよ。素っ裸じゃあ、遊びに行けないじゃないですか。恥ずかしいから、家の前で、じっとしゃがんでる。すると、ほどなく母親が出てきて、「もうお父さん怒ってないから、お入りなさい」って、入れてくれる。
 ・・・「本音」、それを知ることが、信仰の成長です。
 神さまの本音、これをだんだんに知っていく。私だって、子ども心にも、親の本音を知ってたわけです。でも、もっと小っちゃいころは知らなかったんじゃないですか。叱られて、怖くて、言うことを聞く。でも、だんだん、「子の親は、必ずゆるしてくれる」、あるいは、「自分のことを愛してるからこそ叱ってるんだ」、そして、「仮に、自分が本当に、どうしても親の言うとおりにはできなかったとしても、アウトにはならない。むしろ、どうしてもできない、そんな自分のことを、ホントに心配しながらも、愛して、育ててくれてるんだ」という、その本音を、だんだんと知っていく。
 第1朗読は旧約聖書ですから、まだ、この「神さまの建前」を取り次ぐ預言者がいて、それを聞いて恐れる民がいてっていう、その意味では、まだ幼い民なわけですね。でも、福音書は、これはもう、新約聖書。信仰が成長して、神の本音に目覚めた神の民ですから、「イエスによって、ホントに私たちは神の子であることを知ったし、絶対にこの私を見捨てないというのが、神の本音なんだ」っていう、まあ、この「本音」を知った者、知るべき者として、このイエスさまのたとえも読むべきですね。
 決して(・ ・ ・)見捨てない。
 何があっても捜し出す。
 「ああ、もういいや。1枚くらいなくっても・・・」っていうことは、あり得ない。
 でも、なんだかぼくらは、小さいころから見捨てられたり、裁かれたり、受け入れてもらえなかったり、嫌われたりと、そんなことを繰り返しているうちに、神さままでもがそんな方だと思い込むようになっちゃってる・・・のかもしれない。
 ・・・成長しましょう。イエスさまに成長させていただきましょう。

 まあ、逆にいえば、成長することで、この世に完全を求めるのもやめましょう。この世はね、親であれ友人であれ、あなたを完全には受け入れませんよ、言っときますけど。この世のどこにも、そんなとこない。「あなたをすべて受け入れます」と誓い合った夫婦でさえ、まあ、本音はどうだか。(笑)
 「本来、人間はそんなもんだ」っていうところから始めるべきじゃないですかね。むしろ、私たちが、「決してあいつは受け入れられない」とか、「もう自分なんかは役に立たない意味のないものだ」とか思って苦しんでいるときにこそ、決して(・ ・ ・)そう思わない方の、その究極の本音を、ぼくらは知るべきです。それに目覚めて安心することを「回心」っていうんですよ。
 「もう悪いことしません」とかね、そんなこと、「回心」じゃない。ちなみに、「もう悪いことしません」なんて言っても、必ず皆さん、します。(笑) ・・・100パーセントします。だから、そんなものは「回心」とは呼ばない。むしろ、「悪いことをどれだけしようとも、100パーセント見捨てない方に目覚めていくこと」、これを「回心」っていうんですよ。

 ぼくらは、このたとえ話を読んでいて、やっぱり本当に感謝すべきは、われわれは、「見つけてもらう側」なんだっていうことなんですね。
 このたとえ話をよく読むと、面白いなと思うのは、「見つけてもらう側」は、「さあ、見つけてもらうぞ!」って努力してないんですね。まあ、羊だったら、少しはウロウロして、「メ~、メ~」くらい鳴いたかもしれないけど、そんなんじゃ見つけてもらえないからこそ、見失われてるわけですから。これ、変な言い方、「見失った側」に責任があるんであって、なんでなかなか見つからないかっていうと、もうその羊は憔悴しきって、うずくまって、絶望してるからでしょう。「自分は群れから離れちゃった。もう自分の力ではどうすることもできない。もしかして羊飼いからも見捨てられたんじゃないか」、そう思って、恐怖の中でじっとしてる。・・・だから、余計に見つからない。
 銀貨に至っては、「メ~」も言えませんからね。ただ、じ~っとほこりにまみれて、見つけてもらうのを待ってるだけ。これ、ぜんぜん能動的じゃないですよね。
 これ、よく、「悔い改めれば神さまが喜んでくださる」みたいな話に思い込んでる人がいますけど、よくよく読んでみたら、私がこの「一枚の銀貨」だとするなら、自分がどっかに落っこっちゃったのは、自分のせいじゃないんですよ。何のせいかはともかく、「一人ぼっちになっちゃった。もう役に立たない」って思い込んでいる。一方では、そんな孤独、そんな絶望を、必死に捜し求める方がいる。そしてその方が、そんな私を見出して抱きかかえたとき、「大きな喜びが天にある」(ルカ15:7)と、そういうたとえなんです。
 そもそも、さっきの第1朗読じゃないですけど、神さまが見つけられないはずはないわけですよね。そうすると、この「見失われた銀貨」は、実は、神さまがちゃんと私のことを見出しているし、見守っているし、・・・にもかかわらず、自分はほこりまみれで「見失われたと思い込んでいる(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)銀貨」のたとえなんじゃないですか? そう読まないと、つじつまが合わないですよ。よく読んでくだされば分かります。
 神さまが自分の責任でなくしちゃった。「どこだ、どこだ」・・・「ああ、見つけた! よかった、よかった♪」と、それだけの話だったら、銀貨は別に、いいも悪いもないですよね。やっぱり、ぼくらは、見失われたと思い込んでいる(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)んです。その思い込んでる点においては、ある意味責任がある。
 羊飼いは、決して見失ったり、見捨てたりはしません。私たちが勝手に、神さまの愛から離れちゃってる。神さまの愛を見失ってる。自分は神さまから見捨てられて失われた存在だと思い込んでいる。・・・で、そんなとき、「いや、そうじゃないんだ」と気づく。その瞬間、「大きな喜びが天にある」 (ルカ15:7) 。・・・そういうことじゃないですか?
 こんなにひどい民だけれども、その民が、神を忘れ、「こんな俺たちなんか、もうどうでもいい!」みたいに投げやりになってるとき、預言者は忍耐強く、「それでも神さまは、こんな民をゆるしてくださる」「もう一度、神さまを思い起こして・・・」って諭し、民がその神の愛に目覚めた瞬間、天では、「ああ、やっと気づいてくれたか!」って、ものすごく喜んでる。・・・そういうたとえでしょう。

 皆さんは、見失われていません。
 考えてみたら、そもそも、銀貨も羊も、新しく得たものではありません。「101匹目を見つけました」っていう話じゃない。100匹いたのが、1匹いなくなったけれど、見つけ出して元に戻った。「11枚目の銀貨を見つけました」っていう話じゃない。そもそも10枚あったのが元に戻ったんです。
 私たちは、そもそも神さまのものです。そこから離れて生きていくことはできない。なのに、離れていると思い込んで、がっかりしたり、恐れたり、・・・何でしょう、自分勝手なことばっかりで、焦ったり、混乱したり、しまいには、人を責めたりし始める。・・・これが「見失われた銀貨」「失われた羊」の真実じゃないですか。
 大体、「なくしもの」っていうのは、そんなに遠くにないですよね。実は、私たちは神さまのポケットの中にいるし、実は、神さまは私たちを決して肌身離さず、・・・何でしょう、首から掛けてるような、そんな存在なんですよ。

 この前、島のキャンプしましたけど、「物をなくす」ってのが、ホントに大問題。キャンプ、何十人もいますし、ごった返してますから、物がなくなるんですよね。なくなったら、なかなか出てこない。一番出てこないのが、「だれかが、自分の物だと思って自分の荷物にしまっちゃった」っていうケースですね。(笑) これ、絶対出てこない。たいてい、東京に帰ってから、「あっ! これ、私のじゃなかった」って思って、ようやく出てくるみたいな。・・・あれは出てこない。だから、だれかが「なくなった」っていうとき、私よく言うんです。「皆さん、自分の荷物をもう一回、それぞれ確認してください。自分のじゃない物、入ってませんか?」と。
 それがタオルだ、帽子だくらいだったらいいんですけど、昔、無人島に渡るときに、ゴムボートのキャップが一つなくって、渡れなかったってことがありました。ホントに小っちゃなキャップ一つなのにね、どうしても見つからない。そうすると、もう渡れません。ゴムボート、膨らませられませんから。それ以降は、「船の上で膨らませるのはもうやめよう」って言って、膨らませたのを持って行くようにしてますけれども。・・・なくしもので命にかかわることがあります。
 でも、なくなったものって、たいてい、身近にある。今回も、なくしもの名人が一人いて。その彼ね、・・・そう、今日来るんですよ。今日の夜、この教会でキャンプの打ち上げがあるんですね。そこで、島での動画の映像を流したりもするんですけれど、その映像を撮ってるカメラマンです。
 このカメラマン、いいやつだし、私はもう大好きですし、楽しくってね、ホントに一緒にいて面白いやつなんですけれども、大~きな欠点がある。ま~あ、物をなくす、忘れる。ちょっと私も似てるから、共感はするんですけれど、注意欠陥系のタイプです。
 かつて、まだ「ドローン」なんていわれてない時代に、私は「あの島を空から撮りたい」って言って、あのころ、何とかヘリコプターって言ったかな、まあ、それを、高い金出してね、買って飛ばしてもらって、動画を撮ったことがあるんです。・・・でも、彼が充電の接続ケーブルを忘れて充電できず、飛ばしてたら電池切れで、海ポチャ。おかげで1台失ったことがあるんですよ。その彼、今回も「カメラのバッテリーがなくなった」って大騒ぎしてました。
 それどころか、帰る日になって、もう合宿所を出るという時なって、「財布がない、財布がない」って大騒ぎするんです。もうフェリーが出る時間は近づいてますし、「ど~しよ~😱」って、みんなで大騒ぎして捜し回った。引き出し開けたり、トイレの中までのぞいたり。それから、よくあるじゃないですか、「実はポケットに入ってました」とか、「バッグの中に入ってました」とか。「なんでこんな所に?」ってとこに無意識に入れちゃったりもすることもあるから、「身近にあるんじゃないの? だいたいなくした物って近くから出てくるでしょ。よく捜して」って言ったんだけど、・・・ない。もう全身捜し、バッグの中をぜんぶ捜してもない。どこにもない。でもフェリーの出る時間は近づいてる。
 それで、いよいよ、「よ~く思い出してみて。最後に見たのはいつ?」って言ったら、
 「これだけはなくしちゃいけないと思って、ずっと手で持ってた」って言うんですよ。(笑)
 「じゃあ、それ、どうしたの?」って聞いたら、
 「・・・どっかに置いた気がする」って言う。
 「そのとき、何してた?」
 「東京に送り返す荷物のパッキングしてた」
 「・・・!」
 「じゃあ、そのパッキングした段ボールのガムテープ、剥がしてみて」
 で、ガムテープをビーって剥がしたら、中に入ってた。(笑)
 大騒ぎして探してた時に、ずっと目の前にあった、段ボールの中です。
 ・・・いやはや、まあ、なくしたものってね、別にブラックホールに入ったわけじゃない。必ずどっかにあるんですよ。面白いですね。しかも、・・・身近にある。一番身近に。

 ぼくらは、何かこう、「神さまから見失われた」とか、あるいは、「もう自分の夢は見失った」とか、「自分はもう愛されない存在だ」とか、あるいは、「もう人を愛せない」とか、まあ、いろいろ言いますけれども、実は、最も大切な答えは、もうすでに自分の中にあります。
 「自分は愛されている」
 「自分は人を愛することができる」
 地の果てに捜しに行く必要がない。大切なものは、「ここ」にあるんです。あとはそれに気づくだけ。目覚めるだけ。
 神さまは、この私を、決して(・ ・ ・)見失わない。神さまの大切な大切なバッグの中に、もう入っている。でも、ぼくたちは、私たちは、「神を見失った」と思い、「こんな恐ろしい出来事の中で、もう希望はなくなった」と思っている。そうだとするならば、「回心」が必要です。
 ・・・その回心は、「目覚める」という回心。「気づく」という回心。

 この夏もいろいろあって、私もしょげることが多かった。ちょっと自信をなくしかけてもいたし、疲れてたせいもあって、なんとな~くテンションが低かった。「元気出さなきゃ、秋、始められないのにな・・・」って思っていたときに、数日前、夢を見たんですよ、父親の夢を。・・・あれ、面白いですね。父親は、もう死んで38年ですかね。私が21のときに50で死んでますから、もうめったに夢にも出てこないのに、今まで、この38年間に見た夢の中で、最も鮮明な父親の夢だった。しかも、最も間近にいる夢。
 私が車に乗って、出発しようって時に、助手席側の窓の外に父親が立ってるんですよ。・・・で、面白いですねえ、夢って。「ああ、死んだはずなのに」って絶対思わないんですよね。あれ、不思議ですよね。・・・そこに、ただいる。で、「あっ、父さんだ!」。なぜかすごくうれしかった。で、「父さん!」って言ったら、じっと、真正面から私のことを見てるんですよ。優し~い目でね、穏やか~な顔で、じっとこっちを見てる。何もしゃべらない。で、また「父さん!」って言ったら、手を伸ばして、窓は閉まってるはずなのに、こうス~ッとね、手を伸ばして、車の中に手が入ってくるんですよね。で、私はその手をぎゅっと握る。
 ・・・それだけの夢なんですけど、間近に正面から人の顔を見る夢って、あんまりないんじゃないですか? 真正面から、「あっ、父さん!」って。だから、強烈な印象でした。
 その優しい(おも)ざしが、ホントになんかうれしくって、起きてから、いろんな人にね、「父の夢見た、父さんの夢見た」って言って回ったんですけど、なんかうれしかったんです。
 そのまなざしが、「見てるよ、ちゃんと」みたいな感じで。「天と地は、ちゃんとつながってるよ」っていう証のようなまなざしにも思えて。「お前はなんだかしょげてるけれども、だいじょうぶだ。何の問題もないぞ」って言ってくれてるような。「安心しなさい。すべては神さまの御手(みて)のうちにあるよ」って語りかけてくれているような・・・。
 まあ、息子のこと、やっぱり好きなんですね、彼はね。
 「ここ」っていうところでね、鮮烈な夢に出てきちゃって。ひと言も言いませんでしたけれど、あんなに、見てて安心する父親の顔、生きてたときだって、見たことないんじゃないかっていうような。・・・すごく、なんか、ホッとしました。

 どうぞ皆さん、今、目の前に、天の父のみ顔をですね、仰ぎ見てください。
 皆さんをあたたかく見つめておられますよ。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「『無くした銀貨のたとえ』っていうのを」
 この日、2016年9月11日(年間第24主日)の福音朗読で読まれた「たとえ話」の一つ。
 福音朗読は、以下の箇所が読まれた。
  ルカによる福音書15章1~10節(または15章1~32節)
  〈小見出し:「『見失った羊』のたとえ」15章1~7節、「『無くした銀貨』のたとえ」8~10節〉
    ***「『放蕩息子』のたとえ」11~32節は、典礼では朗読が長くなるので割愛 ***
===(『無くした銀貨』のたとえ:聖書該当箇所)===(ルカ15:8~10)
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」 (ルカ15:8~10/赤字引用者)
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※2:「『ドラクメ銀貨10枚』(ルカ15:8)、 ですから、どうでしょう、1枚、1万円くらいですかね」
★ ドラクメ銀貨(ギリシアの銀貨で、1日の賃金に相当):1ドラクメは、およそ1万円と考えればよい。
*****
=== 「ドラクメ」との比較と、新約聖書参考箇所 (比較:1ドラクメ=1万円と考えた場合) ===
1レプトン(1/128ドラクメ=78.125円)/ギリシアの銅貨で最小単位 (マルコ12:42、ルカ12:59)
1クァドランス(1/64ドラクメ=156.25円)/ローマの銅貨 (マタイ5:26、マルコ12:42)
1アサリオン(1/16ドラクメ=625円)/ギリシア・ローマの銅貨 (マタイ10:29、ルカ12:6)
1デナリオン(1ドラクメ=1万円)/ローマの銀貨。ドラクメと等価(マタイ18:28、黙示録6:6)
1スタテル(4ドラクメ=4万円)/ギリシア・ローマの銀貨 (マタイ17:27/フランシスコ会訳)
1ムナ(100ドラクメ=100万円)/ギリシアの銀貨 (ルカ19:13)
1タラントン(6000ドラクメ=6千万円)/ギリシアで用いた計算用単位 (マタイ18:24)
(参考)
・ 「度量衡および通貨」(『聖書-原文校訂による口語訳』フランシスコ会 聖書研究所、2011年)
・ 「新約聖書の通貨単位まとめ」(JCFC/日本聖公会)
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※3:「『10枚と1枚』じゃなくて、この『99匹と1匹』の方が」
 「10枚と1枚」は、「『無くした銀貨』のたとえ」(ルカ15:8~10)で、銀貨を10枚持っている女が1枚をなくした話。
 「99匹と1匹」は、「『見失った羊』のたとえ」(ルカ15:1~7)で、100匹の羊を持っている人は1匹を見失った話。
===(『見失った羊』のたとえ:聖書該当箇所)===(ルカ15:4~7)
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ15:4~7/赤字引用者)
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※4:「いうこと聞かないわが子を、お仕置きで、山の中に置いてきちゃったって話がありましたね」(既出)
 5月28日、北海道七飯町(ななえちょう)の山林で、小学2年生の少年が、「しつけのため」と両親に置き去りにされ、その後行方不明になった。警察、消防、陸上自衛隊も出動して捜索したが、なかなか見つからず、6日後の6月3日、直線距離で6キロ離れた自衛隊の演習場で、無事保護された。このニュースは連日、新聞、テレビ、インターネットなどで、大きく取り上げられていた。
(参考)
・ 「北海道七飯町・置き去り事件で不明の男児を無事保護、両親に笑顔見せる【UPDATE】2016/6/3」(THE HUFFINGTON POST)6/6、9/13閲覧
・・ 「なんとかしてあげたい」(「福音の村」2016/6/5説教)/最初の段落
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※5:「第1朗読」
この日の第1朗読箇所は、以下のとおり。
  旧約聖書続編:「出エジプト記」32章7~11節、13~14節。
   〈小見出し:「金の子牛」32章1~35節から抜粋〉
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2016年9月11日 (日) 録音/2016年9月30日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英